高度成長期~バブル景気の時代に開発・分譲されながら、その後の数十年、ただの一度も家屋が建てられたことがない空き地がいまだ数多く残る「限界ニュータウン」。その多くは、地価の上昇を見込んで投資目的で購入されたものだが、しかし投資目的と言っても、そのすべてが最初から「投資」を謳って販売されていたわけではない。純然たる住宅分譲地で、実際に一般の住宅地として発展した地域であっても、最初の購入者が投資目的で、その後、居住目的の住民に転売されている土地も多い。

 地価も人口も、また開発も右肩上がりで増加していた時代、そこが宅地であろうと山林であろうと、あらゆる不動産が投資・投機の対象となっていた。

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ライター:吉川祐介

2017年、八街市周辺の物件探しの過程で数多く目にした、高度成長期以降の投機型分譲地についてのブログ「URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-」を開設。その後、YouTubeチャンネルの解説と自著の出版を経て同テーマに関する発信を生業にしています。
X:@yuwave2009


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「住宅地」を装った“分譲”、一向に増えない建物

 しかし、表向きは「宅地分譲」の体裁を取っていようとも、購入者の多くが、そこに自宅を建てる気もない投資目的であったことは、実際に分譲地を開発・販売していた業者側も十分承知していたはずである。多くの同業他社が近隣で似たような「宅地」を分譲していながら、一向に建物が増えていく兆しもないのに、それでもなおも分譲を続けていたのだから、どこに需要があったか分からないはずがない。

 それでも、名目上は「住宅地」の販売を装っていたのは、その土地がより条件が良く、値上がりが見込めるものであることをアピールするためである。

 まだインターネットもなく、ようやくテレビが普及し始めたという時代、不動産広告の多くは、新聞や雑誌の紙面広告、そして新聞の折込チラシのほか、今では見られなくなった販売手法として、飛び込みの訪問営業も盛んだった。

 当時の不動産売買のトラブル事例を調べていると、厳しいノルマに追われた営業社員の口車に乗せられて不動産を購入したものの、実際の物件は聞かされていた話と全然違う、しかし会社に抗議しても、その営業社員はもう退職したと言われて取り合ってもらえない、と苦言を呈する購入者の声を数多く見かける。

 訪問営業で行われていた勧誘の実態は、今となっては当時の記録から推察することしかできないが、一方で広告類、特に新聞広告については今日でも縮刷版などで容易に知ることができる。僕自身、普段の動画制作はこうした新聞広告から記録を辿ることが多い。

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トラブルも辞さない? 投機型分譲地を生み出し続けた“悪しき分譲広告”たち

 その広告類を見ていると、「限界ニュータウン」をはじめとした投資・投機目的の分譲地広告にも、いくつかのパターンがあることに気づく。今回は、1970年代の成田空港周辺で開発された投機型分譲地の広告を例に、当時の宅地分譲の手法を解説したい。

(1)比較的穏当な広告

「成田〇〇北総タウン」の広告。〇〇は販売業者名。業者は一応、現在も存続しているため一部修正した(1972年5月27日付読売新聞)。

 まず最初に紹介するのは、当時の投資目的の分譲地としては比較的穏当と思われる、千葉県旧富里村(現在の富里市)の「成田〇〇北総タウン前野台」の広告である。この販売会社は一応、今も存続しているので社名は伏せているが、仲睦まじい親子の写真を中心に、どちらかと言えば過剰なアピールも控えめなおとなしい広告だ。

 実際には、この「北総タウン前野台」も次の画像にあるように、分譲から数年経過してもほとんど家屋が建つことなく大半が更地のままだった。ただしここは、現在は路線バスすら一切ないとはいえ、一応成田市の通勤圏内なので、全区画の半分くらいは家屋が建っている。

1979年11月14日撮影の国土地理院の航空写真。分譲から7年が経過しているが、家屋はほとんど建てられていない(国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」より)。

 そのため、ごく当たり前のニュータウンのような広告を装っている時点で優良誤認と言えなくもないのだが、全体としてはそれほど問題のある広告とは言えない。強いて挙げれば、次のような点が気になるところか。

