ニホンオオカミというものがいた。今はすでに絶滅しており、ニホンオオカミが走り回る様子は誰も見ることができない。それだけではなくニホンオオカミの剥製は世界でも5つしか残っていない。確かにいたけれど、今となっては幻のような存在とも言える。
しかし、オオカミは神となった。いくつかの神社では狛犬(こまいぬ)の代わりにオオカミが鎮座しており、護符にもオオカミが描かれている。そこで今回は埼玉県の秩父にある三峰神社にオオカミの護符をもらいに行きたいと思う。
ニホンオオカミが好き
かつて日本にはニホンオオカミがすんでいた。北海道を除く全てに生息していたはずだ。北海道にはエゾオオカミがいた。ニホンオオカミは約10万年前に朝鮮半島からやってきて、エゾオオカミはそれと比べると近い時代にサハリン経由で北海道にやってきたと考えられている。ただどちらもすでに絶滅している。
オオカミは信仰の対象にもなっている。狼信仰というもので、神の使いとして、あるいは神そのものとしてあがめられているのだ。オオカミを祀る神社では「お犬様」などと呼び、「大口真神」という神の名まで授けられている。
オオカミは護符にもなっている。護符とは神仏の加護のこもっているという札のこと。例えば東京・青梅の「武蔵御嶽神社」の護符にはオオカミが描かれている。この神社は多摩川の上流域にあるためか、下流域の古民家でもこの護符を見かけることがある。
関東でもうひとつ狼信仰で有名なのが埼玉・秩父にある「三峯神社」だ。いま私が目指しているのがその三峯神社。秩父は狼信仰が特に強かった地域でもあるし、いまだにニホンオオカミの目撃情報が寄せられる場所でもある。この地域ではオオカミを祀る神社が20社を超える全国的に特異な場所となっている。
江戸時代には多くの講が組織された。オオカミは火防や盗賊除けの御利益があると考えられた。他にも病魔除け、健康長寿の神であり、旅行の安全をつかさどる神でもあった。オオカミの御利益は幅が広いのだ。困ったらオオカミなのかもしれない。
江戸時代半ば以降、狼信仰の中心となっていた三峯神社は、三峯信仰として北海道を除く東日本に広がっている。遠野物語(遠野物語拾遺集)にも三峯様が登場し、狼の神のことである、と記されている。おそらく東日本はニホンオオカミが多く、そのような信仰と親和性が高かったのだろうと思う。
遠いぞ、三峯
この記事では文章でニホンオオカミや狼信仰のことを書き、写真では延々と私が移動しているさまを載せている。それはなぜか、遠いからだ。私の住む街から三峯神社までは4時間以上かかる。その遠さを写真から感じてほしいと思う。
池袋駅から乗った「特急ラビュー」は窓が大きくとても開放感があり楽しかった。全ての電車の窓をこの大きさにしてほしいとすら思う。ただ懸念事項もある。それは雨なことだ。窓が大きいとより雨が目に付く。
あとよっぽど三峯神社に行くのがうれしかったのだろう、ウザいほどに全ての写真に私が写り込んでいる。人は三峯神社を目指すとこのような写真ばかりになるのかもしれない。
三峯神社は山の中にある。狼信仰が山岳信仰のひとつであると考えるとその立地はうなずける。山岳信仰とは簡単に言えば山を神とするもの。山は天を支えるものであり、川の始まりが山なので農業を支えるものでもあった。オオカミは山の環境を整える益獣でもあるので含まれるわけだ。日本書紀(720年)によれば、秦一族は稲荷信仰と同じように狼も信仰していたとある。
ミサキ信仰というものもある。神様が現れる先触として動物が現れ、神様が帰ってしまっても、現れた動物を祀ることでずっと神様を置いておけるというものだ。先にオオカミは神の使いと書いたけれど、狼信仰もそういうもので、稲荷信仰のキツネもそういうことだろうと思う。
バスは霧の中を行く
西武秩父駅からはバスに乗ることになる。三峯神社行きの特急バスが出ているのだ。75分間のバスの旅。最初は市街地を走るけれど、やがてバスは山道を走る。二車線あることもあれば、一車線しかないような山道を走ることもある。
窓の外の流れる景色を見ていると、ニホンオオカミの目撃情報が今もまだあることに納得できる気もした。山深いのだ。雨は強くなり、霧のようなものも発生していた。右に左にと運転手はハンドルを切り、山道を登っていく。
先にも書いたようにニホンオオカミは絶滅している。ニホンオオカミを最後に捕獲したのは1905年のことだ。このニホンオオカミは、奈良県の小川村(現在の東吉野村)鷲家口で、ロンドン動物学会から日本に派遣された鳥獣標本採取家であるマルコム・アンダーソンが買い取っている。
