お前はいきなり何を言うのかと思われるのを承知で申しますと、私は自他ともに認める極度の「百合厨」です。「百合厨」とは「百合」というコンテンツに対し人一倍好む人間のことを指し、ねとらぼ読者の皆さまに説明の必要はいらないとは思いますが、百合というのは女性同士の熱い友好関係を表現した言葉であり、それは恋愛感情であったり、友情関係であったり、姉妹愛、親子愛、師弟愛、はては好意的な相互関係にとどまらず「憎しみ合うのは百合」「ロボットは百合」「男同士は百合」などと、個々人の思い入れによって百合の定義は日夜、宇宙のように広がりを見せています。
古来より存在するコンテンツであり、かねて一部からは熱い支持を受けていながら、オタクの世界において長らくマイナージャンルの1つであった「百合」は、2000年以降、今野緒雪氏による少女小説「マリア様がみてる」のヒットや、初の本格的百合漫画専門雑誌「百合姉妹(「コミック百合姫」の前身的雑誌)」などの創刊によってブームとなり、さまざまなアニメやコミック、小説やドラマなどの作品で重要なエッセンスとして生かされ、今では定番のジャンルとしてすっかり浸透しきった状況です。「百合」をテーマに扱った真面目な考察も増え、2014年はあの芸術総合誌「ユリイカ」が「百合文化の現在」という特集を組むなど、1つの文化としてますます注目を集めています。
ここで「百合」の歴史や文脈を語ることは置いておきますが、「百合」が創作コンテンツとして定着した理由としては、オタクにとっては男性不在の安心感が受け入れられたとか、同性同士の深い関係性に対し抵抗を抱かない世代や好きだと公言する層が増えたとか、表現の方向性が作る方も受け入れる方も豊かになったのだからこういった流れも当然、などといったまゆつばなものから納得度の高いものまでさまざまな要因が挙げられるのですが、私ほど思考をドブに放棄した妄信的な百合厨になると「最高だから」以上の理由を見いだすことができません。ですが「百合」の魅力を訴えてきた先人達、そして今まさに訴えている人達が、さまざまな形で素晴らしい活動と実績を残してきたからというのは、疑う余地もないでしょう。
「百合」が決してオタクと呼ばれる人達にのみ向けられたジャンルでないことは確かなのですが、オタク向けのコンテンツ、特に美少女なり少女漫画的な作風となるとどうしても、登場人物の設定は十代の少女が多くなってしまいます。必然的に、「百合」に分類される作品のキャラクターも少女に偏ってしまいがちです。
ですが、百合作品もまた表現の幅や媒体が広がり、新たな作り手が次々と表れ、需要もまた発掘されていく中、昨今はキャラクターの設定に成人や有職者を設けた「社会人百合」が新たな波を起こしつつあります。
では少女達の感情や関係性を象ってきたこれまでの百合と、成人を主軸に据えたい「社会人百合」とでは、具体的にどのような違いがあり、「社会人百合」には一体どのような魅力があるのでしょうか。
社会人百合の魅力を語るぞ
既に社会人の皆さまにはお分かりだとは思いますが、社会人になると学生時代と比べて精神的成熟の度合い、あらゆる場面での加齢に伴う身体的現象、社会的な役割や環境の変化など、大きな差異が次々と訪れるものです。青春期には見出だせなかった世界、あらゆる可能性が、「社会人百合」のドラマ性を大きく押し広げてくれるのです。
キャラクターの精神面などにスポットを当てた場合、例えば少女達の百合を語っていると、定番のように差し出される「同性にひかれるのは思春期にありがちな一過性の感情」というフレーズがあります。その是非は少女達の儚さを美しく彩る効果を持つ一方で、真摯(しんし)な感情を単なる思い過ごしと一蹴してしまう横暴さもあり、この問題に関しては百合を愛好する者の間にも賛否の分かれる部分ではあります。
しかし、精神的成熟を要求される社会人という立場になるとこのような文言はほとんど使えなくなり、人が人にひかれる理由や意味などが若い頃よりも明確に理解できるようになることによって起こる心理面の掘り下げ、社会的立場のある人間ならではの責任感や葛藤、「何か」が起きてからの言い訳の効きづらさ、歳と経験を重ねたからこそ分かる恋愛の滋味など、心理描写だけをとってもドラマに一定の緊迫感やリアリティーを演出する要素が多分に発生します。また、少女から成人女性になることによって起こる環境の変化がもたらす表現の増加にも注目したいところです。
現実的な側面で一番大きな変化は「経済力」と「法的規制」でしょう。「恋人と海外でロマンティックなバカンス」とか「豪華なレストランでデート」など、これが経済力を持ち難い少女同士での描写だと、「どこから金を出したんだ」というツッコミ要素になってしまいます。純粋に「経済力がない」ということはある程度限定的な状況を生み出すものなのです。当然予算のかかっている描写は少女同士の百合でも決して不可能ではないのですが、社会人百合ではその点を比較的シームレスにできるため、設定の幅が広がりを見せます。
