藤井聡太五段のことを書く前に、まずは私のことを書かせていただきたい。
私は6年前に将棋小説『サラの柔らかな香車』で小説すばる新人賞を受賞して小説家デビューした。そしてこの6年で何かしたかと言えば、何もしなかったし、できなかった。
「機会の窓」を活かした者たち
ネット業界のビジョナリー・梅田望夫は著書『シリコンバレーから将棋を観る 羽生善治と現代』で4人目の中学生棋士・渡辺明のことを「機会の窓を活かした」と表現している。
天才や偉大なことを成し遂げる人物は人生において稀に訪れる機会を逃さない。若き渡辺は第21期竜王戦で最強の挑戦者・羽生善治を迎え3連敗からの4連勝という奇跡的逆転をおさめた。この勝利がなければ現在の渡辺の将棋界での地位も違ったものになっていただろう。彼は機会を活かした。
6年前、私の目の前には確かに「機会の窓」が開いていた。ただ活かせなかった。編集者や評論家のいうところの文芸というものがまるでわからなかったし、ゲーム・アニメ・ギャンブルに逃げ、人と会うことから逃げ、書くことから逃げた。十代の頃、プロ棋士を目指し奨励会に入ってからの失敗を繰り返している気分だった。大学受験も、就職も似たような感じで失敗をしてきた。
プロ棋士養成機関・奨励会に入会するも挫折しプロになれなかった者のことを「元奨」(もとしょう)と呼ぶことがある。私も元奨の一人だ。元奨は将棋のアマチュアからみると驚異的な棋力を持っているので尊崇の目で見られることもある。逆に一般人からは世間知らずと思い込まれることもある。元奨は十人十色だ。奨励会での経験や元々の才覚を活かし他業界で活躍している人もいれば、私のようにどこにいっても同じ失敗を繰り返している人間もいる。
私にとってここ2、3年は大変だった。小説の印税、賞金が尽きたので働かざるを得なくなった。街頭でプラカードを持ち、弁当工場で飯を押し、文字単価0.5円でネットに匿名のゴミ記事を書いた。村上春樹は作品内で雑誌の雑文ライターの仕事を「文化的雪かき」と表現したが、私のそれは純粋なるゴミのばら撒きだった。
藤井聡太という「現象」
少し自分のことを書き過ぎた。
私のことはどうでもよいのだ。大事なのは藤井聡太だ。藤井五段ブームのおかげで昨年『サラの柔らかな香車』に重版がかかった。初版部数のハードルで一般文芸での仕事はもう無理かな――と考えていたところに、思わぬ「機会の窓」が開いた。もちろん、光が差し込まないぐらいの僅かな隙間なのだけれども。
世の中、猫も杓子も藤井五段である。ものを書く者は今誰でも飛びついている。私も飛びつかせていただく。
昨年からの藤井五段ブームはとどまるところをしらない。
デビュー以来の連勝が29で途切れ一段落したかと思えば、順位戦C級2組を9戦全勝で駆け抜け中学生初の五段昇段。今度は全棋士参加のトーナメント戦・朝日オープンで初の棋戦優勝まで見えてきている。将棋界だけではなく出版界も大わらわで、次から次へと藤井五段関連書籍が出版され、企画が持ち込まれている。将棋自体にあまり興味のない芸能レポーター達が藤井五段の食事ルポを詳細に行っていたことも記憶に新しい。
藤井五段が羽生善治永世七冠以降初めて出てきた「スーパースター」であることに異論はない。私もネットで指導している奨励会志望の生徒に「棋譜は藤井五段のものを並べなさい」と言っている。彼は中学生棋士であるからすごいのではなく、指している将棋の内容がスーパースターのそれだからすごいのだ。
トッププロの将棋はアマ高段者が見たとしても理解できない手、理解できない展開が多い。しかし、彼の将棋は素人目にも明快でスパッと斬れる。華があるのだ。タイプは少し異なるが、やはりデビュー後の羽生善治に似ているところがある。――スターは相手の得意形を避けない。スターは攻め将棋だ。スターはあきらめない。スターは最後に勝利する。
羽生善治が「人間力の昭和」と「情報時代の平成」の過渡期のスターだとすれば、藤井五段は完全なる現代将棋のスターということができるだろう。デビュー時の羽生と違い、藤井には情報とPCがある。藤井五段は洗練された序盤戦術を持った羽生四段なのだ。
人生というゲームと、かつて見た夢
まぁ、こんなことは皆が語る。私も彼の指す一手一手に興奮して友人と語り合うことはあるが、同時に全く別のことを思ったりもする。
――彼は既に「人生あがり」なのだよな、と。
彼は既に成功者なのだ。確かにこれから先も厳しい戦いが続いていくだろう。だが、私達は知っている。彼は学び続ける人であり、どんな障害にぶつかってもそれに耐え乗り越える力を持っている。メディアや多数の本が藤井五段の人間性や才能、底力を伝えてくれている。
藤井五段はこれからも勝っていくし、タイトルも獲っていく。問題はどれだけ勝ち、どれだけタイトルを奪い、保持するかだけなのだ。
彼は既に人生の「あがり」に辿り着いていて、あとはボーナスゲームのようなものなのだ。私達はそのボーナスゲームを我がことのようにして見るのである。英雄の活躍に胸躍るのは、私達が洞穴の中で火を囲みながら語り合っていた頃からの本能なのだ。イチローしかり、羽生結弦しかり、張本智和しかり――。
藤井五段が人生においてプレイしているゲームは私達のそれとは全く別のゲームのように思えてくる。
私が試験に合格し、奨励会に6級で入会したのは15歳の時だ。現在の藤井五段の年齢である。藤井五段がデビュー後29連勝という前人未到の記録を樹立した歳で、ようやくプロを目指し始めたというわけである。ちなみに私は渡辺前竜王と同年齢で、彼は15歳でプロになっていた。
当時の私は非常に鈍い少年だった(現在もだが)。もう少し周りが見える聡明な子どもであれば、早々に諦めるか、現実をみて激しいトレーニングに勤しんだだろう。結局私は何も得るものなく、4年後に棋界を去った。同時期に大学にも落ちていたので、なんか色々ともう本当にどうしようもない状態になった。
藤井五段の将棋について語るのは純粋なる喜びだが、彼の人生を聞き語る時、口の奥に苦みのようなものを感じるのはかつて同じ夢を見ていたからだろうか。いや、おそらくそれは似て非なる夢だ。藤井五段のそれは、鉄の意志でできていて、はっきりと目に見えるものであり、確かな感触がある。私達のそれは、曖昧で掴みどころがなく時折姿が見えなくなる。本当にあるんだろうかと手に取って握ってみたら消えてしまうものだった。
これから始まるこの連載を通して、失敗者の視点から将棋界や奨励会のことについて語ってみたいと思う。作家の視点などという唾棄すべきゴミみたいな視点はいらない。
(つづく)
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