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ライター:黒木貴啓

ライター・編集者・主夫。週2~3能楽の出版社に勤めながら家事、仮面と男性学の研究、時々書き仕事。OMOTE PRESSの屋号で、古今東西の仮面文化から現代の面を見つめるリトルプレス『面とペルソナ20’s』を発行。ほかZINE『スタジオジブリの仮面と覆面』など。
X:@abbey_road9696
note:@takahirokuroki


 『鬼滅の刃』を代表する面の一つ、「ひょっとこ」が初登場するのはコミックス2巻。鬼殺隊の入隊試験に合格した炭治郎に、職人の鋼鐵塚蛍(はがねづか・ほたる)が日輪刀を届けに来る場面だ。

 鋼鐵塚は編笠を深くかぶっていて顔がよく見えない。炭治郎がもてなしの声をかけるもすべて無視し、地べたに風呂敷を広げて淡々と刀の説明を続ける。顔をあげたと思ったら、両頬をぷっくりと膨らませ、口をにゅんと尖らせた“ひょっとこ”の面をなぜかかぶっており、炭治郎を驚かせるのだ。

 その後も、鬼との戦いで刀を折ってしまった炭治郎を包丁で刺し殺そうとするなど、鋼鐵塚は刀に対して狂気じみた情熱をのぞかせる。けど、顔はずっと、ひょっとこ面のままだ。表情はふざけているのに恐ろしい殺気を放つ、そのキャラクター造形は実に魅力的だ。刀鍛冶の里に住んでいる者は全員ひょっとこ面をかぶっているが、目の向きも口のとんがりっぷりもどんどん誇張され、作者がひょっとこという顔を心底楽しんで描いているのが伝わってくる。

 これも鱗瀧の天狗面と同様、吾峠呼世晴がキャラクターにインパクトをもたらすためにかぶらせた可能性は高いが、それならなぜあらゆる仮面の中から「ひょっとこ」を選び取ったのか、である。

 答えとしてもっともらしいのは、鋼鐵塚が登場時から着ている法被(はっぴ)の背中に「火男」と書かれている通り、ひょっとこの語源を火男(ひおとこ)とする、竈(かまど)の火吹男(ひふきおとこ)や竈神、鍛冶の神をルーツとする説を作者が知っていたからだろう。

 一方、ひょっとこ面の大きな目と、とんがったおかしな口には、社会的弱者、天狗と同じく「大きな力に抵抗する古い神や精霊」の精神がつまっている可能性がある。炭治郎たちと一緒に戦う“善の鬼”の面が見えてくるのだ。

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かまどの火吹き男

 ひょっとこは、一般的には里神楽や田楽など日本各地のお祭りで、滑稽な舞を披露する道化の仮面として知られている。左右大きさの違う目に、横へとんがらせた口、頭にほっかむりをする、というのが現代よくみる形だ。

ひょっとこ面(出典:Wikipedia Commons

 語源は「火男」「火吹男」で、家々のかまどに火を起こそうと竹筒に口をつけ息を吹き込んでいる口と、灰が目に入らないよう、または火の色を見るため片目をつむっているのがおかしな表情のルーツとなっている――という民俗学者・柳田國男の唱えた説が広く支持されている。

 ひょっとことかまどの親和性を強く示す民話がある。東北地方の登米(とめ)、本吉、気仙、東磐井(ひがしいわい)、江刺(えさし)あたりにはかつて、かまどの前の柱を「竈男(かまおとこ)」と呼び、そこに竈神として「ヒョウトク」「ショウトク」と呼ばれる、粘土や木工の、丸い目に船口形の面をかけておく風習があった。民話研究者の佐々木喜善(ささき・きぜん)はこれを踏まえた上で、江刺に伝わる次の民話を紹介した。少し長いが紹介しよう。

“昔々、爺さんが山へ芝刈りにいったところ、大きな穴を見つけた。悪いものが住んでいるに違いないと、柴で塞ごうとするが、3カ月かけて刈った柴すべてを放り込んでも塞がらない。
すると、美しい女が出てきて、たくさんの柴のお礼にと、穴の奥にある立派な館に案内される。ご馳走を食べた帰り際、みっともない顔のヘソばかりをいじくっている子どもをもらい、渋々連れ帰ることになる。子は炉にばかりあたって腹をあぶりながらヘソばかりじっているので、爺が火箸でつついてみると、ヘソから金の小粒がこぼれ落ちた。それから1日3度ずつ小金が出たおかげで、爺の家は富貴となった。
しかし、欲張りな婆さんはもっと小金を出そうと、爺さんの留守を盗んで火箸でぐんとつついたところ、子どもは死んでしまった。爺さんはひどく悲しんだが、夢に子どもが出てきて、「おれの顔に似た面を粘土で作って、毎日よく目にかかる竈の柱にかけておけ。そうすれば家が必ず富み栄える」と教えてくれた。
この子どもの名前をヒョウトクといい、そのためこの辺の村々では、醜いヒョウトクの面を竈男という柱にかけておく。これを竈神とも竈地蔵とも、またそのままヒョウトクとも呼んでいる”
(佐々木喜善・著『東奥異聞』(1926/坂本書店)の「ひょっとこの話」にて紹介されている、江刺郡米里村字中沢の浅倉某女という老婆から聞いた談を要約したもの)

 人類にとって火を司る者が大切な役目にあり、その者を福神と考えるのは自然なことで、この話はかまどというものから長い年月をかけて思いついた産物だろう。「柳田先生がいわれたように火男がヒヨットコとなり、そしてその醜い童子が死んで神性なものとなったのではないかという説にも賛成する」(『東奥異聞』より)――と、佐々木喜善は農夫のかまどにおける火吹き姿がひょっとこだという説を支持している。