“男”城主!? 直虎~新史料に見る井伊の黒幕と黒歴史(後編)
新説の謎に迫る!
「井伊家のことがある程度分かるのは直平以降です、まあ、われわれが考えているようなお行儀の良い家ではなかったということですな」。
ひと呼吸置くと井伊先生は続けられた。
次郎法師と直親の真相
井伊先生 根源的なことを言えば、次郎法師が女であったということすら分かっていない。ただ、戒名が書かれている位牌(いはい)があるだけです。
大日本地名辞書を書かれた吉田東伍先生によると、これは龍潭寺のことではないが、お寺があって、お寺がいうことが正しいかと思えばそうではない。例えば、井伊谷は地名の通り湿気が多い土地であるから、位牌(いはい)なども早く時代の錆が付いてくることが考えられる。
―― そうすると、お寺さんが自らに都合の良いように創作することもありえるということでしょうか?
井伊先生 悪気はないんだけどね。お寺が自らの功労をPRするために書くだけだが、真実であると思われてしまう。その最たるものが「井伊家伝記」ですな。執筆された動機は、ちっとも悪くないが、それを後世の人が史料として用いた場合は違ってくる。
「井伊家伝記」もいわゆる典型的な二次史料ですが、二次史料にもランクがある。生まれた背景、立場、人格などを統合して判断しなければいけない。信用できるかどうかは、現物があるかどうか、またその人物が他に信ぴょう性の高い古文書を残しているかで判断するしかないのです。
―― では、なぜ「井伊家伝記」はまるで井伊家の正史のような扱われ方をしたのでしょうか?
井伊先生 「井伊家伝記」というタイトルがそうであるからです。名前から推測して、いかにもこれが正史のように見える。書かれた当時の龍潭寺和尚「祖山」は相当なやり手です。
江戸時代には彦根に龍潭寺が移され、井伊谷の龍潭寺のことは忘れられていました。そこで祖山は井伊谷龍潭寺を言いはやすために、井伊家の者は正しく、小野は悪者という江戸期によくある勧善懲悪の伝記を創ったのです。
―― その中で次郎法師はどう描かれていますか?
井伊先生 次郎法師は井伊家を守った英雄として描かれております。
―― なるほど、次郎法師を擁するお寺の権威付けのために、次郎法師を登場させ、南渓という軍師的な和尚をたて、直政が立身出世するまでの物語として活躍させたわけですね。
井伊先生 新史料の中では、次郎法師や南渓は出てこない。例えば、次郎法師や南渓の活躍により、直政が徳川家康にお目見えしたことになっていますが全く出てこない。なぜなら、実際に会見実現にこぎ着けたのは万千代(直政)の母(宗徳)と松下氏の尽力によるところが多いからです。
―― 新史料によると、直政の母は井伊家親族、奥山親朝の娘(宗徳)ですね。
井伊先生 直政の父直親が死んでから、直政の母は夫を亡くした女性となり、その後松下家に嫁いでいます。直政も松下の養子となっていたが、実は母と一緒に居ていないのです。鳳来寺の近くにかくまわれており、会見前には三河大野に近いところで住んでいたようです。
―― 直政は鳳来寺に預けられたのではなったのですね?
