自分に正直な漫画を毎回全力で描く:クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書 第2回 藤田和日郎(1/2 ページ)
『うしおととら』『からくりサーカス』などの藤田和日郎さんにインタビュー。
「クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書」とは
クリエイターに役立つ情報を発信するWebメディア「いちあっぷ」がお届けする連載企画。ねとらぼエンタでは、各インタビューの前編を転載掲載していきます。後編は「いちあっぷ」のサイト内でご覧ください。
藤田和日郎氏が描く少年漫画はとにかく熱い。そしてその熱さを支えているのは、“正義が必ず勝つ”という読み手にとっての絶対的な安心感だ。
「クリエイターズ・サバイバル アーティストの戦略教科書」第2回。前編では、そんな藤田さんに、漫画や出版の在り方が大きく変動したこの30年をどういうふうに作家として生き抜いてきたのか、ヒット作『うしおととら』や『からくりサーカス』などの創作秘話を交えて語っていただいた。
時代に流されない“自分の漫画”でデビュー
―― 短編『連絡船奇譚』で藤田さんがデビューしたのは1988年のこと。同作は、のちの藤田作品の原点ともいえる人間と妖怪が戦う物語だが、当時の漫画界のトレンドはどういうものだったのだろうか。
80年代の『少年サンデー』について言えば、人気があったのはスポーツ漫画とラブコメです。高橋留美子先生や細野不二彦先生など、SFっぽい作品を描かれている方もいましたが、それはどちらかといえば少数派で。
また、これは『サンデー』に限らず、少年誌も青年誌も全体的にオシャレな雰囲気の漫画が多かった気がしますね。鈴木英人さんのイラストの世界みたいな、キラキラしたモノが宙を舞ってたり、扉絵の背景に英字新聞をコラージュしたり。あるいは水彩絵具で塗らずにカラートーンを貼ったり、意味もなくキャラの後ろでネオンライトが光ってたりとかね(笑)。もちろんそういうオシャレな世界が悪いとは言いませんけど、自分には合わないなと漠然と感じていました。
それと絵的な面では、新人の漫画家の多くは大友克洋先生か鳥山明先生の影響を受けていましたね。かく言う僕も大友先生みたいな絵を描けたらいいなあと憧れてた時期もありましたよ(笑)。
でも、最初のうちはそれでいいと思います。一所懸命好きな漫画家さんの絵の模写をしたり研究したりしているうちに、それが向いているのか向いていないのかわかってくるし、本気で描きまくれば、いつか“自分の絵”を生み出すときが来ると思いますから。
―― そんな藤田さんがデビュー作で描いた絵、特にキャラクターの主線は勢いがあり、太く、どちらかといえば時代に逆行した古典的な劇画のスタイルによるものだった。荒々しい描線やベタが縦横無尽に紙の上に引かれ(塗られ)、それは色に例えれば“黒”であり、当時一世を風靡(ふうび)していた大友克洋氏の“白”い作画スタイルとは正反対のものだった。また、内容的にも、『連絡船奇譚』は『サンデー』の主流だった明るいラブコメでもスポーツ漫画でもない、おどろおどろしい伝奇アクションだった。
『連絡船奇譚』という漫画は、大学時代に投稿や持ち込みをしてうまくいかず、いろいろとあがいた末に、“最後にちゃんとした漫画”を1本描こうと思って描いた作品なんです。“ちゃんとした漫画”というのは、時代の流行に流されない自分のタッチで描いた“自分の漫画”ということです。
これがダメなら就職しようと思いました。当時僕はすでに大学を卒業していて、1年間だけ親に猶予をもらっている“何者でもない存在”だったんですよ。だからこそ『連絡船奇譚』にはその当時の僕の“全力”が入っていますし、そんな“後がない”というヒリヒリした感覚は、主人公たちの行動やセリフにも少なからず反映されている気がしますね。
主線が太いことについては、以前アシスタントに行ったことのある、あさりよしとお先生が、「主線が細いと情けない絵になっちゃうよ」とおっしゃっていたからでしょうね。
それと『どっきりドクター』のころの細野不二彦先生の線もちょっと意識してたかな。今思えば、石川賢先生や永井豪先生、安彦良和先生、高橋葉介先生などの影響もある気がします。でもあのときは、特に誰々のまねをしようというんじゃなくて、そういうもともと好きだった系統の絵柄を“自分のもの”として吐き出したら、自然とああいう絵が生まれたわけなんですよ。