「夜遅くまで街で遊んでいたら終電逃して帰れなくなっちゃったのであの人の部屋へお邪魔。そのままベッドインしてともに朝を迎える」という、社会人ならあるあるで済みそうな状況も少女百合で表現すると、法に抵触する描写も出てくる反道徳的不良少女百合の完成です。暴食の百合厨としては決してやぶさかではない設定なのですが、極端に描写や読者を限定する状況にもなりかねません。
また、肉体関係を描写する点においても、少女百合に比べて関係に及ぶまでの肉体的、精神的な距離の短さ、ハードルの低さが顕著になります。これは性体験の経験値やそういった「コト」に及ぶ状況の生まれやすさも手伝っており、「宅飲みで朝チュン」は今や社会人百合の定番設定です。また成人女性が未成人の少女に手を出すことは法的にアウトなのですが、成人女性同士であれば双方の合意ならばその心配もありません。
また、職業設定にも注目したいところです。現実的な設定で少女同士の百合を描くとなると、身分が大概「学生」などであったりするため、ある程度広がりに欠ける部分も出てきます。ファンタジーやSFに目を向ければ「アイドル」とか「王女」とか「ロボット」とか「魔法使い」などやりようはいくらでもあるのですが、その点において社会人百合には「職業」という創造の幅を広げる最大の武器があり、仕事の数だけドラマがあります。
「女医と看護師」もよろしい、「ミュージシャンとマネジャー」も悪くない、「女社長とヒラのOL」もありでしょう。職業に貴賎なし。百合にも貴賎なしです。
このように、「社会人百合」は少女百合では描けない部分に手が届く、大きな可能性を秘めています。当然、少女百合でしか描けない部分なども多くあるのですが、どちらもおいしくたしなめるほどの欲張りでありたいものです。
社会人で描かれるのは「百合」なのか「レズビアン」なのか
一方で、百合というのはあくまで少女達を取り巻く関係性や感情を指すのであり、大人になったらそれは「レズビアン」だという声も目にします。「百合はあくまで架空の事象で、現実を指すのがレズビアンだ」「百合は精神的なもの、レズビアンは肉体的なもの」「一緒にしたら困る人もいるのではないか」などといった意見も見受けられ、その定義の違いや言葉の適切な用法を指し示すことは私にも不可能なのですが、それでも「百合」という言葉が少女周辺の事柄のみを指すにとどまらず、大人の女性同士、それも実在する人物の関係を指すうえでも十分な価値を持っています。
2015年刊行された、ネギたぬさんによるコミックエッセイ「まんがで綴る百合な日々」は、実際の女性同士のカップルであるネギ氏とたぬ氏の馴れそめや日常を描いた読み応え十分の佳作です。またレズビアンをカミングアウトしており、パートナーとともにメディアへの露出も行っているタレント・執筆家の牧村朝子氏も「百合のリアル」といったタイトルの素晴らしい単著を出版しており、「百合」というフレーズが実在の成人した個人やカップルによって広く使われる事例も目立っています。
世間では世界規模でLGBTが注目を集め、認知を広げていく中で、フィクションの世界においても現実社会の問題に即した設定の社会人百合作品が次々と生まれています。ロサンゼルス在住の日本人漫画家・熊鹿るり氏によるコミック「とある結婚」は、アメリカに住む女性同士のカップルの、同性婚をめぐっての偏見との衝突や家族との確執を痛切に描いていますが、こちらも帯の紹介文では「新世代の百合マンガ」と記されています。
「百合」と「レズビアン」の違いは何か、というこれまでに幾度と無く繰り返されては答えが出ないままにされてきた問いに、1つのクリティカルな回答を示した例があり、それは先述の「ユリイカ2014年12月号 特集:百合文化の現在」に掲載された人気百合漫画家・天野しゅにんた先生のインタビュー内において天野先生が引用した、こちらもまた人気百合漫画家である森島明子先生の言葉によるものです。
「レズはひとりでいてもレズ。百合は二人いるのを外部が見て決めるもの。本人達がどう考えているかはともかく、百合は外部から見てはじめて百合になる」
あくまで数ある定義の1つではあるのですが、百合を語るにおいて覚えておきたいこの金言。社会人百合がますます可能性を広げ、勢いを増していくうえでは切り離せないものになるかもしれません。
社会人百合の魅力はまだまだ語り尽くせません。当然、少女を取り巻く百合にもまだまだ可能性と魅力が無限に残されており、百合というコンテンツはまだまだ味わい方が眠っている金脈。ともに掘り下げてみませんか。
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