勤続半世紀、国立科学博物館の“必殺仕事人”が描いた「世界の鯨」ポスターに秘められた物語(2/3 ページ)
完成までの秘話
山田先生、宮崎信之先生(前・国立科学博物館動物研究部研究主幹、元・東京大学教授)の指示のもと始まったポスター製作。大きさによってサイズを使い分けたBBケント用紙を板張りして下絵から描いていく。
「まず、どのクジラもポスターに描かれているような真横から見た姿の資料はそうそうないんです。シロナガスクジラのような大きな個体はレンズに収まりきらないし、顎のジャバラ部分は膨らみ加減によって形が異なってくるので、何度も先生に確認して、納得いくまで何枚も下絵を描き直しました」(渡辺さん)
「監修:国立科学博物館」を掲げている以上、中途半端なものは作れない。それは、先生たちを悩ますことも多かった。例えば、幻のクジラと呼ばれるタイヘイヨウアカボウクジラモドキ。日本で漂着個体が発見されるまでは、世界に頭骨が7個しか存在せず、外貌は誰も知り得なかった。日本で確認された漂着個体2例の外貌や計測用紙を参考にしながら、山田先生と共に描き起こしていく。しかし、2個体分しかないデータであっても、それぞれの外貌や特徴はいろいろに違っていた。初見の人にも正しい生態を知ってもらいたかった山田先生と渡邊さんは、その2個体分のデータを細部に渡って吟味し、何度も描き直し、完成させた。
他にも、サメに食われた部分を描くのが大変だったミンククジラや、角の角度に悩んだイッカクなど、どの種類のクジラも一つ完成させるのに多くの時間を費やし、神経をすり減らしたそうだ。
「水彩での色付けも苦労しました。同じ黒でも色合いが違うので、色を重ねてそれぞれの特徴にあった黒を出していくんです」(渡辺さん)
下絵を何度も描き直し、色付けしていく作業を83体分繰り返した渡辺さん。A3のBBケント用紙に描いたシロナガスクジラの絵は完成までに1年を要したという。そうして足かけ何年もの時間をかけて描き続け、第4版まで発行した「世界の鯨」ポスターは、さまざまな場面で役立てられている。
トップレベルといっても過言ではない完成度のポスターは専門家の評価が高く、各地の水族館や講義で多く使われている。研究者が現場でも使えるよう耐水紙にしているそうだ。もちろんクジラ好きの人々にも好評のようだ。ネットで「世界の鯨 ポスター」と検索すると、部屋で大切に飾られているポスターの写真や「かっこいい」「一目ぼれした」という人の投稿を多く見つけた。
今も標本庫の奥にある作業机で黙々と博物館の仕事にいそしむ渡辺さん。「ここにいると落ち着くんです」と向かう机の傍らにはクジラの絵の原画が大切に保管されていた。
「私よりももっと絵がうまい人はいたはずなのに、このチャンスをくれた周りの先生たちには感謝していて、今もこうやって残るポスターを作れたことをとてもうれしく思っています。自分の昔の絵を見るのは恥ずかしいんですけど、よく描けたクジラの絵なんかは『あら、この上手な絵は誰が描いたのかしら』なんて、今でもうれしくなっちゃうんです」(渡辺さん)
謙虚でひたむきな渡辺さんが描き上げた「世界の鯨」ポスターには、半世紀の物語と情熱が詰まっていた。
(あだちまる子)
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