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「食えなければ飢え死にしなさい」その言葉が紀里谷和明のキャリアに火をつけた 対談小説:鏡征爾(3/3 ページ)

開始10分。紀里谷さんは言った。不意打ちだった。「きみは何を恐れているんだ?」

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10 そして鏡はいなくなった

「絶景絶景」
 波照間島。
 翌日。最果ての離島に、僕は来ていた。
 東京から数千キロメートル離れた日本の最南端。

 ごめんなさい。沖縄にいってきます。
 そんなメールを編集部に残すと、いつも電話にでない須田が5秒で折り返してきた。<なにいってんすかかがみさん>そんなショートメールが残っていた。<早く書かないとやば「プチッ」>
 那覇空港に降りた瞬間は、感動的だった。
 一瞬で東京の極寒から南国へ。
 中学生がTシャツを着た世界へ。
 日射しが黄色い……タルコフスキーの映画のような独特の色合い。夏の匂い。
 気まぐれな時雨が、遠い、幼い夏の日の情景をつれてくる――。
 僕は沖縄に逃げた。
 朝7時のフライトで成田から那覇に飛び、そこから石垣島に1時間かけてマネキンのような添乗員が緊急着陸シートの案内をコスプレするJALに乗って、貨客船フェリーに揺られること3時間弱。
 最果ての地。
 波照間島。
 すさまじい美しさで知られる海……。僕は海にいた。
「海へ行きたくなったら海へ行きなさい」
 奇しくも監督の言葉をなぞる形になったが、そのときの僕には監督とか仕事とか連載とかどうでもよかった。限界だった。ただ純粋に生命の始まりとされる水の、圧倒的な物量の群れが見たかった。

 もういやだ。こんなところはもういやだ。

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 好きなゲームで、そんなセリフをヒロインが吐く。
 拷問じみた日常に耐えかねて、感情を爆発させて家を出るのだが、いまの僕は、彼女に感情移入せざるを得ない。ずっと溜め込んでいたものが爆発した。
 ああ……。海だ……。

11 最果ての波照間

 透明を通り越して光学的色彩を放つ海。
 圧倒的を突き抜けて憧憬(どうけい)すら抱かせる青空。
 鼓動を鳴らすように浜辺に打ちよせる波の音。……
 俗世を離れ、手つかずの自然の美しさに我を忘れ、時を忘れる――。
 ……そんな光景が、本当だったらいいのになあ。

 全便欠航。

 おい……。
 おい……おれは……。
 なんのために石垣まで来たんだ?

「5メートルの高波で波照間へのフェリーは中止です」
 安栄観光のおばさんの、のんびりとした声が、呆然(ぼうぜん)と立ちすくむ僕の耳に、右から左に通り抜ける。
石垣にはすさまじい強風が吹き荒れていた。立っているだけで、首ごと薙ぎ倒されてしまいそうな、強風というより暴風がココヤシの実を揺らしていた。
「貨客船フェリーは台風でもこなければ欠航にはならないんですけどねぇ」
 どうやら僕は、今冬一番の時化にあたってしまったらしかった。
 西表島行きも全便欠航。
 西表島でイリオモテヤマネコをとる、というネタも使えない。
 ろくに調べもせず、いきなり沖縄に来たのがまずかった。
 那覇と石垣の違いすらわからなかった(本土を横断できるくらい離れている)。だから那覇と天候は変わらんだろうと高をくくっていた。そこから空路でさらに乗り継ぐ必要があり、しかも日本最南端の離島へはその石垣から船で3時間かかるなんて……。すべてがコントロール不可能だった。石垣島からバスに乗って港ターミナルに行くのも、1時間かかる。
 僕はどうすれば……。
 途方に暮れていると、空港ビルの前のターミナルに、バスの運転手さんが立っていた。僕は聞いた。
「波照間に行きたいんですけど……明日も無理そうですか?」
 がったんがったん背後でココヤシが薙いでいる。
「ちょっと待ってな」そういって浅黒い肌をした、がっしりした体格の沖縄男性が、最新のiPhoneを駆使して波の予報を調べてくれた。
「明日も無理だ」と、彼(米盛さん)はディスプレイに目を落としながら言った。「予報が4メートルから3メートルの波になっとる。3メートルを超えると船はでねえんだ」どうやら地元の人間にとっては当たり前の事実らしかった。
船の移動が生活に根付いているのだ。石垣島にはコンビニやスーパーがあるが、他の離島にはほとんどない。ちょっとした商店があるだけだったりする。だから生存に必要な資源物資を調達するのに船で行き来せざるを得ない。なんだか孤島もののミステリーみたいになってきたな。
「そう……なんですか」
 この時点で、僕の目の前は真っ暗だった。真っ白だった。10万はたいて、衝動に突き動かされるままきたのだ。仕方なしに、せめて波照間の情景を想像したいと思った。
「波照間って行かれたことありますか?」
「あ。自分波照間出身なんですよ」
「えっそうなんですか?」
「あれは独特な海だなあ。海が浅いところと深いところの落差が急激でね。色味がいきなり、変わるのね。俗に言う、波照間ブルーっていってね」
 はてるまぶるーってなんですか?
「俗に言う、クリアブルーっていうの?」
「やっぱり他とは違うんですか?」
「宮古島に匹敵しうる海だね」
 宮古島の方が綺麗なのかよ!

