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結局「シェンムーIII」とは何だったのか

「何もない」が「ある」というレトリック。

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※この記事はワニウエイブ/文章書く彦さんのnoteから転載したものです。

 実は去年末あたり「シェンムーIII」のレビューに取り組んでおり、結局うまく書けずにわやになってしまったりなどしていた。なぜうまく書けなかったのか自分なりに分析すると、あまりメディア向けの言葉をつかって説明するのに適していない(とオレは感じる)ゲームだからなのではないかというような気がした。お行儀の良い、「レビュー」の言葉遣いでは、少なくともオレにとっての本作を正確に描写することはできない。「シェンムーIII」は、有り体にいえば中年ゲーマーの懐古主義であり、アジアへの(誤解に基づいた)憧憬であり、ここではないどこか、今ではないいつかに作られたゲームかのようだった。だから本作をたった今現在、この場所から語ることには多大な困難が伴う。昨日見た夢の話をするようなもんだからだ。

ライター:文章書く彦

主にPCゲームや海外ゲームが好きな陽気で楽しいゲームライター。どこかで美少女ゲームの連載を行ったり「ゲーム占い師」として活躍中。ライター業の傍らインターネットの片隅で「ワニウエイブ」としてラッパー/作曲家としての活動も行っている。ここ一年ぐらいはVTuberに激ハマりし1日に10時間ぐらい「にじさんじ」の配信やアーカイブを見るなどしているよ。 Twitter:@waniwave

 「シェンムーIII」はいい意味で夢のように感じられるときもあるが、悪夢のようでもあった。特に、堂々巡り感や自家中毒感が悪夢じみている(制作過程も込みで)。「シェンムーIII」は一作目二作目と同じく多くの誤解や非常識によって作られたゲームで、おそらくは人によってはそこが「たまらない」部分であり、そして、人によっては完全にコミット不可な部分なのだろう。人間ではない何かがあたかも人間のように振る舞うことで極めて不気味な世界を構築している一種のホラーゲームのようにも見えるし、全体がくだらないジョークであるかのように感じられる瞬間もある。トーンとしては一貫して弛緩しているため大まかにいって退屈だが、密度が薄いわけではない。その余裕や余白が「豊かさ」であるかのように思える瞬間は確かにある。

「何もない」が「ある」というレトリック

無意味なカットバック

 「シェンムーIII」の会話シーンは毎回謎のカットバックによって語られる。涼のバストアップが映る、涼が喋る、莎花のバストアップが映る、莎花が喋る。そしてカットバックのたびに謎にカメラアングルが俯瞰気味になったり、ゆっくりパンしてみせたり、ズームアウトしたりする。

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 上のスクショでは正面からのバストアップだったのが、下のスクショでは若干俯瞰かつ寄り気味になってるのが分かるだろう。普通映画だったら「このカメラワークにはこういう意味があって」みたいなやつがここではじまっちゃうわけだが、「シェンムーIII」でそれをやる必要はない。なぜなら無意味だからだ。

 プレイした人なら分かるだろうが本作の会話テンポは異様に遅い。その一因として「足踏みする会話」というものがある。「俺が?」「そうなんですか?」「占いを?」というように、芭月涼というひとは自分にきたパスをそのまま返す会話をする。そのたびにカメラのカットバックによるひと演出入るのでいったん話の流れが完全に静止する。

 単なる日常の会話シーンにもかかわらずカットバックによるカメラワークで遊ばざるを得ないのは、足踏みする会話の間を持たせる苦肉の策的な側面があるように思う。その結果話は空白部がどんどん伸びていくことになる。会話シーンによるカットバックでの演出のかさ増しは本作のトーン全体の象徴でもあると思う。

ストーリーの弛緩

 結論からいえば、本作では物語がほとんど進んでいない。そして白鹿村でも鳥舞でもまったく同じことを2回やらされることになる。

 重要人物を知ってる人を知ってる人を知ってる人を知ってる人から話を聞くためになにかやる必要がある、その過程で一度強い敵に会い負ける→負けたので新しい技を覚えようとするがそこで金稼ぎをさせられる→金稼ぎとして占いしてからギャンブルするように言われる→お金を稼いで技を教わるとボス戦になる、ボスを倒してラスボスに一歩近づく、がラスボスである藍帝を倒すのには至らない。シェンムーは4も作る予定らしいが、おそらく4で追加された新しいロケーションでも、まったく同じことをやらされることになる。

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 この空白に空白を足すようなストーリーテリングは無意味なカットバックと同じものだ。「シェンムーIII」は、もとからあったシェンムーシリーズという薄い味付けの本編に空白を付け足しまくることによって完成した作品だと思う。金策には(時間が無駄だと思わない人間や一生ミニゲームやってられるタイプの人間にとっては違うだろうが)ほぼ自由度がなく、せっかく広大な世界があるのにもかかわらずそれをほぼ利用しない点がもったいない。鳥舞にはその空白を象徴するような「おそらく背後ロードのために迂回して歩かせるためだけの空間」があり、本作の不格好さを象徴している。鳥舞での金策パートは特にひどくて、莫大な金をもうけけなければならず、その間話が静止し、そしてその苦労はプロット上ほとんど意味がない。

空白を埋めるもの

 と、事程左様に「シェンムーIII」は(少なくとも単にストーリーを追うだけでは)極めて空虚なゲームだ。しかし、最初に言ったように本作は「密度が薄い」ゲームではない。空白を埋めるためにさまざまな要素が登場する。例えば「人間」がそうだ。本作では(特に白鹿村では)ほとんど「モブ」が登場せず、ちょっとしか喋らない街のおばさんにでさえキャラ付けがある。

