2026年の『映画ドラえもん』は、シリーズ屈指の名作として知られる『ドラえもん のび太の海底鬼岩城』のリメイク『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』だった。

 夏休みで暇を持て余したのび太たちが「山派」と「海派」に分かれてやり取りした結果、「海のなかの山」をめざして海底へ向かうという展開で、藤子・F・不二雄ならではのセンス・オブ・ワンダーに充ちた強烈に魅力的なストーリーだ。

 原作および旧劇場版が傑作なだけにリメイクの評判は賛否あるようだが、とりあえず『ドラえもん』好きなら楽しめる出来であることは保証できる。何しろ『海底鬼岩城』なのだ!

※本記事は『映画ドラえもん 新・のび太の海底鬼岩城』のネタバレを含みます。ご注意ください。

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ライター:海燕

ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』CLAMP特集、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。
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 この作品はもともと『映画ドラえもん』ないし『大長編ドラえもん』のシリーズとしては第4作にあたる。ここから『魔界大冒険』『宇宙小戦争』『鉄人兵団』と、歴史的な大傑作が続く絢爛たる黄金時代が幕を開く。

 当時の子供たちはどれほど胸を高鳴らせ、あるいは恐怖に震えながら『ドラえもん』を観に行ったことだろう! わたし自身そのひとりだったわけだが、やはり『映画ドラえもん』は、この頃が二度とは来ない全盛期だったと思える。

 深海の底を潜水艦ではなくバギーに乗って移動するという発想のセンス・オブ・ワンダー、またこともあろうに水中で火をつけてキャンプやバーベキューを行うという荒唐無稽な楽しさ、そして後半に登場するラスボス「ポセイドン」の恐ろしさとその先の悲劇的な展開。

 いずれも文句なしに素晴らしく、『魔界大冒険』や『鉄人兵団』に比肩するシリーズ最高傑作という他ない。

 このリメイク版では、その原作と旧劇場版を徹底的に再解釈して創りなおしている。その結果には良し悪しがあるだろうが、とにかく考えて作ったことは伝わってくる。

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新劇場版で「正しさ」に目覚めた“バギーちゃん”

 リメイク版のひとつの工夫は、のび太たちともに水中を進む人工知能を搭載した「バギーちゃん」の描写である。原作マンガでも、旧劇場版でも、この「バギーちゃん」の描写はすこぶる印象的だった。

 「かれ」はもともと「中古」のひみつ道具で、主人であるはずのドラえもんやのび太たちに対し、かなり反抗的な言動を取る。それどころか、人間の命すら軽く考えているふうで、スネ夫やジャイアンたちが死に瀕したときもあくまで冷たく見下ろすばかりで、いっさい助けようとはしない。

 もともと人間に対して好意的なドラえもんはその冷徹さに呆れているふうで、まあ中古だからしかたないね、と諦めているようにも見える。

 ところが、バギーは物語を通してしずかちゃんとのあいだに感情的な絆を築いていく。そして作品の終盤では、かれはみずから強大な敵・ポセイドンに突っ込んでいくのだ。

 その場面がこの映画の最大の泣かせどころであることは論を待たない。そして今回のリメイクでは、人間の行動の非合理性について悩むバギーに対し、のび太が「正解」と「正しいこと」の違いを説明するくだりが入り、最終的に「ともだち」という言葉が示す関係性にすべてが収れんする流れとなっている。

 ある意味で、非常にわかりやすい原作解釈である。この解釈にもとづくリメイクの物語を見ると、バギーは「正解」と呼ばれる自己利益を超越した「正しさ」という名の高次の倫理にめざめて、最終的に自己犠牲的な行動へ向かったということになるだろう。

 原作のあいまいなところを廃し、きわめて明快で筋が通ったプロットに仕立て上げたといって良い。問題は、その結果、原作や旧劇場版における“わけのわからない迫力”のようなものが大きく削がれている点だろうか。

 子ども向けとしては見やすく、わかりやすく仕上がっている一方で、バギーの不条理なまでに自己犠牲的な行為が生み出す悲劇性は後退しているように思われる。

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バギーちゃんが体現した“人工知能SFのエモさ”と“自己犠牲の感動”

