仕事における大きな転機である「退職」。給料を上げるために転職したい、人間関係が合わないから辞めたい、新しいスキルを習得するために別の環境へ移りたいなど……その裏にはさまざまな理由があります。

 そんな退職エピソードを掘り下げると、仕事のヒントがたくさんあるのではないか? という思いから、「ねとらぼ」では現在、退職エピソードを集めています。

 今回はその中から、IT系企業を退職したSさんのエピソードを紹介。その内容をもとに、企業が取り組む上でのポイントについて、パーソル総合研究所で研修講師として活躍する渡邉規和さんにコメントをいただきました。同研究所は、人と組織、労働市場に関する調査・研究やサービスを手がけています。

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Sさんのプロフィール

性別男性
当時の年齢20代
退職した時期2010年代
当時の企業の業種IT系企業(ニュースメディア運営)
当時の企業の社員数約200人
当時の企業での職種Webメディア編集
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異動までは何一つ不満のなかった職場環境

 Sさんは新卒でニュースメディアを運営するIT系企業(以下、D社)へ入社しました。大学生のころに個人やアルバイト先でブログを書いており、その延長で就職先を選択。入社後はエンタメ系のニュースメディアの運営に携わります。

「サブカルメディアだったんですが、もともと好きなアニメやゲーム、ライトノベル、フィギュアなどに関われたので、楽しかったです。自分の好きな分野で特集なんかも立ち上げさせてもらって、やりがいありましたね」

イメージ画像:PIXTA

 また、仕事内容以外の面でも不満はなかったというSさん。

「上司やチームの皆さんは優しくて、仕事外でも交流がありました。よく飲み会に行ったり、一緒に登山やコミケに行ったり。一部の人は退職した今でも付き合いがあります」

 このように、入社からしばらくは平穏な社会人生活を送っていたSさん。そんな彼がD社の退職を決めたのは、4年目の異動がきっかけでした。

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休職したリーダーの後釜として異動

 入社4年目、Sさんは初めての異動を経験します。IT系のニュースメディアへ移り、リーダーに上がったことでメンバー数人のマネジメントも業務に入ってきました。

「BtoBメディアに移って、仕事内容が大きく変わりました。IT業界の新商品の紹介や業界トレンドに関する有識者へのインタビューなどがメインで、全く経験がない領域だったので、しばらくは楽しみ半分・不安半分でした」

イメージ画像:PIXTA

 ですが、Sさんが最も不安だったのは、実は仕事内容ではなかったと言います。

「実はこの異動、前任のリーダーが休職してしまって、その後釜だったんです。当然、休職理由は教えてもらえないので、前任者に何があったのか分からないまま、配属されました」

 ただ、この時は特に深く考えず「そういうこともあるのかな、くらいの認識でした」と語るSさん。実際、異動後しばらくは平穏だったそうです。

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他社メディア記事の大量コピペが発覚

 ですが、やがてその原因を知る出来事に、Sさんは遭遇します。きっかけは営業からの内線でした。

「営業さんからいきなり『ちょっとこの原稿、急いで確認して』とエクセルのリストが送られてきたんです。それは前任者の時代に、ある企業と一緒にやっていた特集の記事一覧だったんですけど、先方から『このメディアのコピペじゃないのか?』という指摘が入ったんです」

 急いで確認すると、リスト内の100以上の記事が全て、何らかの他社記事のコピペだと発覚。クライアント企業は「今すぐ修正しろ」「期日までに修正しないと、既存の契約は全て解除させてもらう」と怒り心頭でした。

イメージ画像:PIXTA

 なぜこのような事態になってしまったのかは「詳しくは話せません」とのことでしたが、Sさんは一つだけ教えてくれました。

「送別会で前任者から教えてもらったんですけど、当時のメンバーに大きな問題があったんです。業務フローを守らない、注意しても聞かない、勝手なことをやってトラブルを起こす、それを隠したままにする、判明しても謝らないとか。そのため、前任者はメンバーに仕事を回さないで、全て1人で対応して、最終的にパンクしてしまったんです」

 パンクの結果、前任者は納期に間に合わせるために、他社メディアの記事をコピペするという手段を取ってしまったそうです。

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127連勤で全記事を1人で修正も、社長の心無い一言に退職を決意

