旅の消えゆく世界で、今日僕は旅の本を出す
僕はライターだ。今日、人生初めての書籍が発売される。旅の本だ。この旅が消えゆく時代に。旅が批判されるような時代に。だけどそこには、明確な理由がある。
著者:岡田悠 (Twitter/note)
夜は旅行記やエッセイを書き、昼は会計ソフトを作ってる人。2019年、noteに投稿した「経済制裁下のイランに行ったら色々すごかった」と「近所の寿司屋のクーポンを記録し続けて3年が経った」により、一躍“イランと寿司の人”となる。好きな会計用語は旅費交通費。
「旅をすること」と「書くこと」
学生時代から、15年間旅をつづけてきた。海外は約70カ国、国内は全都道府県。なにかにとり憑かれるように、遠くへ、近くへ、移動しつづけた。
初めての旅行記は、初めての一人旅。巨大なバックパックを抱えて、モロッコに降り立った夜のこと。A4の大学ノートに、不安な気持ちをびっしりと埋め尽くした。
字が汚すぎる。
そのあとはSNS上で、また旅行記を書いた。旅をすると五感の過剰摂取になって、それを吐き出すように書きつづける必要があった。旅をすること、書くことはいつだってセットだった。酒に慣れない大学生がうまい吐きかたを知らないみたいに、まとまりのない文章をボロボロと吐きこぼす。
そうやって旅行記を書いていると、次第に会ったこともない人から感想が寄せられるようになった。「投げ銭」を初めて100円もらったときはとても温かい気持ちになった。ただあとから「間違えて送ってしまいました」というメッセージが届いた。それは言わなくていいのに。でもそういう方々のおかげで、ずっと旅をつづけてこれた。
そして一年前、ありがたいことに、これまで書いた旅行記を出版しないかという提案をいただいた。本をつくることには以前から関心があった。Web記事ではなく、本だからこそ書けることがあるのでは、と考えていたからだ。
編集担当となったダイヤモンド社の今野良介さんは、最初の打ち合わせで「これまで書いた記事を並べるだけでは、本にする意味がないです」とすっぱり言った。それでこの人は信頼できると思った。本だからこそ、書けるものをつくりたい。こうして「旅の本をつくる旅」が始まった。
2020年に、旅の本をつくる意味
とある統計によると、海外旅行に出かける若者は年々減少している。むかしは何週間も放浪していたような友人たちも、30代にもなればめっきり行かなく、あるいは行けなくなってしまった。だけど、いくつになっても旅から得られる昂りは変わらない。それを読者に共有したい。沢木耕太郎の『深夜特急』みたいに、誰かの旅心に火をつけるような本をつくりたかった。
そうやって最初に生まれたコンセプトは、「たとえ遠くに行かなくても、旅はできる」というもの。冒険や辺境ばかりが旅ではない。旅とはもっと自由で、もっと身近に見つけられる存在のはずだ。そういう新しい旅行記を目指そうと考えた。
そしてそれを伝えるために、これまで書いた旅行記を距離の遠い順に並べることにした。遠い旅から、近い旅へ。海外旅行から、国内旅行へ。その構成によって、読み進めるうちに「近くでも、旅はできるんだ」と感じてもらいたかった。かつては旅を愛した人が、また旅を始めてくれたらいいなと思った。
しかし2020年3月。旅をとりまく状況は一変した。
海外の主要都市はロックダウンされ、むかし訪れた国境が次々と封鎖されていく。外務省の危険情報は15年間チェックしているけど、まさか「全世界」と表示される日が来るとは思わなかった。世界中すべての旅人が「かつては旅を愛した人」となってしまって、部屋の中にこもり、ただ繰り返すような日々がつづく。
旅行記の典型的な読者層とは、その土地に行くことを検討している人だ。だからこんな時期に、旅行記を読む人なんていない。案の定、書店での旅行本棚は大幅に縮小されていった。つい先日も僕の愛する『地球の歩き方』シリーズの事業譲渡が発表され、今後は絶版になっていくガイドも多いという噂も耳にした。
普通に考えれば、いま旅の本をつくるなんて経済合理性に欠ける。世の中の多くの旅行本の発売が、当面延期されてしまったのではないかと思う。
だけどこの本は違った。
僕はいまだからこそ、この本を書くべきだと確信した。
僕にとって、旅とは必要不可欠な行為だ。水を飲まなければ喉が乾くのと同じ。うまく生きられない日常を過ごすなかで、いつだって旅が僕を救ってくれた。
だがそれは、決していわゆる「旅行」だけを指しているわけではない。ぶらりと降りた駅で、心に焼きつく景色に出会ったこともある。ふと出かけた散歩で、忘れられない出会いをしたこともある。僕にとっては、それらすべてが日常をひととき忘れられるような旅だった。そしてただ繰り返すような毎日だからこそ、そういう記憶が必要だと思った。
そもそも、旅とはなんだろう?
