「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい」 推しの炎上や裏切りにあった人、宇佐見りん『推し、燃ゆ』を読んで感想を聞かせて(2/2 ページ)
推し、燃ゆ(冒頭試し読み)
推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。まだ詳細は何ひとつわかっていない。何ひとつわかっていないにもかかわらず、それは一晩で急速に炎上した。寝苦しい日だった。虫の知らせというのか、自然に目が覚め、時間を確認しようと携帯をひらくとSNSがやけに騒がしい。寝ぼけた目が〈真幸くんファン殴ったって〉という文字をとらえ、一瞬、現実味を失った。腿の裏に寝汗をかいていた。ネットニュースを確認したあとは、タオルケットのめくれ落ちたベッドの上で居竦まるよりほかなく、拡散され燃え広がるのを眺めながら推しの現状だけが気がかりだった。
無事? メッセージの通知が、待ち受けにした推しの目許を犯罪者のように覆った。成美からだった。翌日、電車の乗車口に駆け込んできた成美は開口一番「無事?」と言った。
成美はリアルでもデジタルでも同じようにしゃべる。ふたつの大きな目と困り眉に豊かに悲しみをたたえる成美の顔を見て、あたしはよく似た絵文字があるなと思いながら「駄目そう」と言う。「そうか」「そうよ」制服のワイシャツのボタンを二個はずした成美が隣に腰を下ろすと、柑橘系の制汗剤が冷たく匂った。きついまぶしさで見えづらくなった画面に0815、推しの誕生日を入力し、何の気なしにひらいたSNSは人の呼気にまみれている。
「かなり言われてる感じ?」んしょ、と成美も携帯を取り出す。透明なシリコンの携帯ケースに黒っぽい写真がはさまるように入っていて「チェキじゃん」と言うと「最高でしょ」、スタンプみたいな屈託のない笑顔が言った。成美はアイコンを取り換えるように都度表情を変え、明快にしゃべる。建前や作りわらいではなく、自分をできるだけ単純化させているのだと思う。「どんだけ撮ったの」「十枚」「うわ、あ、でも一万円」「て考えると、でしょ」「安いわ、安かったわ」
彼女が熱を上げているメンズ地下アイドルには、ライブ後に自分の推しとチェキ撮影のできるサービスがある。見せられた数枚のチェキには長い髪を丁寧に編み込んだ成美が写っていて、後ろから腕を回されたり推しと頬をくっつけたりしている。去年まで有名なアイドルグループを追いかけていた成美は「触れ合えない地上より触れ合える地下」と言う。あかりも来なって、はまるよ、認知もらえたり裏で繋がれたり、もしかしたら付き合えるかもしれないんだよ。
あたしは触れ合いたいとは思わなかった。現場も行くけどどちらかと言えば有象無象のファンでありたい。拍手の一部になり歓声の一部になり、匿名の書き込みでありがとうって言いたい。
「ハグしたときにね、耳にかかった髪の毛払ってくれて、何かついてたかなって思ったら」
成美が声をひそめる。
「いい匂いする、って」
やっば。小さい「っ」に力を込める。成美が「でしょ。もう絶対戻れないな」とチェキを元通りにしまう。去年まで成美が追っかけていたアイドルは留学すると言って芸能界を引退した。三日間、彼女は学校を休んだ。
たしかに、と言った。電柱の影が二人の顔を通り過ぎた。はしゃぎ過ぎたとでもいうように成美は曲げていた膝を伸ばし、桃色の膝頭に向かって急に落ち着いた声で「でも、偉いよ、あかりは。来てて偉い」と呟く。
「いま、来てて偉いって言った」
「ん」
「生きてて偉い、って聞こえた一瞬」
成美は胸の奥で咳き込むようにわらい、「それも偉い」と言った。
「推しは命にかかわるからね」
生まれてきてくれてありがとうとかチケット当たんなくて死んだとか目が合ったから結婚だとか、仰々しい物言いをする人は多い。成美もあたしも例外ではないけど、調子のいいときばかり結婚とか言うのも嫌だし、〈病めるときも健やかなるときも推しを推す〉と書き込んだ。電車が停まり、蝉の声がふくらむ。送信する。隣からいいねが飛んでくる。
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