・「北総タウン概要」欄の「交通」に、「東関東自動車道富里インターチェンジより車で5分4km」とあるが、実際には約6kmほどの距離で、車で5分というのはやや飛ばし気味であること。
・「成田北総タウン」とあるが、実際には成田市内ではないこと。
・実際の最寄り駅である成田駅の表記より、案内所の設置場所である四街道駅前のほうが表記が大きく、路線図の案内も都心から四街道駅までしか書かれていないこと。

(2)アピールが大雑把な広告

都心までの交通手段の情報のみに特化した分譲広告(1971年7月24日付読売新聞)。

 こちらは「成田」と大きく打ち出した千葉県香取郡多古町の1971年7月の分譲地の広告。今は周囲に農村風景が残る田舎町だが、数年後に開港を控えていた成田空港から数km圏内に位置しており、開港後は「『現在の交通』はまったく関係なくなり都心通勤などがとても便利になります」と謳っている。

 1970年代の日本は地価の高騰が激しく、また今日ほど東京都内の住環境も良くなかったため、勤務先が都内にあるビジネスパーソンでも、都心から50~60kmも離れた郊外のニュータウンに家を構えるのはごく普通のことだった。そのため、成田周辺でありながら都心への通勤手段をアピールすること自体はそれほど不自然な話ではないのだが、この広告は、造成地の写真があるほかは、結局構想のみで終わった計画も含めて、都心までの交通手段のアピールしかない。

 都心までの交通手段は確かに重要だが、この時代でも一般的な住宅分譲地の広告であれば、家族がのびのび過ごせるお庭だとか、勉強に打ち込める子供部屋とか、公害のない優れた自然環境とか、住まいとしての環境の良さもアピールしているのが普通だ。ところが、この広告には成田空港を起点とした交通手段に関する情報しかなく、それ以外の住環境や日常生活の利便性などに関連する記述が一切ない。

 つまり結局のところ、買い手の多くも、住まいとしての現実的な条件より、都内までの交通利便性=発展可能性のみを重視していた証左に他ならない。ちなみに、この団地も現在は全体の区画数のおよそ半分ほどは家屋が建っているが、1区画が30坪前後と狭いので、家屋の合間に残る空き地にはほとんど需要がない。

家屋はそれなりに増えたが、道路との高低差があり、かつ1区画が狭いため空き地の需要は低い(千葉県多古町・2022年2月著者撮影)。

(3)肝心な情報を伏せる広告

今は消滅した「希望ヶ丘団地」の広告(1972年5月26日付読売新聞)。

 同じく、千葉県香取郡多古町一鍬田(ひとくわた)にあった、「希望ヶ丘団地」を名乗る分譲住宅地の広告(1972年5月)。総区画数70区画の小さな分譲地であり、一見すると地味な広告で、特におかしなところは見当たらない。

 しかし、先に紹介した、同じく多古町内の分譲地が、あれほど成田空港の存在を強調していたのに対し、この広告は小さな文字で「京成電鉄空港線」の表記があるほかは、なぜか空港の存在に触れる記述が一切なく、最寄り駅も「京成成田駅」と記載されている。

 実はこの「希望ヶ丘団地」、現在はもう存在しない。この分譲地も、最終的には15戸ほどの家屋が建ち、不便とはいえ一応集落が形成されていたのだが、その後、この「希望ヶ丘団地」を含めた周辺一帯は成田空港の敷地拡張計画の対象地域となり、2020年から順次、成田国際空港株式会社による土地・家屋の買い取りが始まった。土地所有者ではなく、実際に暮らしている住民の土地建物ももちろん対象になり、買い取りが行われた家屋は解体された。現在、この旧「希望ヶ丘団地」には1戸の家屋もなく、すべて更地になっている。

