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コラム

笑って楽しみながらアメリカを、そして国際社会を知ろう「グランド・セフト・オートIV」を遊んでみて考えた(2/2 ページ)

文明の岐路であり、諸民族がモザイク状に分布する東ヨーロッパからやってきた男、ニコ・ベリック。アメリカ文明の象徴たるリバティーシティは彼の目にどう映ったのか。異邦人の視点を借りて展開される、風刺とジョークに満ちたアメリカ文明論(私見)。

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シビアな現実を反映したゲーム構成

 ここで「グランド・セフト・オートIV」のストーリー、特に序盤の流れを追ってみよう。物語は主人公ニコが故国での生活にうんざりしてアメリカへ渡ってくるところから始まる。彼が頼ったのは、アメリカン・ドリームを成功させて豪邸で暮らしているという従兄弟だ。ところが、この従兄弟はとんでもない大ボラ吹き。実際は豪邸などは夢の中の存在、現実にはゴキブリが這い回り、娯楽といえばテレビぐらいしかない安アパートでカツカツの生活をしている。そのくせ仕事をサボリまくり、闇金融から多額の借金をして、裏カジノへ突っ込んでいる。借金は膨れ上がる一方、怖いお兄さんたちと日夜体を張った鬼ごっこをやっている。

 まともな人間なら肉親といえども縁切りしたくなるところだが、ニコにとっては右も左も分からない異国暮らしである。そんな中、従兄弟は同居を認めてくれるし、息抜きになりそうなスポットも教えてくれるし、ガールフレンドの紹介までしてくれる。つまりダメ人間かもしれないが、面倒見がよく、親切なのである。となれば、ニコとしても無碍(むげ)にはできない。もともとビッグマウスな性格をしている従兄弟の言葉を信じてしまったこともまずかったのだし、肉親としての情もある。

 というわけで従兄弟が借金取りにボコられていれば、助けに入る。従軍経験もあるニコは武器の扱いにも慣れていて、ケンカの仕方も知っている。そこらへんのチンピラ程度なら軽くひねってしまうわけだ。そんなことをやっていると、チンピラを束ねている人間から一目置かれるようになり、仕事があるから手伝わないかと誘われるようになる。かくして、スリル満点のリバティーシティ・ライフが幕を開けるのだ。

最初のねぐらとなる従兄弟のアパート。薄暗い電灯にすすけた壁。虚しさが募るナイスな場所だ
女っ気があるかないかは雲泥の差。従兄弟の紹介があればこそデートを楽しむこともできる

ゲームという枠を超えた文明論としての価値

 このように見てくると、移民である主人公が、流れ着いたアメリカで組織犯罪に関与していく過程が実に見事にゲームに取り込まれているのがお分かりだろう。しかもこれは極めて現実的で、実際の社会問題と重なっている。そこに込められた強烈なエスプリは、欧米人なら即座にピンと来るヤバさに満ちているのだ。日本では、そんなゲームを作ろうとするデザイナーはいないだろうし、企画にゴーを出すプロデューサーも、認めるハードメーカーもいないだろう。しかし、「グランド・セフト・オートIV」はそれを堂々とやっている。ここで留意すべきは、それがただのオフザケではないことだ。

 そもそもバイオレンスをやりたいだけなら、政治的な問題になど触れる必要はない。ぶっ飛んだヤツでも用意して無作為な殺戮をやらせればいいのだ。だが、「グランド・セフト・オートIV」は、そうした手法は採っていない。そこからデザイナーの狙いが、暴力やインモラルそのものではなく、それを生み出している社会に向いていることが分かるだろう。民族問題や資源争奪戦が生み出す紛争。深刻な移民問題。貧困と犯罪の関係。そして、アメリカ合衆国という世界最強の国家がそうした移民によって構成されたマイノリティの集合体であること。それらを総合的に捉えたうえで、ゲーム性やストーリーを構成しているのだ。

 そしてさらに大切なことは、デザイナーがそうしたさまざまな問題を生み出す社会を、否定するわけでも肯定するわけでもなく、極めてシニカルに見ている点だ。ゲームに出てくるキャラクターたちは、私見ながら一様にみな頭が悪く発想が短絡的で、要するにしょうもない連中である。つまり大量の難民や移民を生み出す社会問題を扱い、それを否定的に見ている一方で、被害者たちに何らの同情も寄せていない。社会を誉めない、しかし、住民も誉めない。肯定したくはなくとも安易に否定できない現実を前にして、どうにもならないよね、と冷徹に言い放っているのだ。このクールな視点が全編を貫くブラックジョークの源泉なのである。

