この記事をお読みの方の多くは「日本」に住んでいるか、もしくは「日本」に興味があるか、すくなくとも「日本」語で書かれたものを読む能力がある方のはずです。
その「日本」は、いつから「日本」なのでしょうか。かつてこの国は、『魏志』“倭”人伝にみられるように、「倭」という名前でした。「倭」から「日本」に変わったのはいつからか、なぜ変わったのかを考えてみたいと思います。
植田麦
明治大学政治経済学部専任講師。研究の専門は古代を中心とした日本文学と日本語学。
歴史書のヤマト
国語の教科書の付録に「文学史年表」がついていることがあります。その一番端にあるのが、おそらく『古事記』と『日本書紀』です。『古事記』は712年、『日本書紀』は720年と、ほぼ同時期にできた書物です。多くの方がご存じのとおり、この2種の書物はいずれも、日本の神話と歴史を書き記したものです。しかし、あるいはだからこそ、これらの書物は性質を異にするところが多々あります。
その一つが、ヤマトの示し方です。ここでいうヤマトは現在の奈良県ではなく、現在の日本に相当するものです。
『古事記』ではヤマトを「倭」とのみ示し、「日本」と書かれることが全くありません。一方、『日本書紀』では逆に、ヤマトを大部分「日本」と記します。非常に対照的で対称的です。
思えば、卑弥呼についての記載で有名な『魏志』倭人伝など、中国の書物でヤマトを示すときには、「倭」ばかりが使われているような気がします。しかしながら、中国の歴史書でヤマトがどのように示されているかを見てみると、
- 『後漢書』……倭
- 『三国志』……倭
- 『宋書』………倭
- 『隋書』………倭
- 『旧唐書』……倭・日本
- 『新唐書』……日本
- 『宋史』………日本
- 『元史』………日本
- 『明史』………日本
と、(5)を境に「倭」と「日本」とが分かれます。(5)は中国の王朝「唐」の時代の歴史を記したものですから、つまり、唐代に「倭」が「日本」になった、ということです。おおむね西暦700年を過ぎたくらいの時代です。
700年前後の日本
日本国内の資料では、いつから「倭」が「日本」になったのかがはっきりと記されたものがみあたりません。そのため、中国の資料から「日本」の使用開始時期を探らざるをえません。上にみたとおり、唐代に「倭」が「日本」へと変換したことは明らかです。
神野志隆光『「日本」とは何か』(講談社現代新書)では、『唐暦』の記載をもとに、702年の遣唐使から「日本」が使用されたと述べています。小林敏男『日本国号の歴史』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー)でも、ほぼ同様の指摘が行われています。
この当時の唐は則天武后による統治の時代を迎えています(ついでに、王朝の名前も一時的に「周」になっています)。さらに神野志は、736年にできた『史記』の注釈書である『史記正義』の中に、「則天武后が倭を改めて日本とした」とする記述があることを指摘しています。実際には、ヤマトの側が倭から日本への国号変更を申し出て、それを則天武后が承認した、ということなのでしょう。
そういったわけで、おおむね700年前後に「倭」が「日本」となったと考えられます。そうすると、712年にできた『古事記』があえて「日本」という呼称を用いなかったのには、なんらかの事情があったと考えられます。また、720年にできた『日本書紀』が書名に「日本」を負い、ヤマトを指す語として「倭」をほとんど使用しなかったのも、国号「日本」の成立からほどない時期であったのですから、やはりなにかしらの意図が背後にあったのではないか、と推測されます。
「倭」から「日本」へと国号の変更が行われた時期のヤマトの様子をみてみると、694年には藤原京ができあがり、そのすぐあとの710年には平城京へと都がうつります。藤原京以前に条坊制の区画をもった都城が存在した可能性は低く、つまり「日本」の使用開始と唐風の都城の設営はほぼ同時に行われました。
都市計画、歴史書の作成、それ以外にも法(律令制)整備など、この700年前後の時代は大きくヤマトが変動した時代でした。そういった国内の動きに連動して、対外的な処置――国号の変更が行われたのでしょう。
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