クリストファー・ノーラン監督の新作、『ダンケルク』。第二次世界大戦前半の大きな転換点となった、フランスからのイギリス大陸派遣軍およびフランス軍の撤退作戦を、現場の兵士たちや救出に向かう民間船の目線で描いた作品です。
先日筆者も劇場まで見に行ったのですが、印象的だったのが「結局これどこが面白いの!?」と喋りながら出てきた観客がいたことでした。そう言いたくなる気持ちは非常によく分かります。なんせ『ダンケルク』は普通の映画と異なり、「キャラクターと、彼らによって紡がれる物語」を描写した作品ではありません。
巨大なIMAXのスクリーンに映るのは、広大なドーバー海峡や、だら〜っと広がったダンケルクの海岸。そしてその間で右往左往する人々の、その右往左往の断片だけがごろりと転がっているような映画です。
キャラクター性が希薄な登場人物たち
『ダンケルク』は3つの異なる時間軸を混ぜこぜにして一本の映画にしつつ、あえてそれを細かく説明せずに提示する、という方法をとりました。ダンケルク海岸を離れるため悪戦苦闘する兵士トミー、海岸のイギリス兵を助けるため民間船「ムーンストーン号」を出港させる船長のドーソン、救出作戦を支援するため戦闘機でダンケルクに向かうパイロットのファリアー。
陸海空にまたがったこの3人はそれぞれ移動速度が大きく異なるのですが、時系列をシャッフルしつつ全体の描写の総量をできる限り省くことで、ダンケルク撤退にまつわる3人分の物語を106分の上映時間内に詰め込んでいます。
この106分の間、観客にはそれぞれの登場人物のキャラクター性に関する情報はほぼ与えられません。トミーをはじめ海岸に並んだ兵士達の内面は極限まで削ぎ落とされ、変化する状況におっかなびっくり対応しつつ逃げ惑う姿だけが描かれます。そもそもキャラクターの名前が「トミー」ですが、これは大戦中のイギリス兵全体を指すスラングでもあります。このネーミングが暗示するように、彼は“その他大勢”のうちの1人にすぎず、従ってヒロイックな活躍の機会はありません。
当時の最新鋭機であるスピットファイアを操るファリアーは活躍の機会があるのでもうちょっとマシですが、キャラの立ってなさはトミーといい勝負です。「燃料計が壊れてもダンケルクに向かう」というところから度胸のあるパイロットだということは分かるのですが(当時のスピットファイアの航続距離ではダンケルクに行って戻ってくるだけでかなりの燃料を使うので、燃料計の故障は死活問題です)、映画が終わってもファリアーがどのような人物なのかは皆目分かりません。なんとなく「タフで勇気あるイギリス空軍のパイロットを概念化した存在」っぽい人物です。
この映画の3つの視点の中で、ドーソン船長だけはちょっと毛色が違います。他と違って彼は民間人であり、自らの決断でダンケルクの兵士を助けに向かいます。彼のキャラクターもやはり劇中であまり語られていません。ですが、ムーンストーン号の船尾に掲げられている旗がブルー・エンサインであり、この旗は現役および退役した海軍軍人が船長を務めている民間船か、歴史のあるヨットクラブに所属している船しか掲げることができないものであること、加えて長男がイギリス空軍所属でハリケーンに乗って戦死したというセリフがあることから、彼の身の上を推測できます。
すなわち、ドーソンはイギリス海軍に所属していた元軍人で、空軍に勤務していた息子をフランスでのドイツ軍との戦いで失った(イギリスはヨーロッパでの戦いに虎の子のスピットファイアを派遣せず、旧型の戦闘機であるハリケーンしか送らなかった)という人物である可能性が高いのです。
このことから、彼が海軍に自分の船を差し出さず、自らダンケルクに同胞を助けに向かった動機がうっすらと見えてきます。しかし、これも注意して映画を見た上である程度予備知識がないと分かりません。つまり、この映画で一番「戦う理由」があったであろう人物すら、その程度のあっさりした描写でスルーされていることが分かります。