井伊先生 鳳来寺の山家に逃れたということが書かれています。寺の小坊主になったわけではありません。
―― なるほど、直政は幼少期に相当つらい思いをしているわけですね。
井伊先生 実は、直政の母(宗徳)は、直政がお腹にいるころに直親に離別されてしまっています。
さらに直親はこともあろうか、宗徳の兄・奥山親秀を亡くした女性と恋仲になっています。それに腹を立てた宗徳の父・奥山親朝が、彼を駿府へと訴えた。罪状は三河の家康に内通しているとしたのです。これが今まで知られていない井伊家内部の秘話です。
―― 直親がプレーボーイだったとは……ひどい話ですね。
井伊先生 直親は実際には家康に内通していなかったかもしれない。なぜなら、スタスタと駿府へと行っているからです。
そして、今川方の重臣朝比奈によって暗殺されたといわれていますが、これも実は切腹させられたということが分かっています。
―― 結局、直親という人物はどういう人だったのでしょうか
井伊先生 直親は、長年井伊谷を離れていたため、基盤が無かった。そこで井伊一族でもある奥山が直親の世話をした。
ところが直親は武辺もあり、美形であったようで、奥山の者は皆ねたんでいたのでしょう。さらに兄嫁の後家が直親に、妻宗徳との離縁を迫ったのです。
―― 奥山からすると裏切りだと思いますし、あるいは当てが外れたようにも感じますね。
井伊先生 直親は、井伊谷の井伊家館に住めなかった。小野などの排除もあったのでしょう。
結局、直親は帰ってきたものの、何の実権も無かったということになる。先生によると直親は相当な切れ者であったらしいが、生まれた時期や場所が悪かったとのこと、そういう人物は専横者たちにとっては邪魔な存在でしかなかったのであろう。
井伊谷は誰のものか
井伊先生 実権という意味では、次郎法師による龍潭寺への寄進状が残っており、それによって次郎法師が井伊谷を支配していたかのように解釈されていますが、実は龍潭寺に限っただけの話です。
後に家康が検分した際の話ですが、次郎法師の寄進状には触れず、直盛の寄進状は見て確認をしています。最新の寄進者である次郎法師を飛び越えて、そのひと世代前の直盛の寄進状をだけを見るということは考えられません。
―― なるほど、唯一次郎法師が実力者であるという裏付け的史料でしたが、その事実を考えると、逆に怪しいということになるのですね(つまり、寄進状がその当時は存在していなかった可能性がある)。
井伊先生 さらにおかしいのは、寄進状は南渓に宛てているのです。うがった見方をすれば、二人の関係を強調したい者が、寄進状を創作した可能性すらあるのです。
仮にあの文書に押された印が次郎法師の物であり、井伊谷を支配していたのが次郎法師であるならば、その印が押された文書が他にも残っているべきですが、残っていないのです。
よって、これは次郎法師と南渓を関係づけするために創作されたのではないかとさえ考えられます。ただし、これは悪意あってのことではありません。
―― ではなぜ寄進状は南渓に宛てていたのでしょうか
井伊先生 それが謎です。ただ、あの時代の龍潭寺は、一種の駆け込み寺的な側面もあります。門前の権利もある。一種の総合商社で、郷民の戸籍を管理する役所のようなものですな。
―― 龍潭寺と先ほどのフィクサーである瀬戸方久とはどちらが強かったのでしょう?
井伊先生 それはもう、瀬戸方久の方が断然上です。「方久禅門」という宛名を記した記録が残っているが、仏道帰依は体裁上のことで、商人であり武士でもありました。
つまり、徳川でいう茶屋四郎次郎を悪徳したような者である。
―― 方久はその後どうなったのでしょうか?
井伊先生 彼は今川方に取り入ると、例の徳政令の際には自分の財に関しては免除を逃れ対象外とさせています。今川がダメになるとすぐに徳川に貢ぎ物(一説には宝剣)を送り、徳川へと乗り換えています。要するに、金こそ正義という人物でした。
―― 井伊谷の衰退ぶりはすさまじいものがありますね。味方といえば、家康を手引きした井伊谷三人衆が登場してくると思いますが?
井伊先生 彼らの実態はこうです。
我らは井伊谷三人衆というもので、この辺り一帯を治めております。どうぞ井伊谷へお越しくださいと言って家康を手引きしていますが、実のところ実力者ではない。
ところが家康にしてみれば、それらはどうでも良く、大義名分を得て井伊谷へ迅速に進軍できればよかった。
―― つまり、井伊谷三人衆は井伊谷を売り、家康は手っ取り早くそれを買ったということですね。
井伊先生 井伊谷三人衆は彼らが勝手にとなえたこと。そして、井伊の味方ではなかった。いわば、戦国C調三人衆(笑)。
彼らに限らず、戦国時代の武将は皆、隙あらば奪うという魂胆で動いています。武士の多くが経済破綻している状態ですからね。
話はズレるのだが、井伊谷三人衆の鈴木重時は三河鈴木家で、あの雑賀孫市らと遠縁である。彼らが晩年、共に水戸家に引き取られていることを考えると歴史の妙を感じる。これはこれで別の機会に、ぜひ先生にご教授いただきたいと思う。
取材陣が戻ってきたので、ヒーターの位置を変える。実はこの後、しばらく戦国談義で盛り上がっていたのだが、井伊先生の博識と歴史への熱意に終始感動しっぱなしであった。そして、私の興味は先生ご本人のことへと移っていった。
赤備え甲冑にかける思い
―― 実のところ、先生の新史料がニュースで流れたとき、失礼ながら私の知人からは、井伊さんの言っていることは怪しい…という声が聞こえていました。
しかし、私自身は非常に興味があり、実際のところは聞いてみないと分からんでしょう! ということで、ご訪問させていただいたのです。話を聞いているうちに、先生の生い立ちに興味が湧いてきました。
井伊先生 分かります。特に最近はさまざまな声を聞きます。
私は彦根に生まれ、若いころから歴史の研究をしていましたが、40歳のころに京都に来ました。
―― 失礼ですが、御年何歳になられますか?