 コピペが発覚した日から、Sさんは1人で修正作業に入ります。

「最初の2カ月ぐらいは会社に寝泊まりして、最終的に127連勤して、なんとか修正が完了しました。睡眠も食事も満足に取れなかったので、顎が細くなって歯並びが崩れたり、同僚から『顔色、キャベツみたいですよ……?』と心配されたりしたのを、よく覚えています」

 こうして記事の修正を無事に終えたSさん。「契約を解除されることもなく、むしろ『迅速に対応してくれて、ありがとうございます』と感謝されました」と、クライアント企業との関係も壊れることなく済んだそうです。

 ただ、修正対応中のある経験をきっかけに、SさんはD社を辞める決断をします。

「会社に寝泊まりしていた時、社長がたまたま近くを通ったんですが、その時に『大丈夫? そんなことないよね? それじゃお疲れ!』と笑顔で退社していったんです。こっちの事情は知っているはずなのに、その言い方はないんじゃないかと正直、腹が立ちました」

 Sさんはトラブル対応が完了した後、すぐ上司に退職の意向を伝えたそうです。上司も引き止めることなく、Sさんは退職。その後は「自分のペースでゆっくり働きたい」とフリーライターへ転身し、そのまま今に至るまで続けています。

※記事中の人物および企業のイニシャルは、エピソード提供者および提供者が退職した実際の企業のイニシャルではありません。

パーソル総合研究所・渡邉規和さんのコメント

渡邉 規和(わたなべ・のりかず)
パーソル総合研究所 トレーニングパフォーマンスコンサルタント

人材サービス業の営業マネジャー(東京・仙台)、BPO事業プロジェクトマネジャー、合弁会社の人事で採用担当、2社のベンチャー勤務を経て2018年から現職。研修講師の専門職として若手からマネジャー層向けのコミュニケーション等の研修に年間およそ140日登壇。PMP、実務教育学修士(専門職)、青山学院大学大学院社会情報学研究科博士前期課程在学中。

 まずは何を差し置いても、Sさんへの労いから。会社に寝泊まりしながらの127連勤、本当にお疲れさまでした。睡眠も食事もままならず、本当にお辛かったとのこと。「顔色、キャベツみたいですよ……?」といわれるほどの状況は、緊急事態とはいえ常軌を逸していたことと思います。

 Sさんがここまで身を粉にしなければいけなかった要因は、原稿制作における企業倫理・ガバナンスの観点の欠落でしょう。他社の記事の盗用や剽窃は、顧客からの信頼感を著しく損ねます。この点において倫理に基づいて顧客との信頼を維持し続けるには、どんなに対策を講じても決して“しすぎ”ということはないでしょう。

 とはいえ、最後は個人の倫理観に帰着します。企業としては定期的にリマインドし続けるために、年に1度でも対話会やe-Learningを行うと良いでしょう。

 Sさんが退職を決意した社長の一言については、オーセンティック・リーダーシップの観点から一緒に考えてみたいと思います。

 オーセンティック・リーダーシップとは、メドトロニック社の元CEO、ビル・ジョージが提唱した概念で、自分に正直であって、借り物やコピーではない「自分らしさ」に基づいて行動することです。

 とはいえ、自分らしければ、どんな言動でも良いのかというと、決してそんなことはありません。この社長の一言には、素の自分らしさが現れているように私には映ります。しかし、みなさんお感じの通り、決してSさんに言っていいことではありませんでした。

 オーセンティック・リーダーには、自分の価値観や感情に忠実であると同時に、他者の感情や状況に対しても誠実に向き合うことが求められます。この社長の言葉は、表面的には気遣いのようでありながら、相手の苦境に対する共感や責任感が欠如しているように受け取られます。

 本来のオーセンティック・リーダーならば、「大丈夫?」の問いに対して、相手の答えを待ち、受け止める姿勢を持つはずです。また、オーセンティック・リーダーシップは、信頼に基づく関係性の構築が中核です。この一言によってSさんは「自分の苦労は軽視されている」「この職場では尊重されない」と感じたといえるでしょう。退職の決意は、単なる怒りではなく、関係性の断絶に対する自己防衛的な選択とも言えるでしょう。

 もしかすると、この社長は自分の感情(疲れ・面倒くささ)に忠実だったのかもしれません。しかし、それを他者への配慮なしに表出した時点で、他者に好影響をもたらすリーダーシップとは言えません。オーセンティック・リーダーシップには「自分らしさ」の発揮と同時に、他者との関係性の中での責任ある自己表現が求められるのです。