 『海底鬼岩城』におけるクライマックスの感動は、自己利益の最大化をめざす「合理的な」人工知能が、みずからその合理性を飛び越えて命を捨てるところにあるわけであり、いわば「人工知能SF」としての「エモさ」である。

 『攻殻機動隊』ふうにいうなら、ただロジックだけで動く哲学ゾンビめいた人工知能が「ゴースト」に覚醒するプロセスが見る者を感動させるのだ、といっても良い。

 藤田直哉の『攻殻機動隊論』を読むとわかるように、『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』では「ゴースト」という概念が原作からいくらか拡張された意味で使われている。つまり、主人公である草薙素子たちが社会にはびこる「悪」に立ち向かう際、その正義と倫理の指針となるような人間らしい精神、それが「ゴースト」なのである。『海底鬼岩城』において、バギーもまた、この意味での「ゴースト」を覚醒させたといえるかもしれないわけだ。

 一方で、バギーのいかにも「特攻」めいた結末は、井上義和が著書『特攻文学論』で展開した「特攻文学」という言葉を思い出させる。

 特攻文学とは、特攻隊に象徴されるような自ら命を捨てる自己犠牲的な行為によって、読む/見る人の情緒をふるわせることをねらったフィクションのことである。井上義和と坂元希美の対談集『人はなぜ特攻に感動するのか』などを読む限り、狭い意味での特攻隊ものばかりではなく、たとえば映画『ゴジラ-1.0』や『鬼滅の刃』なども特攻文学にあたるとされる。

 特攻文学が持つ感情を喚起する力はきわめて強力なものがある。わが身を捨ててだれかを救う自己犠牲は、いつだってわたしたちを感動させる。それは右翼/左翼といったイデオロギー的な正しさを遥かに超越した情緒である。

 個人の権利を重視し、リベラリズムを信じていても、やはり自己犠牲には感動してしまうのだ。なぜなら、個人の権利を重く見て、その尊厳を信頼するほど、みずからそれを捨て去る決断は偉大なものに見えてくるからである。

 とはいえ、特攻隊の「強いられた自己犠牲」が多くの若者たちを悲しい戦死に導いたことを思うとき、いたって当然のことながら、特攻文学をあまり美化して受け入れることもできない。

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藤子・F・不二雄が描き出した、人間性のパラドックス

 つまり、特攻文学には肯定的側面と否定的側面が混在している。井上は『特攻文学論』のなかで、ジャック・デリダのエクリチュール論から「パルマコン(猛毒にも良薬にもなる存在)」という概念を引用し、特攻文学とはまさにそのパルマコンなのだ、と語っている。

 このパルマコンとしての特攻文学という観点で『映画ドラえもん』シリーズをふり返ると、ひとつ『海底鬼岩城』のみならず、『映画ドラえもん』全体に、しばしば「特攻文学」的な描写が両義的な意味をともなって散見されることに気づかされる。

 特に『海底鬼岩城』では、ただの機械が機械であることを超えて愛するもののために死ぬ自己犠牲の美しさと、理性を遠く離れた報復合戦のおそろしさが、バギーとポセイドンというふたつの、それぞれ異なる意味で「狂った」人工知能に象徴され、描写されている。

 ここではいわば、人工知能SFと特攻文学に橋が架けられている、ということもできるだろう。これこそが『海底鬼岩城』がシリーズ屈指の傑作である最大の由縁であり、また、この両義性こそは「人間らしさ」そのもののふたつの顔でもある。

 ひとは愛する者のためにわが身を犠牲にすることもできれば、ひたすらに攻撃性を暴走させて殺しあうこともできる矛盾した存在である。藤子・F・不二雄の天才は、その人間性のパラドックスをすこぶる端的かつ適切に描き出したのだ。

 あるいは、リメイクはその「凄み」を十分に再現できているとは言いがたいかもしれない。ただ、いずれにしろ、この作品が一見した印象より遥かに奥深い主題を処理していることはたしかだ。美しく、哀しく、エモく、しかしそれだけにとどまらない物語。やはり歴史にその名を刻むマスターピースである。

 もうすぐ上映も終わるかもしれないが、大人になった『ドラえもん』世代の皆さんには、その前に観に行ってみることをおすすめする。かつては目にしていても見えていなかった何かが、いまこそ見えるかもしれないのだから。

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