井伊先生 今年74歳になります。私はもともと書士業だったのですが、それが面倒で嫌になり、最初は趣味からこの世界に入りました。
彦根にいるころに彦根藩甲冑史料研究所というものを作って研究をしておりましたところ、22歳のころにNHKさんから彦根城天守閣で甲冑の撮影と説明をするというお話が舞い込んで来ました。
しかし、安物の甲冑で講釈するのではなく、それ相応の甲冑で説明したいということと、年代物の甲冑を運ぶと壊れるおそれがあると考え断ったのです。
母にはNHKさんより依頼があったのだからきちんと取材を受けてテレビに出るべきだ、と叱られたのを思い出します。
―― かなり若いころから赤備え分野の専門家として有名になられていたのですね。
井伊先生 転機は日本甲冑研究の先駆者である山上八郎先生から連絡があり、本を分けて欲しいということでお会いしてからです。そのときの表書きに中村達夫先生と書かれており、とてもうれしかったのを覚えています。
そしてもう1つ、司馬(遼太郎)先生の「街道をゆく」に僕が登場したのですが、そのときには直筆でメッセージを頂き、これも励みになりました。また、私の研究を応援して「井伊軍志」出版の際にはトビラを担当してくださいました。
―― それはすごいですね。そこから、井伊家に来られたのは何かきっかけがあったのですか?
井伊先生 たまたま私が井伊家の研究をしていたのをご存じになり、分家が断絶しそうになったときに、話の流れで継ぐことになりました。
何か天啓のようなものでしょうか、こういうことをやっていくために……今考えるととても意味があったようにさえ思います。
部屋には見渡す限りの甲冑や武具、相当な価値になると思うが、聞くところによると、全てが先生の持ち物ではなく、修理や研究のためにお預かりしている預託品も多いとか。これだけのものがそろっていると、預託する方もかなり安心されるらしい。
―― その後はなぜ京都に来られたのですか?
井伊先生 僕は彦根でいいと思っていたのですが、周りから京都に出て来てほしいという依頼が多くて、引っ越しました。この建物も元は古いお茶屋だったのですが、これも何かの縁で、紆余(うよ)曲折の末、僕が買うことになりました。
これを契機に、今までの研究結果や甲冑などの公開美術館をしようと考えたので、全くの私設美術館なのです。
―― これだけの所蔵品、なかなか見ることができないですよ。
先生が若いころから歴史好きということで、私は大変な感銘を受け励みになりました。
今日は時間が来てしまいましたが、ぜひ別の機会を設けていただき、さまざまな武将のお話をお伺いしたく存じます。
本日はありがとうございました。
町家の急な階段を降り、外にでると雪がちらついていた。
寒い中、先生は門の外まで出て来られ、わざわざお見送りいただいた。
結局、先生は歴史がたまらなく好きなのだ。
彦根藩や甲冑の研究においては大家であることはもちろん、甲冑の鑑定や修理もされ、戦陣武具や古武道にも御詳しい。それで妬まれることも多いのだろう。
とにかく、歴史研究に対する情熱はすさまじく、こと今回に至っては新史料をもとに、分かりやすく丁寧にご教授いただけた。
甲冑や古文書をただの商品として収集していたのであれば、貯めずにすぐに売った方がもうけになるはずだ。
先生の歴史への探求心から収集された物がここには存在し、こと直虎に関しては、いまだ研究の真っただ中なのだ。
戦国魂的総論
事実は小説よりも奇なり。
井伊直虎は男性として実在したが、男性か女性かという問題だけではなく、そこには戦国時代の壮絶な物語があったということだ。
