【競馬】最も強いと思う1970年代の「日本ダービー」優勝馬はなに?【アンケート実施中】
日本中央競馬会 (JRA)が毎年5月頃に東京競馬場で開催する「東京優駿」、通称「日本ダービー」は、サラブレッドの3歳馬(旧4歳馬)限定の“クラシック競争”と呼ばれるレースの中でも、最高峰のレースとして位置づけられています。
日本の競馬史の中で、1970年代は元祖アイドルホースとして知られる「ハイセイコー」の登場に始まる、“第一次競馬ブーム”に沸いた年代でした。地方競馬から中央競馬に殴り込みをかけたハイセイコーの活躍によって、当時の社会現象になるほど競馬人気は沸騰しており、日本ダービーにも大きな注目が寄せられていました。
そこで今回は、「1970年代の日本ダービー優勝馬で最も強いと思うのは?」というアンケートを実施します。それでは、1970年代を彩った歴代日本ダービー優勝馬から5頭を紹介していきましょう。
タニノムーティエ
タニノムーティエは、1970年の第37回日本ダービーの優勝馬です。同年の皐月賞も制しており、デビュー前から高い評判を得ていました。
日本ダービーでは、ライバルであったアローエクスプレスとの「A・T対決」を制し見事優勝。放牧を挟んで、三冠の期待がかかる菊花賞を目指しますが、休養中にノド鳴り(喘鳴症とも呼ばれ、咽頭片麻痺が原因で気道が狭くなり呼吸がしにくくなる症状)を発症。その影響もあり、菊花賞では11着となったのを最後に引退しました。通算成績は18戦12勝です。
タケホープ
第一次競馬ブームの火付け役となったハイセイコーの最大のライバルとして戦い、1973年の第40回日本ダービーを制したのがタケホープでした。
そんなタケホープは、同年の弥生賞でハイセイコーの前に敗れるなどして皐月賞には出走できず、ようやくダービー出走にこぎつけた格好で、当日は9番人気という低評価でした。しかし、その評価を覆す見事な勝利を挙げ、その後は同年の菊花賞や、翌年の天皇賞(春)も制しました。通算成績は19戦7勝です。
カブラヤオー
カブラヤオーは、1975年に行われた第42回日本ダービー優勝馬。驚異的なペースによる逃げのレース展開から「狂気の逃げ馬」の異名で呼ばれました。同年の皐月賞は1000m通過58.9秒、続く日本ダービーは58.6秒というハイラップで逃げ切り見事二冠を果たしました。
また、同じ逃げ馬であり、牝馬ながら牡馬も難なく下していたテスコガビーとのライバル同士の熾烈な戦いは競馬ファンの間では今でも語り草となっています。その後、菊花賞は屈腱炎を発症し出走できず、期待濃厚だった三冠は残念ながら幻に終わりました。しかし、現在も中央競馬記録となっている9連勝を成し遂げています。通算成績は13戦11勝です。
クライムカイザー
クライムカイザーは、1976年の第43回日本ダービー優勝馬です。当時はトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスという、いわゆる「TTG」3強が日本競馬界を賑わせており、クライムカイザーもTTGと同期の競走馬としてクラシック戦線を戦いました。
日本ダービーでは、圧倒的な人気を集めていたトウショウボーイを最後の直線入口でかわし、そのまま1馬身1/2差で下して見事優勝。その後は、TTGの後塵を拝す形となり、勝利からは遠ざかってしまいますが、最後のレース以外は5着より下回ることもなく、終始安定した人気と戦績を維持していました。通算成績は21戦5勝です。
カツラノハイセイコ
カツラノハイセイコは1979年の第46回日本ダービー優勝馬。その名の通り、絶大な人気を誇ったハイセイコーの息子として誕生しました。同年の皐月賞は惜しくも2着に敗れたものの、当時の主戦騎手は状態が良ければダービーを制することも可能だと感じていたそうです。
そして迎えた日本ダービーでは、父の雪辱に挑む息子の姿に勝利を望むファンも多く、1番人気で出走。レース結果は写真判定にもつれ込むも、ハナ差での先着が認められ、父ハイセイコーが成し遂げられなかった日本ダービー優勝を見事に果たしました。その後も、天皇賞(春)でも勝利し、父がライバルであったタケホープに敗れた2つのレースを制覇しました。通算成績は23戦8勝です。
まとめ
ここまで、1970年代の日本ダービー優勝馬から5頭を紹介しました。なお、投票対象は1970年の第37回から1979年の第46回までに優勝した競走馬10頭となります。あなたが最も強いと思う競走馬に投票してください。
また、各競走馬の魅力や好きなポイントなどもぜひコメント欄にお寄せください。みなさんのご投票お待ちしています!