“概念”としての敵国、“事象”としての戦争
彼らを襲う強敵であるドイツ軍に至っては、もっと「概念」に近い描かれ方をしています。まず冒頭、英仏軍がダンケルクに追い詰められていることを説明するのですが、そこではドイツ軍という単語すら登場せず「The enemy」とだけ呼ばれます。それ以降ドイツ軍として登場するのは爆撃機や戦闘機といった飛行機だけ。地上部隊の存在を示す描写は銃声と弾痕だけです。
史実でもダンケルクに英仏軍を追い詰めたところでヒトラーが陸軍部隊の前進を停止させ、攻撃の主軸を空軍に変更したという経緯があるので、ドイツ軍航空機による攻撃が描かれるのは道理です。しかし、徹底してドイツ軍パイロットなどを登場させず、攻撃を受ける地上のイギリス兵の目線だけから空襲を描いた点からは、この映画におけるドイツ軍は記号的な「敵」であり、作品内では彼らによって引き起こされた事象のみを描きたいという意図を感じます。
助けを待つ“その他大勢”のうちの1人、概念化された“勇気あるパイロット”、背景があるにもかかわらずそれが語られない民間人の船長、そして顔すら見えない敵。このような人々を作品の主要要素として配置した理由には、キャラクターの持つ情報量を極限まで減らし、「事象としての戦争」の姿を浮かび上がらせる意図があったのではないかと考えられます。
実際、ダンケルクという奇妙な戦場と、そこで起こった物事の質感は嫌というほど劇中で描写されます。市街地を抜けたらすぐに海岸という戦場の狭さ。サイレンの音を響かせて急降下してくる爆撃機の恐怖。四六時中海風に吹かれ、ずぶぬれになって並んでいなくてはならない不快感。やっと乗れた駆逐艦で飲む紅茶。狭いスピットファイアのコックピット。
大局的に状況を伝える大きく引いたショットと兵士の目線そのもののショットが相互に補完しあい、観客には大規模な空海戦のダイナミズムとミクロ視点で兵士たちが感じる手触りが伝わってきます。特に海岸の兵士が味わう閉塞感と緊張感は、ハンス・ジマーの音楽(部分的には音楽かどうかも怪しい)も相まって胃が痛くなるほどです。
「戦争」という「よく分からないもの」の断片
このように、『ダンケルク』は劇中で手を尽くして語られている情報と、語られていない情報の落差が非常に大きい映画です。この落差からは、『ダンケルク』が描きたいものは物語ではなく、戦場という巨大な状況とそこに放り込まれた(普遍化された)人間であるという意図が見えてきます。
映画的な要素を抜き取った、事象としての戦場では何と戦っているかは曖昧であり、普遍化されたキャラクターはさらに物語性を薄めます。その結果、われわれが見るのは純粋な戦場の断片のみとなっていくのです。
本来、戦争というのは個人にとってひどく断片的なものです。戦場に立つ一兵士には戦争全体を見回すことはできないし、後方で指揮をとる高級将校には前線の兵士の感情は分かりません。特に第二次世界大戦のような大規模な戦いで、人間が戦争の全体を知覚するのは不可能です。そんなよく分からないものの断片を、断片のままぶつ切りにして106分の上映時間に詰め込めるだけ詰め込んだのが『ダンケルク』です。
だから、前述の観客の「どこが面白いの!?」という反応は至極もっともです。映画全体が、本来なら面白いはずがないもののぶつ切りでできているのですから。これを手放しで「面白かった!」といえる人はそう多くないと思います。
しかし、できる限り実物の兵器に近い物を用いて戦争という事象を描いた映像に、筆者は圧倒されました。『ダンケルク』を見るのは、普段見ることのない「純粋で断片的な戦争」の姿をびくびくしながら垣間見るような、そんな体験なのだと思います。
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