 「グランド・セフト・オートIV」は、特に何も考えずにプレイしても十分に面白いゲームであることは間違いない。しかし、好き勝手ができるだけのバイオレンスゲームと捉えたら、結構な違和感を覚えることだろう。世の中には暴れること自体を目的としたゲームも存在するが、「グランド・セフト・オートIV」はそれらとは確実に一線を画している。バイオレンスの裏側にある社会問題、そこで起こるさまざまな衝突をカリカチュアした形でエンターテイメントに仕上げているのだ。

 歴代のシリーズ諸作を振り返ってみても、ここまで踏み込んでいるのは珍しい。そういう意味では、シリーズをずっと遊んできた人は、今までよりもずいぶんシリアスだな、と思うかもしれない。よりシビアな現実問題を扱っているために、ブラックジョークが普段よりも“笑えなく”なっているのだ。

 ひょっとしたら、こうした変化を嫌うユーザーもいるかもしれない。「グランド・セフト・オート」がおバカなギャングたちがおバカな乱痴気騒ぎを繰り広げるだけのエンターテイメントであって欲しいと願うのも、それはそれで正当な要望だろう。だが、少なくとも本作では、デザイナーはそちらの方向は採らず、より深いテーマを追った。そしてその結果として、シリーズ最高峰の社会性を手に入れている。これはもう、単にゲームという領域を超え、ひとつの文明論になっていると言ってもいいだろう。日本人にとっては、アメリカ社会や東欧地域を中心とした国際問題を知る一歩としての入門書的な役割すら果たしてくれるかもしれない。

IIIからIVへ。業界の変化が可能にした完全ローカライズ

 最後に一言。前作にあたる「グランド・セフト・オート・サンアンドレアス」で大幅な仕様カットが行われたのに対し、「グランド・セフト・オートIV」では仕様やムービーが一切カットされない完全版としてローカライズされている。こうした状況を見て、いったい前作での騒ぎは何だったんだと思う人もいるかもしれないが、そこにはゲーム業界全体の変化が関係していることは忘れてはならない。

 「サンアンドレアス」の規制は、シリーズ的にはその2作前にあたる「グランド・セフト・オートIII」が暴力ゲームとしてマスコミに取り上げられ、糾弾されたことと関係している。この糾弾自体の正当性はないと言っていいだろう。発売されてから長期間経ったソフトが問題視されたこと自体おかしいし、そもそも起こった事件とゲームとの直接的な因果関係が科学的に立証されたわけでもない。臭い物には蓋をしろという場当たり的な発想と、急速に台頭したメディアに対する一般社会の漠然とした不安感がもたらした一種のヒステリーに近い。後のゲーム脳などでも繰り返された、魔女狩り的なバッシングのひとつに過ぎない。

 しかし、当時のゲーム業界はエンターテイメントを扱っている業界としてはあまりにも未熟だった。内部の自主規制もなければ、各店舗での販売基準もない。暴力描写を示す赤い三角マークはあったが、購買者の年齢などは考慮の対象外だった。これでは無法と同じだと見られても文句は言えない。現在ではCEROのコードも設定され、基準もサイトなどで確認できる。これは大きな進歩だ。

 内部規制などにどれだけの意味があるのか、コードは妥当なのか、という議論もあるだろうが、何もしなければ外部からの攻撃には耐えられない。根拠のない批判から身を守るには、社会で一定の地位を占める必要があり、それには最低限の体裁が不可欠なのである。「グランド・セフト・オートIV」が完全仕様でローカライズされたことは、「III」で起きたバッシング以降、業界や店舗が協力し、市場を守ろうとした成果に他ならない。このことは決して無視されてはならないだろう。

「Grand Theft Auto IV」(グランド・セフト・オートIV)
対応機種プレイステーション 3/Xbox 360
ジャンルボーダレスアクション
発売日2008年10月30日
価格(税込)8390円
CEROZ(18歳以上対象)
(C) 2008 Rockstar Games, Inc.


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