鳥嶋和彦、田尻智、シブサワ・コウ―― とんでもないインタビューを量産し続けるサイト「電ファミニコゲーマー」とは何者なのか(5/6 ページ)
電ファミニコゲーマー編集長であり、インタビュー連載「ゲームの企画書」を手がけるリインフォース・平信一さんにお話を聞きました。
「エイジ・オブ・エンパイア」の世界ランカーだった
―― これまでのお話にもあったように「ゲームの企画書」が成り立っているのは、平さんご本人の存在が大きいですよね。そもそもゲームとの出会いは?
平:
最初は多分「超時空要塞マクロス」の液晶ゲームとかになるんだけど、やっぱりファミコンですね。小学校の1~2年生ぐらいにファミコンが出て、普通に「ベースボール」や「スーパーマリオブラザーズ」あたりから入って、中学高校ぐらいまでは家庭用のゲーム中心に、ジャンル関係なく遊んでました。本当に全ジャンル。途中までパズルものとギャルゲーだけは避けてましたが、「ときメモ(ときめきメモリアル)」はハマったかな。
―― 広く浅くという感じですか?
平:
いえ、いろいろやるんだけど、格ゲーであればその界隈では一番になりたいと思うぐらいやり込んでました。ちょうどSNKのゲームがブームだったころで、「餓狼伝説SPECIAL」とか「ザ・キング・オブ・ファイターズ」とか。「ストリートファイター」は「ZERO」や「III」、「バーチャファイター」や「鉄拳」は「3」までとか。
―― 対戦格闘が一番熱かったころにはやり込んでいたと。
平:
そうですね、ひとしきりやって、プロのレベルまではいかなかったけど、そのゲーセンで一番強いぐらいにはなりましたね。ただ本格的にやりこんだって意味で言うと、PCゲームの「エイジ・オブ・エンパイア」。これは本を書くぐらいやっていて、どのぐらいやったのか聞かれると困るけど、何千時間とかそういうレベル。あと「ウォークラフト3」もガチでやっていて、多分日本人では一番ランクが高かったと思います。世界ランク27位ぐらいだったかな、周りはぜんぶ韓国のプロだったので。
―― 世が世ならプロゲーマーとして食べていけたかもしれませんね。
平:
当時はそんな高額な賞金の大会はなかったですけど、アラブの王子が私的に開いたオンライン大会で、優勝して小切手が送られてきた経験はありますね。5000ドルぐらい。当時はゲームのリプレイというものもなかったので、実際にプレイして見せる講習会を好きでやったりしてました。「エイジ・オブ・エンパイア」は攻略サイトも作っていて、それなりの規模感とPVもあって人気でしたね。
4Gamer時代に培われたインタビュー術
―― ゲーム系のメディアに関わったきっかけは?
平:
「実況パワフルプロ野球」とかサッカーゲームとか、攻略本を書くアルバイトをしていて。たしか双葉社だったかな、編プロ経由や、知り合いのツテで仕事をやらせてもらったり。それである日、よく見ていた4Gamerでスタッフを募集していたので、いろいろと意見書を送りまして。
―― 単なる履歴書じゃなく、意見書を送ったんですか?
平:
生意気なことを書いた気がしますね、僕ならこう直しますとか。そのころの4GamerってWeb日記のシステムをちょっと改良したサイトにすぎなかったんですよ。タイトルごとに情報がまとまるような仕組みが全然なくて、そこを改良したほうがいいんじゃないかとメールしたり。そのあたりが、当時の編集長の目にとまったんですね。
―― 今の4Gamerのフォーマットは、平さんが作っていった部分が大きいんですね。
平:
まあ今は現場を離れちゃてるので、僕が放言するわけにもいきませんが。もともと4Gamerはソフトバンクパブリッシングの紙媒体から始まっていて、編集のメンバーも元「ログイン」やPCゲーム雑誌系の人たちだったので、逆にWebのことが分かる人が全然いなくて。その中で僕が一番若いぐらいのポジションだったんです。上の人たちが分からないことはぜんぶ任されて、結果として何でもやる立場になった感じですね。
―― 平さんは4Gamerだと名インタビュアーという印象が強いですが、あのインタビュー術はどこで培われたんですか?
平:
それは明確で、完全に編集長の岡田の指導です。もう僕の師匠は岡田さんで、面白い記事、面白いインタビューも目指すものは岡田さん。岡田さんの記事で代表的なのは稲船敬二さんのインタビューかな。別に細かく指導を受けたわけではないですが、やっぱり取材には同席していたので、学ばせてもらった感じですね。インタビューがやけに評価してもらってるな、と思ったのはここ2~3年ぐらいのことかな。
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