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武運が避けていくよな人生さ
軽巡洋艦「木曽」は、球磨型5番艦にして1921年5月4日三菱長崎造船所の生まれ。同じ球磨型の「北上」「大井」とともに重雷装艦への改装を計画していたが、太平洋戦争の開始でその機会を逸し、そのまま、通常の“旧式”軽巡洋艦として戦うことになる。

……戦うことになるといったものの、球磨型姉妹の「多摩」と第21戦隊を編成して北方海域を担当する第五艦隊に所属していた木曽は、「真珠湾を攻撃した機動部隊のお迎え」「出現した敵機動部隊のパトロール」という、戦闘艦艇としてはのんびりとした任務が続く。しかし、その代わりに北の荒れた海と船体を覆う厚い氷との戦いは厳しく、木曽は激しい波浪で損傷して後方に退くこともあるほどだった。
そんな、敵より自然相手に苦しい戦いを続けていた木曽も、1942年6月にミッドウェー作戦の陽動として計画した(一説によると、暇で暇でしょうがない第五艦隊司令部が軍令部に直訴して実現したという)アリューシャン攻略作戦ではキスカ島攻略部隊の旗艦として多摩と駆逐艦「響」「曙」とともに参加してキスカ島を占領する。このときも、米軍が航空機で反撃してきたが、大型陸上攻撃機の水平爆撃のみという、急降下爆撃と雷撃機が突っ込んでくるミッドウェーに比べるとぬるい戦いだった(にもかかわらず、響が損傷したり輸送船が沈んだりしているが)。

その後、1942年から1943年という南の島で日米海軍が激しい空母戦や夜戦を行っていた時期も、木曽はアッツ島やキスカ島への輸送任務やパトロール、そして、長期間の泊地停泊という時間をすごしていく。運の悪いことに、1943年3月27日に北方海域で唯一発生した水上砲雷撃戦「アッツ島沖海戦」には、ちょうど舞鶴で修理整備だったため参加していない。また、7月には木曽の戦歴として一番のクライマックスとなるキスカ島撤収作戦に参加して成功するが、このときも、敵艦隊との戦闘は起きていない。
1943年9月からは、北の海に別れを告げて南の海で、やっぱり輸送艦相当の任務を淡々とこなしていく……予定が10月21日に夜間爆撃を受けて被弾。その後は、多摩が比較的元気に行動して夜間襲撃訓練なども積極的に行っているのに、木曽は長期にわたって舞鶴で修理整備を行ったり大湊に停泊し続けたりと、なんとなく“ひきこもり”っぽくなってしまう。
耐用年数を超える艦齢に加え波浪激しい北の海での長期にわたる任務、そして、被弾の衝撃と、すでに船体が戦闘行動に耐えられなくなっていた木曽は、横須賀鎮守府所属という、実質的な隠居部隊に異動してマリアナ沖海戦にもレイテ沖海戦にも参加せず、マニラ港停泊中に空襲を受けてその生涯を終えることになる。
……はずだったのが、 港の水深が浅かったおかげで船体は水の上にとどまっていた。生前、本格的な戦闘をほとんどしたことがなかった木曽だったが、沈んでからは、浮き砲台として本格的な対空戦闘を経験することになる。
このように、軍艦としては戦歴にまったくといっていいほど恵まれなかった木曽だが、平時には、皇太子だった昭和天皇の九州巡幸お召し艦となったり、北海道巡幸の供奉艦となったり、米国で死去した駐米大使の遺骨を日本に送り届けた米重巡「アストリア」のホストシップを勤めたり、2・26事件で横須賀特別陸戦隊4個大隊を芝浦に緊急輸送したり、いざとなったら天皇を木曽に避難させる計画もあったりなどなど、皇室に関連した名誉職や特別任務を多数歴任している。そういう意味で、木曽は荒々しい“武闘派”的なキャラクターより、育ちのいい“侍従武官”的なイメージが似合うのかもしれない。
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