2018年購入した高価なものの中で、間違いなく買ってよかったと言えるものがある。
車の免許だ。大学生の頃に親から「車の免許は取っておいた方がいい。お金は出してあげるから」とありがたい申し出があったにもかかわらず「絶対にいらない」と頑なに断っていた自動車免許。田舎に帰るなら必須だけど、東京で暮らす限りは必要ない。免許いらない、は、故郷には帰らない、と同義だった。
免許はいらない。事故を起こすのも怖いし、どっちかというと、かっこいい男の子に運転を任せて助手席でワインをラッパ飲みする女でいたい。わたしは無免許のまま死ぬんだと思っていた。
そう決意していたわたしを免許取得へと駆り立てたのは、安室透だ。
2018年、『名探偵コナン ゼロの執行人』の映画をきっかけに一大ブームを巻き起こした、甘い顔立ちにミステリアスな振る舞いが魅力の男29歳。仕事もできるし料理もできるし運動もできるパーフェクトな彼は、ゼロの執行人で常人離れしたカーチェイスを披露した。彼が愛車のRX-7を駆使してモノレールの上を走り抜けていくときの狂ったような表情に心射抜かれて、膝からくずおれるように恋に落ちてしまった。
安室さんのことが大好きになってから、彼のために何かしてあげたいな、彼に釣り合う女になりたいな、とせっせとおしゃれにせいを出したり腹筋を鍛えたりし始めたのだけど、それでも彼の恋人になれる気がしなかった。安室さんがあまりに完璧すぎるせいだ。いくら筋肉をつけたり、ブランパンを焼けるようになったりしても、安室さんの役には立てない。打ちひしがれながら映画の中の安室さんを見つめているとき、ふと思った。
ゼロの執行人のラストシーンでは、凄まじいカーチェイスをこなしたRX-7はぼろぼろになり、安室さんは腕を怪我している。流血もひどい。あんな姿で、どうやって家に帰るのだろう。まさか電車? もしわたしが車の免許を持っていたら、安室さんを助手席に乗せて送り届けてあげられるのに。
……そうだ。わたしは安室さんに釣り合う女にはなれないかもしれない。けど、安室さんが怪我したとき、運転をかわってあげることくらいはできるようになりたい。安室さんへの気持ちのぶつけどころに困っていたのもあって、すぐに免許合宿へ申し込みを済ませた。
免許合宿というと元気な大学生が騒いでいるイメージがあり、そういう集団に出会うのが怖かったのでオフシーズンに行った。そしたら良くも悪くも合宿生はわたししかおらず、宿は貸切状態だ。おかげで20畳以上ある広い宴会場で毎朝毎晩一人飯を食べることになった。人がいないのをいいことに、福山雅治の「零」を流しながら、冷たいままの冷凍ハンバーグや具のないみそ汁を食べて1日を振り返ったりした。
運転が下手すぎて不安や弱音をぶちまけたかったけれど話し相手になってくれる人もいなくて、なんども挫折しそうになった。ブレーキを優しく踏めず、停車するたびに座席に頭をぶつけ、髪をまとめていたバナナクリップが弾け飛んだ。
たまに上手に停車できたときに「今のは結構うまかったですよね?」と教官に褒めてもらいたい一心で期待を込めた目でアピールするも、「うーん、君の運転にはとくに光るところがないね」と一刀両断された。
大きいトラックの後ろにぴったりくっついて走行しているときには、荷台に隠れて信号機が見えず、赤信号に気づかないで交差点につっこみかけた。
臆病なのですぐブレーキを踏みたくなってしいまい「後ろから追突される危険性があるからやめなさい」となんどもなんども注意された。
こんな調子だから、とてもじゃないけど公道を走れるようになるとは思えなかった。他の車の迷惑になるから教習所の中だけを走りたいし、できれば助手席にブレーキがついている車にしか乗りたくない。「教習車って一般販売あります?」と教官に尋ねると、「ないね」と言われた。今は信号を間違えても教官がブレーキを踏んでくれるからいい。けど、ここを卒業したら、ブレーキを踏めるのはわたししかいないのか。自分の運転テクニックなんて微塵も信頼できないのに。自分ひとりで運転しなければならないプレッシャーに震えた。
そんな毎日だったけれど、無理だ、と思うたびにスマホの壁紙に設定している安室さんが不敵な笑みでわたしを見つめ返してくるから、がんばらなきゃ、と思った。安室さんの顔がプリントされたシャーペンで学科の勉強に取り組み、ペーパーテストではほぼ満点をとった。「運転はやばいけど学科は完璧だ、知識はある」と自分を励ますことでことで乗り切った。
そうやって、なんとか運転免許を取得した。
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