学院のコンサートホールは,学生と来賓で溢れかえっていた。年に二回,春と夏に行われるこの定期演奏会は,演奏する生徒と聴きに来る生徒,そしてここの学生の出来を見に来る音楽会の関係者で,いつもこんな状態だった。外は夏の盛りだったが,人の多さにも関わらず,優秀な空調設備におかげで驚くほど過ごしやすい。
定期演奏会は,学年ごと,各科ごとに日にちが分かれ,全てが終了するまでには一週間以上の期間が必要となる。今日は,フォルテール科の三年生が中心となっていた。そして次は,私の担当する最後の生徒の順番だった。
「コーデル先生,次はあなたの生徒の番ですね。名前は……」
「クリス・ヴェルティンです」
「彼の音は良いですね。去年初めて聞いたんですが,まだ印象に残っていますよ」
隣に座る声楽科の講師が,私に話しかけてきた。講師としては私の同期にあたる男性だったが,年も近く音楽の趣味などが合うせいか,普段からよく話もするし,こうした席では隣り合わせに座ることも多い。
個人的にではあったが,私もクリスには普通以上の期待を抱いていた。彼のフォルテールが出す音色には,不思議な魅力がある。魔力を音に変換する装置,とも言えるこの楽器は,演奏者の資質を如実に現してくれる。それがこの楽器の特色であり,また利点でもあった。ただし,その利点は逆に欠点ともなりえるほど,個人の資質を明確に音にしてしまう。
魔力をもつ人間なら誰でも憧れるフォルテール奏者は,この世界では引く手も数多に思われがちだが,有名で,かつ実力の伴っている奏者は私の知る限り,数えるほどしかいない。もっとも,そこまで厳しい評価をしているのは,私くらいのものだろうが。
「先生も期待しているのでしょう?」
「……ええ。ただし,問題も山ほどありますが」
それも本当だった。クリスの音には,まだまだむらがある。そもそもフォルテールにはつきものの問題ではあったが,彼の場合は,許容範囲を超えてしまっている感があった。それも含めてレッスンを進めているが,クリス自身に直す気がないのか,一向に変わる気配はない。とはいえ,それでも私は彼を高く評価していた。
「始まりますよ,コーデル先生」
その言葉で改めて舞台に目をやると,クリスが自分のフォルテールをセッティングしているところだった。外からの人間も多く来るこの会では,たかだた生徒発表の場とはいえ,きちんと製本されたプログラムが配られている。それにもう一度目を通し,これが終わったら特に見るものもないことを,暗がりの中で確認した。
プログラムから目を離すとほぼ同時に,会場内のざわめきが止む。クリスはフォルテールの鍵盤に指をかけ,呼吸を整えていた。そして――
心待ちにしていた彼の演奏が始まった。
クリスの演奏が終わり,午後のプログラムの約半分が終了した。これから十分ほどの休憩が入るため,場内の照明が一気についた。同期の感想を聞くこともなく,席から立ち上がる。
「それでは,私はこれで失礼します。これから彼に会って,軽く説教でもしてきましょう」
「あはは。指が追いついていない箇所がありましたね。まあそれを差し引いても,やっぱり私は好きですね。先生の教え子には,本当に良い子が多い」
「いえ,ぎりぎり及第点といったところですね。まだまだ教えたいことはあるのに,彼ももう三年生です」
そうは言ってみたものの,あと一年時間があったところで,クリスの基本的な所は変わらないのかもしれない。
「先生はまだ,ここでお聴きになるんですか?」
「ええ。うちの三年でも,卒業演奏でフォルテール科と組みたいって生徒が結構いるんですが,その下調べにね」
「さすがに,彼ははお勧めできませんが」
「ええ,癖がありますからね。でも逆に癖のない声と合わせれば,彼のフォルテールが引き立つかもしれませんよ」
「一応,考えておきましょう」
そう告げて,今度こそ外に出ようと横を向くと,女生徒が一人,こちらを向いて立っていた。
失礼,と声をかけて通路に出ると,後ろで,さっきの同期の講師となにやら話しかけているのがかすかに聞こえた。女生徒の方にもなんとなく見覚えがあったので,振り返って確かめてみる。すると,講師が私の方になにやら手招きをしているのが見えた。
「どうかしましたか?」
「ちょっと,彼女の話を聞いてくれませんか?」
会場内だからか,小さな声で彼が言った。その女生徒が丁寧にお辞儀をして,私の側に寄る。
「彼女がさっき言ってた,フォルテール科と組みたいって言ってた子なんですが,ちょっと先生に話があるみたいなんです」
「あの……」
「ああ,君は確か……ファルシータ君だったかな」
声をかけられ,ようやくその名前を思い出す。今年の春まで生徒会で会長を務めていた,才女と言ったところか。音楽の才能についても申し分無い,と言うのがたいていの周りの評価だった。
「あ,はい。ファルシータ・フォーセットです。もしよろしければ,少しお話出来ないかと思ったのですが」
「私に?」
「ええ」
彼女の言葉とほぼ同時にブザーが鳴り,次のプログラムがそろそろ始まることを場内に告げた。
「わかった。ここではなんだから,外に出よう」
声楽科の講師が私に向かって軽く頭を下げ,彼女もまた丁寧に頭を下げた。
ぎりぎりのところで会場の外に出ると,ドアのすぐ横に立っていた係員がドアを閉めた。
「それで,聞きたいこととは?」
「あの,今ちょうど先生に聞いたんですけど,コーデル先生は,今演奏してたクリス・ヴェルティンさんの担当をなさっているそうで」
「ああ,確かに彼は私の教え子だ。不肖の,ではあるがな」
「良かった。彼について,少しお聞きしたいんです」
クリスのフォルテールが気に入ったんだろうか? その気持はわからなくもないが,同時に,少し不釣り合いな気もした。
「答えられる範囲なら,どうぞ。長くなるようだったら,場所を変えても構わないが。ちょうどこれから彼に会うところだ」
「いえ,そんなに大したことじゃないんです。ただ,卒業演奏のお相手とか,もう決まってたりするのか,それだけ確認したかったんです」
「……気に入ったのか?」
「ええ」
「決して良い出来ではなかったと思うが」
「はい。そう思います」
「結構はっきり言うんだな。まあ,反論する気はないが」
「あ……ごめんなさい」
「いや,気にしなくて良い。でも,それならなぜ?」 次のページへ