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5:ラスボスとの戦いで刮目すべき「二刀流」の必然性
全体的にとても落ち着いた作劇となっているが、なんと終盤には「ラスボス」的に立ちはだかるキャラがいる。今までの流れからするとややとっぴであり、賛否を呼ぶポイントではあるだろう。だが、そのラスボスがこれまで千鶴に与えてきたプレッシャーを思えば、その時の言動は彼女を奮い立たせ、そして自立させるための「建前」のようにも思えた。

何より、そこで千鶴が期せずしてフジコから投げられた薙刀の「二刀流」で戦うことには大きな意味がある。前述してきた通り、千鶴は薙刀とバレエの両方を学んでいたために、そのどちらでも「弱く」なってしまったジレンマがある。だが、日本の武道の心得の1つである「残心(ざんしん)」の意義をあらためて学んだ上で、薙刀とバレエの「両方を生かして戦う」ことが、この時の「二刀流」には込められているのだろう。
実際に、薙刀の殺陣(たて)作画監督を務めた中田栄治によると、千鶴の動きは初めは「武術家らしいムダのない動き」を意識しつつも、映画後半になると「バレエの影響を受けてだんだん自由な感じの動きになっていく」ように変わっていっているそうだ。さらには、中田栄治は「実際には危険なのでやらない、足を高く上げるバレエ的な動きもエンタメ性を意識して取り入れていて、そこにはバレエ作画監督のやぐちさんにも確認していただいた」と語っている。こうした言葉の通り、「バレエと薙刀の両方の技術で戦う」様が作画にもしっかり表れているので、刮目してほしい。
余談だが、本作の制作中の仮タイトルは「もののふバレリーナ」だったそうだ。その仮タイトルが示す通り、武人でありながらバレエの動きも生かして戦う少女の勇ましさが表れているといえるだろう。
なお、このラスボス戦の直後、「二段構え」のように、ややぶっ飛んだ展開と画が用意されているので、そちらもお楽しみに。メカデザインの片貝文洋と、メカ作画監督の橋本敬史のそれぞれが素晴らしい仕事をしたことも分かるだろう。
6:夢に進めなくなってしまう物語
本編を見ていて、途中で「あれ?千鶴のバレエの話ばっかりじゃん。画家になりたいフジコの話は?」と疑問に思う人はいるだろう。
実際に、フジコは保護者である叔父が失踪してしまい、カフェで働く時間が多くなり、さらに薙刀の野外教室を始めたために絵を描く時間がなくなっていき、「親友はバレエの夢に突き進んでいるのに、自分は画家という夢に一歩も進めなくなってしまう」のだ。

彼女が憧れの象徴のようなイメージで見ていた「妖精」も途中からいなくなり、あれほど「じっとしていられない」と言っていたほどのパリの情景も、偉大な画家たちの存在さえも、皮肉にも彼女を苦しめてしまう。こうした描写も、「自信がなくなり夢に進めなくなってしまう」状態を高い解像度で捉えている。
脚本を手掛けた吉田玲子は、劇場パンフレットで「表には出せないけれど、胸に夢を秘めて、一途に頑固なまでに努力する子」と「社交的で元気なんだけれど、自分を見失いがちで、意外と自信がない子」という「対比」を意識したと語っている。おとなしいようで情熱的な千鶴、明るく社交的だけど実は不安でいっぱいのフジコ、その相対する主人公像および、フジコの夢の物語だけが全く前に進めなくなってしまうことは、完全に意図的なものだ。
そんなフジコの心理がはっきりと伝わる秀逸な描写がある。千鶴はこれからバレエの試験に向かう前に「フジコの顔が見たくて」と、彼女が働いているカフェに訪れる。そこでフジコは「こんな顔であればいくらでも見せるけど?」と自らの頬を押して笑顔を作るのだが、その手は皿洗いのために汚れていたので、千鶴の手を握ることはためらってしまう。「親友が手の届かないところに行ってしまった」切なさに共感できる人は多いだろう。