ねとらぼ

山で修行する修験者=天狗

 現代における一般的な天狗のイメージは2種類ある。鼻が高く赤い顔で、口を固く結び、山伏のような服装をして羽のうちわを持って空中を飛行する「山伏型」と、烏天狗(からすてんぐ)を筆頭とする鳥の頭をもち背中から翼が生えた「鳥類型」。鱗瀧が着けているのは前者、典型的な山伏型天狗の面だ。

高尾山薬王院にある山伏型の天狗の像(画像:PIXTA
高尾山薬王院にある鳥類型の天狗の像(画像:PIXTA

 こうした天狗=「高い鼻×への口×赤い面×山伏」のビジュアルは、13世紀あたりから徐々に固まっていったものだという。日本史における「天狗」という言葉自体の初出は、720年成立の『日本書紀』とかなり古い。そこには、舒明天皇(じょめいてんのう)9年(637年)に大きな星が音を立てて流れた際に、中国系の渡来氏族の学僧が「流星ではなく、これは天狗なり。雷鳴のような声で鳴く」と指摘したことが記述されている。

 中国には古来、流星や彗星、雷などを、天を駆ける狗(いぬ、きつね)の姿形をした物の怪、「天狗」と呼ぶ言い伝えがあった。ある日の日本で、普通の流れ星とは違い、音を立てて大きく流れていった星の存在に戸惑った人々に対し(おそらく火球と思われる)、学僧が「それは中国でいう天狗だ」と伝えたのだろう。

 しかしその後、日本では、空飛ぶ超自然的現象のイメージとして狗(いぬ、きつね)は定着しなかった。『世界の仮面文化事典』(2022年/丸善出版)における民俗学者・笠原亮二氏の解説によれば、天狗はその後、平安時代成立の『今昔物語』などで、中国やインドから飛来し、山中を住処にして人々に超自然的な力を見せながらも、仏教の妨げとして日本の僧たちに調伏(ちょうぶく)される存在として描かれていったという。ざっくりいえば“仏教に負ける先住の怪異”である。

 一方で、もともと日本には古神道(こしんとう)と呼ばれるような、山の中を超自然的な山神や山霊の支配する異界とみなす信仰があった。次第に、深夜に木が倒れるのを「天狗倒し」、石が倒れるのを「天狗の礫(つぶて)」と呼ぶなど、山中で遭遇する怪異現象を天狗の仕業と認識するようになる。これが山中で修業しながら超自然的な能力を得ようとする修験道、山伏の姿に結びついていったのではないか――と笠原氏は指摘している。

 13世紀の『古今著聞集』では天狗が法師や山伏の姿で描かれ、14世紀『太平記』では天狗と山伏が一体化した天狗山伏が人に騙される愚者として描かれるなど、中世には天狗=山伏のイメージが絵として固まっていく。以降、正義のヒーローのような天狗に災厄をもたらす天狗、道化としての天狗など、さまざまな天狗の物語が生み出されていった。

 鱗滝と炭治郎の師弟関係を見ていると、強く思い出されるのが能の演目「鞍馬天狗」だ。

歌川広重の浮世絵『義経一代圖會(よしつねいちだいずえ)』より、鞍馬山で異人に剱法(けんぽう)を学ふ牛若丸(画像:シカゴ美術館公式サイト

 源義経の幼少時代を題材にした物語で、舞台は京の都の北西にある鞍馬山。僧が子どもたちを引き連れ花見に来たところ、先にいた見慣れぬ山伏を警戒して帰ってしまう。しかし一人残った沙那王(しゃなおう。義経のこと)が優しく声をかけてくるので、山伏は自分が山に住む大天狗であることを明かし、鞍馬山での再会を約束する。後日、大天狗は諸国の山々の天狗を連れて登場し、沙那王に兵法の大事を伝える。沙那王がやがて平氏を滅ぼすだろうと予言し、絶えず力添えする約束をして去っていくのだった。

 義経は幼い頃に鞍馬山の天狗に修行をつけてもらった、という伝説は有名だが、その元となった話である。山奥で少年が天狗に厳しい修行をつけてもらうイメージは、早くとも室町時代には存在していたことになる。炭治郎をスパルタでしごく師匠のペルソナとして、天狗を選ぶのはごくごく自然、ということになってくる。

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