なぜ新潟や石川が「人口日本一」だったのか? 都道府県の人口推移から見る、日本近代化の歴史(3/4 ページ)
地方が今よりずっと元気だった時代は19世紀にありました。
関東式の「金本位制」をむりやり押し付けられての「銀本位制の廃止」のせいで、両替商に取り付け騒ぎが頻発。結果、約50軒が相次いで破産。「藩債処分」という事実上の借金帳消し処分などにより、大阪の経済は致命的なほどのダメージを受けました。
しかし、大阪取引所や大阪商工会議所などの設立に尽力し、連続テレビ小説「あさが来た」にも描かれた五代友厚の活躍もあり、後に「東洋のマンチェスター」といわれるほど、紡績業を中心に商工業が飛躍して大阪は復活を遂げたのです。
大阪市が東京市の人口を抜いた!
その後も大阪は発展を続け、1925年の国勢調査では市町村単位でも、大阪市(211.5万人)が東京市(199.6万人)を抜いたこともありました。3位が名古屋市の76.9万人、4位が京都市の68万人ですから、大阪市は日本でも相当な人口を持っていたことが伺えます。
なお大阪市の1位はその次の1930年の国勢調査まで続きますが、東京市は隣接する5群82村を合併したことで面積を7倍近くに広げ、1935年の国勢調査では東京市(587.6万人)に対して大阪市(299万人)と、大きく差をつけられました。
しかし当時、人口密度では大阪は東京の1.5倍という日本一の超過密都市であり、東京に負けない「大大阪」としての姿がそこにあったのです。
最下位の常連は北海道→鳥取へ
閑話休題。ここまで1位をずっと見てきましたが、逆に最下位となっていた県はどこでしょうか。それは調査開始から長らく北海道でした。今の佐渡であった相川県など消滅した県を除けば、1872年~1891年までに渡って北海道が最下位でした(途中、函館県・札幌県・根室県に分かれた時代もあり)。
ただ前述の通り、北海道は多くの移民が入り込むことによって人口が激増します。それにより、1892年から人口最下位の座を引き継いだのが鳥取県でした。
日本海側は重工業化や近代化が遅れた地域が多かったのですが、鳥取県もその例外ではありませんでした。この鳥取県は現在までにおいて、今はなき樺太庁などを除き、ずっと人口最下位に居続けることになります。
一時期、島根県は東京より人口が多かった!
ちなみに同じく人口が少なく、ブービーの位置となって久しい島根県ですが、実は鳥取県を併合し、1877年~1881年まで、人口100万県としてベスト10付近の上位にいたこともありました。
1880年を例に取ると、今の鳥取県を含めた島根県が103.7万人(全国12位)、対して東京府が95.9万人(同17位)と、東京を凌駕していたのです。
しかし1881年9月に再び鳥取県が離れ、「大島根県」の夢はわずか5年でついえました。
またまた新潟が首位奪回!(1887~1896年)
話は再び戻って、1887年には1位だった大阪から新潟が165万4000人で首位を奪回します。それは、大阪府に編入した堺県と合併していた奈良県が分裂したためでした。
王者のカムバック。しかしここから猛然と追い上げてくる所がありました。そう、東京です。
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