1905年の時点でニホンオオカミは大変珍しくなっていた。なぜニホンオオカミは絶滅したのだろうか。それにはいくつかの理由があるだろう。例えば江戸時代には南部藩がオオカミの被害が続いたことで賞金をつけた。明治時代になり一般にも狩猟が解禁されると、産業に乏しい農村ではいろいろな動物を狩り、オオカミには賞金がつくこともあった。乱獲もあっただろうと思う。
ジステンパーという感染症も流行った。海外から狩猟に使う猟犬が輸入され、その犬がジステンパーを持っていたと思われる。1897年ごろ、三重県や奈良県のニホンオオカミの間で伝染病がまん延したと伝わっている。さまざまな理由でニホンオオカミは絶滅したのだ。
ニホンオオカミの剥製は世界に5つしかない。3つが日本にあり、常設で見ることができるのは国立科学博物館にある明治時代の福井県で捕獲されたメスの個体のみだ。あとの2つは和歌山県立自然博物館と東京大学にある。ちなみに先に書いた最後に捕獲されたニホンオオカミはイギリスの自然史博物館に保管されている。
ニホンオオカミの目撃情報の多くは一頭のみのものだ。オオカミは群れで生活することや、シカが増えている現状の生態系を見るとニホンオオカミが生存していると考えることは難しく思える。ただ山深い三峯神社に向かう道中、いてもおかしくない気はした。
三峯神社の素晴らしさ
ついに三峯神社に到着した。全ての写真に私が写り込むという異例の事態になっていたけれど、全ては狼の護符への憧れがそうさせたのだろうと思う。そういうことにしたい。ここからは写り込まないようにしたい。あと雨がとにかくすごい。
三峯神社はオオカミが有名だけれど、この三ツ鳥居も特徴的なものだ。全国的に見ても珍しい鳥居と言える。その脇には狛犬としてオオカミが鎮座している。とてもカッコいい顔立ちで横腹はボンレスハムのようになっている。
三峯神社の由緒は古い。日本武尊(やまとたけるのみこと)が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉册尊(いざなみのみこと)を祀ったことが始まりとされる。日本武尊が東国平定の際に三峯山を登り、二神を祀った。
その際に日本武尊の道案内をしたのがオオカミで、神の使いとして一緒に祀ったとされている。青梅の武蔵御嶽神社では道に迷った日本武尊をオオカミ(白いオオカミだったらしい)が助けて祀ることになっている。道に迷ったらオオカミなのだ。
私が訪れた日は雨にもかかわらず、多くの人で賑わっていた。霧がかかり幻想的な空間を作り出していた。夏になればセミが鳴き、それはそれで素晴らしい空間になることは想像がつく。実は雪の日にも行ったことがあるのだけれど、やはり美しかった。いつ来ても三峯神社はいいのだ。
私は二度、三峯神社に来たことがあるのだけれど、そのころはオオカミへの憧れがそこまでなくて護符を買わなかった。実にもったいないことをした。三峯神社の護符はカッコいいのに。
拝殿に手を合わせ、何度もオオカミの狛犬を見た。ほれぼれするカッコよさだった。どれも皆、凛々しい顔をしている。誇り高い顔をしているのだ。神の使いである誇りを胸に、彼らは鎮座している。それらを一通り見終わると私は買った。ついに買ったのだ。
売店でTシャツを売っていたので買った。「三峯ウルフ」と書いてあるのだ。お酒も売っていたので買った。三峯神社と書いてあるのだ。来たからには買わねばならない。Tシャツが2500円くらいで、お酒が4000円した。
凛々しいオオカミを見たからなのかな、その逆でかわいいオオカミのTシャツを買った。つぼには「三峯神社」とある。どこに行ったのかすぐに分かるので迷わず買った。三峯神社はやはり素晴らしい神社だと思う。
三峯神社は幻想的!
三峯神社は本当に素晴らしい神社だった。全てが幻想的だった。本当は最初に護符を買ったのだけれど、雨がひどくて護符がぬれるので撮影できず、Tシャツやお酒を買った。三峯神社に来た証のような写真が撮りたかったのだ。遠いのにまた行きたいと強く思える。いい意味でこの世の果てのように感じるのだ。
参考文献
- 「絶滅した日本のオオカミ―その歴史と生態学」ブレット・ウォーカー 北海道大学出版会 2009
- 「ニホンオオカミの最後 狼酒・狼狩り・狼祭りの発見」遠藤公男 山と溪谷社 2018
- 「日本野生動物記」小原秀雄 中央公論新社 1972
- 「オオカミは大神 狼像をめぐる旅」青柳健二 天夢人 2019
- 「遠野物語―付・遠野物語拾遺」柳田 国男 角川学芸出版 2004
- 「神になったオオカミ-秩父山地のオオカミとお犬様信仰-」埼玉県立自然の博物館 埼玉県立川の博物館 2017
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