2017年は将棋界にとって幸せな一年だった。藤井聡太七段の破竹の快進撃。羽生善治竜王の永世七冠獲得。
その一方で、表舞台からひっそりと姿を消していた棋士もいた。
先崎学(せんざき・まなぶ)九段。1970年生まれ、プロ入りは17歳。異才ひしめく「羽生世代」の一人。
「先(せん)ちゃん」の愛称で知られ、ユーモアにあふれる明るい人柄と、酒や博打を愛する“昭和の将棋指し”の空気を伝える一人として、棋士仲間やファンから親しまれていた。その文才から、週刊誌での連載や著作も数多い。
本書『うつ病九段』は、そんな先崎九段がうつ病を発症し、棋士の生命ともいえる公式戦を休場していた一年間の出来事を自ら綴ったものである。
うつ病は脳の病気
藤井ブームが沸き起こる少し前。既に忘れている人も多いだろうが、将棋界は文字通りのどん底にあった。人間よりも強くなってしまったコンピュータ将棋の台頭に端を発する、三浦九段スマホ冤罪事件。
ここでは詳しい説明は省くが、当時の将棋界を取り巻く空気は重かった。そんな中、劇場版公開をひかえた『3月のライオン』の監修をつとめる先崎九段はタイアップに奔走する。全ては将棋界の暗くよどんだ空気を振り払うため。
やがて心身ともに疲弊し、朝立ち上がることすらできなくなる。周囲の説得もあり、医師の診断を受け、それでも将棋にすがろうとする。その間も病状は悪化し続け、とうとう公式戦の休場を余儀なくされる。
生活に起きた変化を、当事者そのままの目をもって描く前半部は凄絶だ。朝起きられなくなる。食べ物の味がわからなくなる。日常における極ささいな決断ができなくなる。そして将棋が、指せなくなる。
気持ちが入らないとか、そういったレベルの話ではない。プロなら一秒で解けるはずの詰将棋が、何時間かけても解けない。小学3年生の頃の自分より弱い、プロ入り31年目の自分。
「偏見はなくならないよ。(中略)だいたいいまだに心の病気と言われている。うつ病は完全に脳の病気なのに」
七手詰が解けず涙を流すプロ棋士の姿がそこにはある。
棋士生命を懸けた戦い
これは書くか迷ったことなのだが、筆者は一将棋ファンとして先崎九段とちょっとした面識があり、一年ほど定期的な将棋講座で指導していただいていた時期がある。ある日の講座中、先崎九段の様子が、少し、しかし確実に、おかしくなった。
周囲が異様な雰囲気を察し、その場は一旦収めたのだが、その数日後に今後の講座の閉講が告げられた。公式戦休場が発表される少し前のことだった。
治療に際しては、一番苦しい患者当人と同時に、周囲の人間の気持ちのありようも極めて慎重に考える必要がある。あの日、ほんのたった一時間の講座中に自分が受けた衝撃を、今でも忘れられず覚えている。ましてや、常にそばにいて数カ月や数年単位で支え続ける家族の気持ちともなれば。
本書には、そんな家族の様子や治療を担当する医師、お見舞いに来る仲間の棋士たちの様子も、先崎九段自身の目を通して克明に描かれている。世間が藤井聡太の連勝記録更新を懸けた戦いに沸いている中、そこでは棋士生命を懸けた戦いが行われていた。
将棋を指せない棋士が残したもの
本書はゆっくりと元の自分を取り戻し、復帰直前となった頃の先崎九段が綴ったものである。将棋界の誰よりも文章がうまく、誰よりも人懐っこく、それでいて誰よりも無頼な先崎九段が、『リハビリも兼ねて』、完全には元通りにならない文章に『かすかに違和感を持ち』ながらも綴ったものである。
こういった内容の作品を、このような言葉で評するべきでないという向きもあるだろうが、それでもあえて書くならば、本書は掛け値なしにおもしろい。
休養中、久しぶりに会った羽生善治竜王――羽生さんと二言三言の、それでも「何気ない」とは決して呼べない会話を交わすシーン。「アイスコーヒーはおいしかった」という、ただその一文が感じさせるもの。
7月23日、対局の場に戻ってきた先崎九段は復帰後初勝利をあげた。最終盤、形勢には大差がついている。それでも、駒台に伸ばした手は何度も空を切り、もう一度、かすかな間違い一つもないように……と確認をしてから、最後にそっと6四の升目に香車を置いた。
「棋士が残せるものは棋譜だけだ」という言葉がある。だとすれば、本書は将棋を指せなかった頃の先崎九段が残した、渾身の「勝ち棋譜」であるように思う。
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