空港会社にすべて買収されて更地となった、旧「希望ヶ丘団地」(千葉県多古町・2023年7月著者撮影)。

 2023年7月に僕が訪問した時点では、まだ立ち入りは可能で、分譲地としての痕跡も残されていたが、やがて空港の拡張工事が本格的に開始されれば、ここも空港会社の敷地の一部となり姿を消すことになるだろう。つまりここは、空港の拡張エリアの対象となるほど空港の建設用地に近接しているにもかかわらず、当時の分譲広告には一切、その旨が記載されていないどころか、空港の存在そのものを黙殺していたことになる。分譲当時の成田周辺において、開港によって発生する騒音やその補償を巡る紛争が激化していたからだろうか。

 この時代の成田空港周辺における宅地分譲広告で「成田」を大きく打ち出している広告は、だいたい成田市から微妙に離れた立地のものが多いが、一方で、騒音などで実生活に影響が出そうなほど近場にある場合はその存在を伏せる傾向にある。

 当時の成田空港周辺の分譲地で、同様に空港の存在にいっさい言及していない分譲広告は他にもある。次の画像の「パールランド霞ヶ浦」と冠した1973年の分譲地の広告は、隣県の茨城県旧小川町(現在の小美玉市)のものだが、大して近くもない「筑波研究学園都市」や「霞ヶ浦」「鹿島臨海工業都市」などを地図上に明記してアピールする一方、分譲地の間近にあるはずの航空自衛隊百里基地の存在については一切書かれていない。

「筑波研究学園都市」や「鹿島臨海工業都市」をアピールする「パールランド霞ヶ浦」の広告。実際の立地は航空自衛隊百里基地の目と鼻の先である(1973年5月25日付読売新聞)。

(4)公正取引委員会が乗り出すレベルの詐欺広告

「京成ハウジング」が折込広告として配布した「西船橋サンハイツニュータウン」の広告(『公正取引委員会排除命令集 11』より)。

 最後に紹介するのは、実際にその誇大表記が問題となって、公正取引委員会による排除命令(景品表示法違反の疑いがある広告の取り下げや訂正を命じる措置)を受けた物件広告である。1975年の千葉県旧大栄町(現在の成田市)の分譲広告で、ここも実際の立地としては、本来は成田空港の開港をアピールしていてもおかしくないのだが、「京成ハウジング」を名乗る販売業者(もちろん京成電鉄とは無関係である)は欲張って、この分譲地を、あたかも西船橋駅(千葉県船橋市)の近隣であるかのように装っていたため、当然空港の存在には触れられていない。

現在の「西船橋サンハイツニュータウン」(千葉県成田市)。

 都心部からのアクセスが比較的良い立地に「案内所」を設置し、その案内所の位置を大きくアピールする宣伝手法は、この時代は割と一般的(?)だったが、さすがにこの「西船橋サンハイツニュータウン」のように、案内所から約50kmも離れ、都心までバスと電車で2時間以上を要する立地でありながら、あたかも西船橋駅の近隣であるかのような誤認を誘う表記ともなれば、いかに悪質な分譲業者が跋扈(ばっこ)した1970年代と言えども、さすがに問題視されて処分を受けたものである。しかし逆に言えば、当時はここまで悪質な広告でもなければ、公正取引委員会に問題視されることもなかった、とも言える。

 こうした分譲地が、当時は新聞や雑誌、折込の広告だけでなく、時には訪問営業によって販売されていたのだ。今日の感覚で言えば、どうしてこんなでたらめな広告で購入した人がいたのか、不思議に思う人も多いだろう。もちろん現代と違い、個人レベルで情報を簡単に集められる時代ではなかったというのも理由の一つで、また業者によっては、広告内容と現況の相違に疑問を呈した見学者を恫喝(どうかつ)して強引に契約を迫ったものもあった。

 しかし根本的には、やはり高度成長期の土地ブームの中、たとえ広告の内容とは大きく違う点があったとしても、都市部では到底考えられない安値で土地が手に入るのなら、いずれ値段が上がった時に手放せばよいだろう、との甘い見込みが購入者側にあったのも事実である。投機的な宅地分譲、特に別荘地については、当時からその資産性を疑う声もあるにはあったが、それが大きな世論となることはなく、結果としてまったく値上がりもかなわなかったどころか、もはや売却も困難なほど価格が暴落した分譲地が、今も数多く取り残されることになったのだ。

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