 ミニゲームやサイドクエストも豊富だ。全部全然面白くないが、ないよりはいい。特に薪割りとかはけっこうやってしまう魔力がある。馬歩とか寸拳とかやらされんのはけっこう苦痛だった。(なぜこんなにたくさんミニゲームをいれといて落とし玉とか花鳥風月とかゲーセンにある延々QTEやらされるやつとかがほとんどになってしまうのかマジで分からない。プレイヤーに対する嫌がらせなんだろうか)

 会話パターンも膨大、しかも前作や前前作のキャラクターに電話をかけられるのがすごい。もちろんゲームをクリアするためにかける必要は一切ない。あとマップを延々徘徊させられる人形探しだの野草探しだの……普通ゲームに空白がある場合、製作者としては空白を満たそうとすると思うのだが、「シェンムーIII」では空白を空白のままで放置し、その外側にいろいろな要素を足すという方式が取られている。

 「シェンムーIII」の中心には巨大な空白があり、膨大なサイド要素はその空白を満たそうとしない。結果空白は本作の独自性であり、違和感や奇妙さの根幹にもなっている(ロラン・バルトがどうこうみたいな話にもできそうだがやめとく)。その空白に、シリーズファンだった懐かしさのようなものが映って見えるし、例えばエスニックで不思議な、魔術のようなものが幻視されることがあるんだとおもう。実際、本作を高評価するレビューのほとんどがそういうものだと個人的には思う。つまり、空白に映った自分の憧れに点数をつけているのだから、低評価にはならない。個人的にも、本作の空白に何か重要なものが映ったように感じさせられたときはあった。「何もない」が「ある」というような気がするわけだ。でもそれはあくまでレトリックであって、何もないところには、何もない。

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さよなら、ノスタルジー

 本作の空白に映るのは、多くの場合ノスタルジーだろう。シェンムーを知らないプレイヤーが本作を急に遊ぶとは考えづらいから、プレイヤーのほとんどはシリーズファンだと思う。そういうプレイヤーにとって、本作は、かつてあった(はずの)余裕のあったゲームの貫禄のようなものが感じられるタイミングがもしかしたらあるかもしれない。オレにもあった。

 本作の最大の長所は、その「余地」だ。グラフィックスのできがよく、雰囲気がいいので、話が投げやりである点、お使いの連続に必然性がない点、謎解きや戦闘がイマイチ面白くない点、ミニゲームの(数は多いくせに)バリエーション不足な点などが気にならなくなってしまう瞬間がある。しかし、その魔法のような空白を取り除けば、本作は、ただ単に話が投げやりで、お使いの連続に必然性がなく、謎解きや戦闘がイマイチ面白くない上に、ミニゲームの(数は多いくせに)バリエーション不足なゲームであるともいえる。

 だから、結論としては、オレはそんなもんにかまうことはこれっきりにしようと思った。4が出ても、よっぽど評判がよくない限り手に取ることはないだろう。欠点にだってもちろん笑える瞬間もあったけど、大半はあきれてたしね。オレはリアルタイムで一作目の「シェンムー」をプレイし、それからしばらくしてから「シェンムーII」をやって、どちらもそれなりに楽しかったし、ずっとシリーズファンだった。本作もずっと楽しみにしていた。そしてシリーズファンとしては満たしてもらったと思う。十分すぎるほどに。でも、ゲーマーとしては、もっと面白いゲームをやりたい。

 同時期に発売された「龍が如く7」は(問題も多くあるが)自家中毒と向き合い、先に行こうとした傑作だった。「シェンムー」のその先を生きているわれわれが、その先をプレイしたいなら、これからは「龍が如く」シリーズをやればいい。人生の終盤に、もしかしたら思い出したくなるときくるかもしれないから、4以降はそんときに遊ぶことにするよ。

総評(というか感想)

 「シェンムーIII」は悪いゲームじゃないと思う。こんなに「空白」が全面展開されてる作品が何億円もかけて作られるのはまれなことで、そういう意味での異常性は存分に感じられるし、弛緩したテンポや、大仰な演出、どうかしてるキャラクターなど思わず笑ってしまうところもあるチャーミングなゲームではある。だから、このゲームが「素晴らしい」と評価する人の気持ちもなんとなく分かる。オレだって、自分の信仰に点数はつけられない。そういう意味では、百点以上の価値があるゲームだ。全てのゲームがそうだけどな。

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 しかし本作を「今のゲームにはない良さがある」とは絶対に評したくない。なぜなら、それは「シェンムー」のあとに、例えば「GTA V」や「Skyrim」や「The Witcher 3」や「Fallout 3」なんかを遊んで傑作だと思ってきたオレの(われわれの)人生の否定になるからだ。われわれは「次」が見たいのであって、足踏みが見たいわけじゃない。「シェンムーIII」最大の問題点はそこで、「シェンムーII」の次ではなく、そのままの「シェンムー」だったことだとおもう。それは確かに懐かしくて、どうしようもなくいとおしくて、離れがたいときもある。

 「シェンムーIII」にはもしかして「次」のヒントがあるのではないかと思ったこともあったけど、やっぱりあんまりなかった。あるとしたら「エスニックなものは面白い」ということなんだろうけど、「想像上の中国」みたいなのってこれからなかなか難しいんじゃないかなあ。「日本には侍がいて忍者がいてマジカルパワーを使う」というような外国人が信じる日本への憧れは「黒人は足が速い」と同じで裏向きの人種差別でもある。日本人が作ったゲームなのにもかかわらず、本作からはそういうヤダ味も感じさせられた。オレが敏感すぎるだけかもしらんけどね。

最後に

 ありがとう涼さん、久しぶりに会えてうれしかったよ。親父の敵討ち頑張ってくれ。オレはオレで、まあ、やってくよ。またどこかで!

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