6月10日は路面電車の日。明治時代、ボーズ頭の少年が「あぶのおまっせー!」と叫ぶ路面電車の仕事がありました。
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告知人ができたのは「初のことで勝手が分からなかった規則」のため
もう1つ気になるのは、「なぜ日本初の路面電車は告知人を置いたのか」です。
「保存版 京都の市電」(立風書房)に収録されている、大西友三郎氏著『チンチン電車物語 京電の歴史をたどる』をもとに、簡単に当時の状況を確認します。
京電は日本最初の営業用路面電車です。しかし「初めて」ならではの問題がありました。それは「路面電車を取り締まる法律やルールがなかった」こと。京都府はもちろん、国(当時の内務省)も、路面電車をどう運用したらいいのかが分からなかったのです。
そこで国は京都府に対し、電気鉄道に対する取締規則を早急に作って報告するように指示を出しました。それを受けて京都市は、京電の開業から半年ほど後の1895(明治28)年8月21日に「電気鉄道取締規則」を府令として交付します。
告知人の設置はこの規則に盛り込まれました。以下にその内容を抜粋して紹介します。
一、電車には車掌、運転手、告知人を、線路には信号人をおくべし。
一、車掌は通行人に危険な場所、雑踏、街角、橋上では告知人を電車の先五間以内を先行せしむべし。
一、夜間電車を走らす時はいずれの場所でも告知人を先行せしむべし。
京都に続いて開業した各都市の鉄道は、この取締規則を参考にして自分たちの取締規則を作りました。しかし告知人の設置を規則に盛り込んだのは京都だけだったそうです。
仕事は超ハード「1日仕事をしたら2〜3日休む」くらいの勤務形態だった
告知人の労働環境は、やはり……とても厳しいものでした。
告知人は、導入直後の1986年(明治29)年1月に全21人もいたと記録にあります。彼らは京電に直接雇われていたわけではありません。告知人を取りまとめる親方がいて、この親方が京電と契約をして派遣していました。

業務内容は前述した通り、電車の前を走って周囲の人に危険を知らせること。走行する電車の前を走ることはもちろん、走行中の電車から飛び降りたり、飛び乗ったりを繰り返す業務のため、けがや事故がしばしば起こっていました。
さらに夜間では、足元もおぼつかないと思われる暗い中、危険な橋の上であっても電車の前を走りました。体力と気力が必要な仕事であったことは容易に想像できます。
こういった過酷な勤務のため、告知人は1日仕事をしたら2〜3日休む、といった勤務形態をとることも度々あったようです。