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「もっと情景を想像したいんです。光の色とか。何か、こう……砂浜が綺麗とか。白いとか。空が突き抜けてるとか」
あれ、写真のまんまだよ
 ……おい米盛。そういう問題じゃねーんだよ。
 だったら石垣までこねーよ!
 だがその時紀里谷和明の言葉を思い出した。
<当初の理想と違ったときに衝動の炎が消えるかもしれない、でも消えない何かが残るかもしれないんだ>
 僕は米盛さんに聞いた。
「あの……波照間に似てる海ってありますか?

12 世界の終わりの終わり

 死んだバラバラの珊瑚が流れ着いてくる。
 砂の肌理が細かくてだんだん靴裏に入り込んでくる。
 透明な海水がふくらはぎを濡らして、指先の感覚が失われる。

 竹富島。

 石垣島からほど近く、5メートルの高波でもいける唯一の離島。
 海が綺麗なことで知られる、隆起珊瑚の島。
「わお海だ」
 10年ぶりの海だった。
 高校から友だちのいない僕は、10年海に行ってない。
 中学生の頃に地元の不良仲間と、御宿のビーチに行ったくらいだ。
 別に、見たいとも思わない。思わなかった。だけどいまはなぜか惹かれた。
 これまでまったくみたいと思わなかったものが強烈に見たくなっていた。
 僕は海がみたくて沖縄にきたのだ。
 マングローブとか水族館とかどうでもよかった。
 僕は波照間……とは少し違うけれど、とても綺麗な竹富島の海辺を歩いていた。すぐに靴は役に立たなくなった。水と砂で文字通り足枷になった。僕は素足で歩き続けた。どこまでも海は広がっていた。気の遠くなるほど果てしなく続いていて、終わりすら求めずに歩き続けた。一心不乱に足を動かすうちに自動的に意識が遊離して、内側に向いた。対談を思い出した。テープを起こす必要なんてもうなかった。
<冷たいラーメンが作りたくても暖かくしますよ>
 色々なものが爆発してしまった……超高層フロアでの続きだった。
「CASSHERNが失敗だったと思ってますか?」
「思ってない。30年先まで残る作品だと思ってる」
「徹底的にすごいと思うものを追求してこられたんですよね」
「そのためなら死んでもいいと思ってる」
「僕は徹底的にすごいと思うものを追求すると本が出せない」
 全部がパターンで退屈なんです――萌え文化全盛。キャラクター文化全盛。
いや、問題はそこじゃない。売れてるものを見ても「へえ」ってなる。子どものお絵かきをみているみたいな気持ちになる。そうしたらこのあいだ……ある出版社の重役に「じゃあ趣味でやんなさい」って言われたんです。でも、それじゃあやってても意味がないと思う。凄いと思うものをたくさんの人に見てもらいたいと思う。

「OK じゃあ分けていこう」
 いま思うとあまりに幼稚な議論だ……。緊張して、舞い上がっていた面もあるかもしれない。衝動は簡単に正負を転化する。虹色に光るプリズムのように、一瞬に切り取られた時のなかで位相を変える。
 でも紀里谷さんは丁寧に説明してくれた。獰猛な肉食獣のようなさきほどの鋭い眼光が一変して、その急激な変化に戸惑ったが、自分の心情を処理するよりも先に彼の言葉に反応していた。
「きみのなかの情緒の炎があるとするじゃないか……それを炎という名で呼ぶことにしよう」

