安室透に励ましてもらい、自動車免許をとった話(2/2 ページ)
わたしが安室さんにしてあげられることはなんだろう?
今日からはわたしも車を動かせる。これで安室さんが怪我しているとき、わたしが送りとどけてあげられる。
スポーツカーでふらりと米花町をドライブするんだ。事件の多い町だから交通規制がかかることもよくあるけれどその手のことにはすっかり慣れた。たまたま事件現場の近くを通りかかり、派手な爆発に目を奪われてサミット会場のそばで車を止めると、遠くに小さな人影が。安室さんだ。血のにじむ腕を力なくぶら下げて歩いている。そのまま家に帰ろうとしているようなので、声をかけ、助手席に乗ってもらう。
「このくらいの怪我、じきに治る」という安室さんを説き伏せて病院まで送り届けることにする。
さすがの彼も疲れているのか、口数が少ない。左のサイドミラーをみるふりをして、つい助手席に目をやってしまう。擦り傷の残る頬を一瞥する。どんな女になったら安室さんと付き合えるのかな。赤井秀一なみに銃が使えたら。工藤優作ばりのミステリー作家になったら。灰原さんみたいな有能な科学者だったら。クリス・ヴィンヤードと張り合える世界的大女優だったら。どんな女になったら、身を粉にして働く彼を支えてあげられるだろう、難しいな、わたしじゃやっぱり難しいかな。とてもじゃないけど、優秀な彼の役には立てそうにないよな。
安室さんはシートベルトにできた小さなねじれを直した。怪我してるんだから無理にシートベルトしめることないのに。けど、こういう律儀なところも好きだ。彼はため息ひとつつかず、黙って外の風景を見ている。きっと疲れているんだろう。眠ってもいいですよ、と声をかけてみる。安室さんは黙って頷くけれど、目を閉じる気配はない。
わたしはなるべく車体を揺らさないように、ブレーキとアクセルをなるべく優しく踏みながら、道路にできている凹凸を避け、ゆるやかに運転を続ける。
特殊技能のないわたしじゃ、安室さんの右腕にはなれないだろう。でも、今、助手席に座る安室さんの命を握っているのはわたしだ。
彼のためにも絶対安全運転しよう、もしブレーキが故障したりハンドルがきかなくなったりしてどうにもならなくなったときには、絶対助手席への被害が最小限になるように壁に突っ込もう。生唾を飲みハンドルを握り直す。
病院の前で停車すると、安室さんは長い足を外へ投げ出して、颯爽と車から降りていく。
「運転、助かった」
特別な愛情がこめられているわけでもない、儀礼的なその一言で、息が止まりそうになる。少しでも助けになれたのなら嬉しいです、なんて下僕っぽくて言えない。気の利いた返しが思いつかない。心がいっぱいで声が出ないから、かわりに軽くクラクションを鳴らして走り去る。夜の空気は少しだけじめっとしていて、息を吸うと血のにおいがした。助手席に残る血痕はもうすっかり乾いて、一枚だけ花びらの欠けた桜みたいなシミになっていた。
……みたいなことがあったらいいな。
って妄想しながら、初心者マークをつけてレンタカーを走らせる。こういう夢物語を想像するたび、もっと運転がうまくなりたいと思う。
安室さんきっかけで取った自動車免許だけど、彼の役に立てるという自信以外にも、多くのものを手にできた。
今のわたしは車さえ借りれば道路の続く限りどこにだっていける。好きなときにひとりで遠くまでいけるのって、こんなに気分がよかったのか。自分の思う速さで飛んでいけるのが嬉しい。適当に車を走らせて、よくわからない湖のそばや、長く続く暗い田舎道に迷い込むのも面白い。徒歩で行くにはだるいけど、電車や新幹線ではきっとたどり着かないような場所。そういうところにふらっと入り込めるとわくわくする。
車の運転ってすごく楽しい。自分でアクセルを踏んだときに窓から入る風の強さが気持ち良いことも、助手席に誰か乗せるときの責任感と満足感も、交通ルールを守って社会と一体になる安心感も、かっこいい車やかわいい車がたくさんあることも、免許を取るまで気づかなかった。「免許あるといいよ」とは聞いていたけれど、自分で手にして見るまで実感が湧かないものだ。
自動車免許は、銀のフルートよりも高値だったけど、この出費に後悔はない。すごくいい買い物だったと思う。ちゃんと、必要なものを買えた。無駄遣いになってない。
買い物で悩むたび、もっと頭がよかったらな、と思う。
必要か、不必要か、で、論理的に選別できない。わたしは好きと嫌いに忠実すぎて、本能でものを選んでしまう。だから好きを原動力にしたときだけは嗅覚が働くし、迷いなく、素早く動ける。それに、あまり間違わない。間違っても悔やまない。
今回、大きな買い物の指針となった安室さんのことを、来年も再来年も永遠に好きでいられるかはわからない。恋に落ちるときはいつだって、ずっとずっと好きでいるね、命尽きるまで添い遂げさせてね、くらいの心持ちでぶつかるけれど、でも、やっぱり、生きている限り心が変わる可能性はある。もしかしたら違う人を好きになっているかもしれない。だけどそれならそれでいい。
とにかく、誰か、何かを、いつも好きでいられますように、って思う。好きなものがあれば、わたしはまたきっと素敵な買い物ができる気がするから。
ちおる(片瀬チヲル)
小説家。既刊に『泡をたたき割る人魚は』『遅刻魔クロニクル』。スマートフォンゲーム「八月のシンデレラナイン」公式サイトのノベルなども担当。
※本稿はnote掲載のエッセイ「安室透に励ましてもらい、自動車免許をとった話」を転載しました。
関連記事
お金の力で幸せになりたい――「フルートが吹けるわたし」を夢見て、17万円のフルートを買った日
フルートが吹けるようになったら、きっと。「安室透に出会ってから世界がきらきらして見える」安室の女の胸の内
「隣の安室の女」の信仰告白。銭湯では80歳の老女が「お姉さん」になる。なら、私は?――31歳ライターと“銭湯年齢”
「80歳でお姉さんならば、31歳の私は何者なんだ? まさか、幼女?」――姫野桂さんによる銭湯サウナエッセイ。「餓死するかと思った」「顔に生理用ナプキンを……」壮絶な痛みを乗り越えて、整形女子たちが「かわいい」を求める理由
「美容整形トークショー vol.1」レポート。ハッキリ言って「学校」は地獄だ。それでも私が教員として学校にとどまり続ける理由
何度も悩んで、今でも教壇に立っている。「贔屓は人生の灯台」オタク女が宝塚で“運命”に出会い、精神と肉体の健康を得るまで
「贔屓への思いを自覚して早4カ月、10キロ痩せた」。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.