結局のところ、井伊谷一帯は強大な戦国大名の干渉地帯であり、領主の井伊直盛、跡取りの直親、かいらいの次郎直虎や実力者井伊主水、有力者の新野親矩や関口氏経、井伊谷の豪商でありフィクサー瀬戸方久、己の野望に正直だった井伊谷三人衆や小野政次、そして渦中の次郎法師や奥山の娘、その誰もが生き残るのに必死であったということだ。
皮肉にも直親の死によって、直政はプリンスへの道が開けたのである。
江戸時代のような儒教社会ではなく、力が正義だった時代において、直政は恐らく非常につらい幼少期を送ったに違いない。それは直政が“赤鬼”と呼ばれるほど、常に傷だらけで徳川の先鋒(せんぽう)に立ったことや、家臣に苛烈な人であったことなどにその片りんを見ることができる。
次郎法師は晩年、龍潭寺で余生を過ごしたが、その生活は貧しく、報われたものではなかったといいます。もし次郎法師が大活躍していたのであれば、忠義心の塊のような直政のことだ、きっとそれなりに遇したに違いないでしょう
なるほど、井伊先生の分析は鋭い。生き残った直政の行動が物語っている。
井伊谷三人衆はというと、直政時代には冷遇され、直政の下を去った後も奉公構に遭っている者もいる。
では物語の悪人とされた小野政次はというと、直親を告げ口した犯人とされていたが、実際には奥山親朝が訴え、切腹させていた。さらに、その子奥山朝利暗殺も、実行犯は今川方の大村弥兵衛という剛の者であり、小野は一方的に悪者にされてしまっていたのだ。
だからと言って、小野は正義の人だったかというと、これまた今川方と通じながら、自らの野望で井伊谷の実権を握ろうとしていたのは間違いない。
後世の人からすると、正義か悪かの勧善懲悪が分かりやすく、それらの大混乱を鎮めたのは、男ではなく女であったというのはいかにも日本人らしい。
古来の卑弥呼や天照大御神がそうであり、渭伊(いい)神社やその裏にある天白磐座遺跡などは、息長族や蛇神、水神など神の息吹を感じることができる。
まさに、天女のような女性直虎の存在は、ドラマとしても、現代人のわれわれにとっては受け入れやすく妙に説得力があるのだ。
ところで、直親の妻で直政の実母である奥山親朝の娘(宗徳)は相当なやり手だったらしい。直政を松下家の養子にして命を助けたのも、直政を呼び戻して家康と面会させたのも彼女の手腕である。
実は、彼女こそ次郎法師こと女性版直虎のモデルにうってつけの人物だといえる。彼女の事績が、龍潭寺の祖山によって、いつの間にかすり替えられていたとしたら……。
「次郎法師すり替え説?」
などと想像を巡らせながら、美術館を後にした。
井伊谷井伊谷で起こった血生臭い暗黒の歴史がひもとかれたが、それも結局は家康が来て万事一掃されていった。
たった一人の英雄が、何事も無かったかのように、全てをきれいにしていったのだ。寸暇を頭の中の井伊谷で過ごした私としては、直政が徳川四天王として活躍し、井伊家が雄藩として残った歴史に、何とも心が救われた思いがしたのである。
※井伊家最古の系図「井伊氏族系図伝記」(岡本宣就 撰)
井伊直政、直継、直孝、直澄、四代の井伊家創業に係る藩主に仕え自らも上泉流の軍師として、井伊軍の軍配を預かった名臣 岡本半介宣就(無名老翁・喜庵)が、寛永二十一年に考証記録した自筆による井伊家系図で、井伊氏の系図としては藩公認現存最古の系図です。
あくまで男系を尊重した古系図のやり方で、この中には次郎法師ないし直虎のことは皆無です。そのままで見る限り存在のあとさえありません。次郎直虎時代の生き残りが存在していた時代、また自らも井伊家史の学者を任じていた当代一流の人物が著したものとして、時代の真実と風潮をしのぶ重要な史料と思えます
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