「近くでも旅はできる」という当初のコンセプトは、近くにさえ行けなくなった世界ではまだ曖昧だった。旅とはなにか? なぜ僕は旅をしてきたのか? そういう問いに、真正面から取り組む必要があった。
だから僕は、これまでの15年間の旅をもう一度すべて漁った。大学ノートに書き殴ったモロッコの旅から、SNSへの投稿、国内旅行の記録から、およそ(一般的には)旅とは思えないようなエッセイまで。
それらをぜんぶ読み直して、書き直して、消し直して。そんな作業を半年間繰り返した。句読点ひとつひとつ睨みつけて、ペンで赤字を入れていった。何度もコンビニで印刷した原稿には、夜更けとともに赤いインクがにじんでいった。
そうしてようやく書き終えたのが、本日より発売される、『0メートルの旅』という本だ。
「これまでの旅を距離順に並べる」というはじめに決めた構成は、より明確な形で引き継がれた。この本の最初の章は日本から1600万メートル、地球の最果て、南極だ。そこからどんどん距離は近づき、アフリカや中東を経て日本へ、さらに離島、家の近所。そして最終章では僕の部屋の中、すなわち0メートルで完結する。
次第に近づく距離の中で、どこまでが旅と呼べるのだろうか。南極の旅と部屋の旅はなにが違って、なにが同じだろう。いまの世界では、本当に旅へ行けないのだろうか。そんなことを四六時中考えつづけた。
そうやって最後には、「旅とはなにか?」という問いに対して、自分なりの答えを出すことができたと思っている。それは当初の曖昧なコンセプトのままだったら、手の届かないところにあった。
「本だからこそ書けるものを」という願いは、旅の消えゆく世界で、叶った。
15年間が物質になるとき
原稿を書き終えたあとも、本づくりはまだ終わらない。デザインと印刷という重要な過程が残っている。これは普段のライター活動では味わえない体験で、とても楽しみにしていた。
デザイナーの吉岡秀典さんは、本文にも章扉にもカバーにも、すべてのデザインを細部までこだわり抜いてくれた。デザインの与えられた原稿は息が吹き込まれた石像のように、文字たちが活き活きと躍動した。さらに吉岡さんは、とある驚きの提案を持ち込んできた。それは「章ごとに本文用紙を変えましょう」という、聞いたこともない話だった。
前述のとおり、この本は遠い地球の果てから日本、そして自分の部屋へと、舞台が地理的にどんどん近づいてくる。そしてこの構成は、かつて自由に往来できた「遠い場所」に行けなくなってしまった世界において、「夢から現実へ、過去から現在へ」物語が移り変わっていくことにも等しい。つるつるとした現実感のない紙質から、手触り感のある紙質へ。吉岡さんは、紙という媒体特性を利用して、その変化を表現しようと試みたのだ。
また書籍版では紙質のほかにも、章ごとに変化していく要素が随所に仕込まれている。ぜひ実際に手にとって、その仕掛けを楽しんでもらえると嬉しい。
ちなみにこの写真は印刷所での一枚だけど、本づくりの過程が凝縮されている気がして、とても気にいっている。
15年間書きつづけた旅行記が、編集者によって一つのコンセプトにまとめられる。そのコンセプトがデザイナーの力によって、魂の宿った意匠へと落とし込まれる。そして最後は印刷所の職人たちによって、紙という手で触れることのできる物質へと変換される。
様々なプロたちの仕事が結実して、この本は一年間の旅を終えた。初めてその見本が届いたときは、まるで我が子が生まれたみたいに、思わずぎゅっと抱きしめてしまった。それは僕自身が、いま一番欲しかった本だった。
旅の消えゆく世界で
一時期落ち着いたかに思えた状況にも、再び暗雲が立ちこめている。この原稿を書いているたったいまも、目を覆いたくなる深刻なニュースが届きつづける。一カ月先、いや一週間先さえわからない不確実性は、赤いインクが原稿へにじむように、じわじわと心を蝕んでいく。
それでも僕は今日、この本を出す。だからこそ、この本を出す。
旅とはそういう心を蝕む存在を、ひととき引き剥がしてくれると信じているから。
そうやって僕は、これまでずっと救われてきたから。
2020年という、特別な一年のおしまいに。
旅の消えゆく世界で、旅を見つけるための本を。
かつて旅を愛した人たちへ、この一冊が届きますように。
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