―― 後がない状態で全力を出して挑んだ作品が、小学館の「新人コミック大賞」に入賞し認められた。また、作品も雑誌に掲載された。このときの気持ちを今でも覚えているだろうか。
そりゃもちろんですよ。いやー、本当にうれしかったですね。格好付けて、「デビュー作はあくまでも自分にとっては通過点」みたいなことをクールに言う人もいますけど、僕の場合は鬼の首をとったというか、盆と正月が一緒に来たというか、とにかく大喜び(笑)。
受賞作が掲載された『サンデー』の増刊号は、僕の家の周りのコンビニから消えましたからね。僕が全部買い占めちゃったから(笑)。で、いろんな人に「読んでね」って渡しまくって。あのときの喜びは今でも忘れませんよ。
―― 『連絡船奇譚』を担当した初代担当編集者は雑誌掲載後に異動となり、代わりに武者正昭さんが二代目担当編集者となった。のちに『うしおととら』の初代担当編集者となるこの武者さんは、藤田さんにとっては “育ての親”と言ってもいいような名編集者だが、そもそも藤田さんにとって編集者とはどういう存在なのだろうか。
最近のSNSなどを見ていると、「編集者不要論」みたいな意見を見掛けますけど、とんでもないことだと思います。漫画家だけで面白い漫画は描けませんよ。
と言ってもただの“お仕事”でやってるような編集者はいりませんけどねぇ(笑)。こちらに対して、「お前の漫画が売れなかったら俺も困るんだ!」なんて感じが出ている人だったら最高ですけどね。そういう人とああでもないこうでもないと顔をつきあわせて、一緒に悩んで、面白い漫画というものは生まれるんだと思いますね。
時にはちょっとこの人とは考え方が違うな、と思うような人もいるんですけど、それでもいないよりはマシ。自分の漫画を読んで、自分なりにいい作品にしようとしてくれる人だったら、たとえネームを否定されてもどこがどうダメなのかちゃんと聞く気がしますもんね。
だから僕にとってのいい編集者というのは、「この人を喜ばせてあげたい」と思わせてくれるような人ですね。そして、原稿やネームを受け取ったときは僕を喜ばせてほしい(笑)。「面白い!」と褒めてくれるのでもいいし、逆に否定的な意見をぶつけてくれるのでもいい。なんにせよ「面白さ」に真剣にぶつかってきてくれる編集者が、僕にとっていい編集者なんです。
2本のヒット作と同時代のライバルたちのこと
―― 1990年、藤田さんは『うしおととら』で長編連載デビュー。「少年サンデーコミックグランプリ」という、連載漫画の第1話を募集するという珍しいかたちの新人賞(第2回)で入選したのだ。
もともと『うしおととら』の第1話のネームは、増刊の連載を目指して描いたものだったんです。いつも厳しい顔して、僕のネームを見てもなかなか首をタテに振ってくれなかった武者さんが、あるとき、「ペン入れしてみな」って言ってくれて。
で、こっちはてっきり増刊の連載が決まったもんだと思って気合い入れてペン入れしたんですけど、実際は「コミックグランプリ」への応募作にするんだというのを後で知って。ちょっとがっかりしましたけど、新人は担当編集者に何も言えませんからね。「はい、喜んで!」って(笑)。
とにかく、増刊でもなんでもいいから、少年誌のあの色のついたざら紙に自分の漫画が載っかればよかったんです。もっと言えば、漫画じゃなくて1カットのイラストでも構わない。当時はそれくらい飢えてましたし、その気持ちは今も忘れるべきじゃないと思いますね。幸い『うしおととら』はその賞に入選して、取りあえずは集中連載みたいなかたちで始めさせてもらえることになりました。
―― 『うしおととら』は集中連載の「石喰い」を経て、本連載になり、集中連載どころか結果的に全33巻に及ぶ大長編となった。当時、というのは80年代末から90年代にかけてのことだが、藤田さんの他にも、河合克敏氏、皆川亮二氏、椎名高志氏、村枝賢一氏、久米田康治氏、藤原芳秀氏など、同世代の若い才能が『少年サンデー』で花開いていた。こうした多くの優れた才能が同じ時期に同じ雑誌に集まっていたことについて、当事者としてどういうふうに感じていたのだろうか。
今名前を挙げられた人たちは、もちろん『サンデー』の限られたページ数の中でしのぎを削るライバル同士ではあったと思います。でもね、漫画家なんてさみしいもんですから(笑)。変にライバル視して壁を作るんじゃなくて、僕の場合はむしろ友達になろうとしていましたね。
最初に仲良くなったのは村枝くんだったかな。僕が描いた読切『メリーゴランドへ!』を読んでくれて、「よかったよ」って電話で言ってくれて。で、そのあと一度飲みに行って仲良くなったんですけど、そうこうしているうちに、編集さんを通じて他の年齢が近い漫画家たちとも自然と知り合うようになって、だんだん横のつながりができていった感じですね。
え? その連中と会って何を話すんですかって? 基本的にはグチの言い合い(笑)。でも、そういう後ろ向きな話だけでなく、ネームを見せ合ったり、誰かが新連載をとったって言ったら、「おお、やれやれ!」って感じで、みんなで盛り上げたり。アシスタントをつれて大勢で温泉旅行に行ったりね。
河合さんと皆川くんとこの間、ある展覧会に行ったりもしましたけど、やはり同じ時代の空気を吸ってた者同士はいいもんですね。それなりに食べられるようになったあとで知り合いになった漫画家同士ってのはなかなか打ち解けられないものだけど、90年代の『サンデー』で一緒に描いてた人たちってのは、自分にとっては別格の存在です。
極端な話、彼らにだったら、「きみの漫画、最近面白くないんじゃない」って言われても腹を立てずにどこが面白くないのか真摯(しんし)な態度で聞けますからね。
―― 1997年、『からくりサーカス』連載開始。ヒット作の次作はヒットしないという少年漫画のジンクスを打ち破り、こちらも大ヒット。『うしおととら』を上回る全43巻の大長編となったが、作劇の面では、物語開始時に大きく広げた風呂敷をたたむことに苦心したという。
ですから僕は、『からくりサーカス』の中盤から後半にかけては、ものすごい謙虚な人になってました(笑)。と言うのは、『うしおととら』が終わった直後は、「俺はどんな壮大な物語でもまとめられるぞ!」と天狗(てんぐ)になってましたからね。今思い返せば、あの鼻をへし折ってやりたい(笑)。
でも、天狗になってる最中はそんなことは気付かないから、『からくりサーカス』もどんな複雑な伏線をばらまいても俺ならまとめられるだろうと思い、後先考えずにどんどん話を広げていったんです。
結果、ばらまいた伏線を回収するのに苦心しました。正直に言えば中盤どころか1巻目を描き終わったくらいのころから途方に暮れてましたよ(笑)。
―― ばらまいた伏線を、実際どういうふうに回収していったのだろうか。
ひたすら「この歯車とこの歯車のあいだにこの歯車を置いて……」と、まさにパズルのように一つ一つのエピソードを組み立てていきました。気が遠くなるような作業でしたね(笑)。
ただ、どんなに途方に暮れるような難しい物語作りも、考えて考えて考え抜けば何か思い付く、という妙な自信はつきましたね。だから漫画家を目指してる若い人たちにも、プロット作りで行き詰まっても、何か描きたいものが最初にあるんだったら絶対に諦めずに、考え抜いてみろと言いたいですね。あー、いや、9年も掛かってるからあまり偉そうなことはいえないか(笑)。
―― 90年代は、いわゆる世紀末ということもあり、毒のある過激な漫画が好まれる傾向にあった。映画の世界でも、80年代のどこかネアカでばかっぽい要素を残していたホラー映画とは異なり、暗く猟奇的なサイコホラーが一大ブームとなった。藤田さんの漫画にもホラー的な要素や過激な暴力表現は出てくるが、そういう時代の空気みたいなものは意識していたのだろうか。
90年代は確かに、人間の心の闇を描いたような、読むのがつらい漫画が少なくなかったですね。その反動か、「そのままのきみでいいんだよ」というような癒やしや優しさを求めるような風潮もあって。
『からくりサーカス』にもおっしゃるように残酷な描写はかなり出てくるんですが、あまり時代の空気みたいなものは意識していませんでした。世紀末に流行っていた一連の過激な漫画が読者に見せたかったのは、たぶんその過激さや残酷さ自体にあったと思うんですけど、僕が描きたい最終的な目的は“その先にある光”でしたから。
“光”に対する“闇”として、僕もそういう残酷なものを描くことはあるけど、決してそれだけを描きたいわけじゃないんです。前作でうしおが言った“太陽”というキーワードがわかりやすいかと思いますが、そういう“光”を際だたせるために、暗い部分にも目を背けずに描いているというだけで。
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