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13 人の姿は心の炎の照り返しに過ぎない

「Output.」と、紀里谷さんは言った。流暢(りゅうちょう)な映画俳優のそれだった。「それはアウトプットの部分で――何かバランスが取れていないということではないだろうか。さっき話題に出た、バランスの話でいうとね。そこを頑張らなくちゃいけないんじゃないかな。どう届けるのか、っていうこと。方向はキープしながら。その炎を、どう届けるのか。そこに注力するべきなんじゃないか?」
「今回の映画はかなり硬いものに土台を移しているじゃないですか」
「迎合してるってことじゃないんだよそれは。例えばさ、自分がつくりたい料理がありますと。ラーメンでも何でもいいよ。うん……ラーメンにしよう。こういうラーメンだったら自分のなかで情緒的に思った。美味しいと思う。でも大事なのはそれみんなに食べてもらいたいってことでしょ?出版するってことは」
「うん」もう敬語なんてどうでもよかった。この人を前にして余計な心理的防波堤は不要だと思った。
「じゃあそれをどうやって形にしてつくるのか、っていう作業が始まるわけだよね。そのなかで、自分は、冷たいラーメンが欲しい! って思っちゃったのかもしれない。でもさ。じゃあさ。冷たいラーメンだして『え、これ、冷たいのかよ!』ってなっちゃうじゃん。なっちゃったと仮定しよう」紀里谷さんの言葉に力が籠もる。「そこは想像できるじゃないか。じゃあ冷たいものを暖かくしたところでその最初の情緒の炎が消えるのかってことを自分自身に問いたださなければいけない。おまえのなかの炎がそれで消えるのであれば冷たいものをだすしかない。でもさ、もしかしたら消えないかもしれないんだよ。自分のなかで思いこんでるだけでそうではないかもしれないんだよ。その冷たいという事が重要なんじゃなくて、そんなことが問題なのではなくて、それ以前にある根源的な、もう一個手前にある何かの感情を届けたかっただけだとしたらそれが届けばいいわけですよ」声が、だんだん強さを増していく――。「だからかたくなになってしまってはいかんのではないかって話なんだよ。だから、きみも考えなきゃ。どこをとるのかってことを。ただその最初の火は、つねに見つめてないと、消えちゃいますよって話」
「ただのつまんないもん書いてるよってなる」
つまんないライトノベルとか書いてるよってなる。気が付いたら。それどころか気が付いたらどっかの雑誌の記事とか書いてるよ」僕は息を止めた。自宅に新聞社を資料を取り寄せたばかりだった。「そもそもやりたかったことがなしになっちゃって。何のために生きているのかわかんなくなっちゃって。そりゃ金のためだったらねえ。不動産屋さんとかねえ。金融とかねえ。いろいろあ
るよねえ。もっとお金が入ってくる仕事。そっちの方がピュアだよね」
「そこにNY時代の紀里谷監督は突き進んだ」
「そこでおれは決めた。もう死んでもいいって決めた」

 僕は歩き続けた。
 何も無い海岸を歩き続けた。
 死んだ珊瑚が足首にからみついてくる。
 突風が頬を打つ。足を打つ。巻き上げられた微細な砂が雹のように全身を叩きつける。
 言葉が顔の左右で割れる霧状の砂塵のように浮かんでは流れていく。
「おれは死んでもいいって決めた」
「おれは死んでもいいって決めた」
「そこでおれは死んでもいいって決めて突き進んだ」
「だけど僕の中では伝えられるって自信があったし、伝えようとした意志があった。いいと思ってもらいたいって思ってた。だってさ。その人が冷たいって言ってんだったらさ。暖かくしますよって。おれはしてた。そうやって突き進んだ。それでも火は消えなかった。消えなかったよ。消えなかったんだよ。消しても消しても消せるもんじゃなかったんだ。できるんだよ。だってそれは消えないようにすればいいわけだよ。冷たくしたら火は消えるっていう思い込みかもしれないんだよ。それをエゴと呼ぶんですよ。頑固親父のこだわりとかいってるけれどそこまでこだわるんだったらだすなよって話じゃん。喜んでもらいたいわけじゃん。人には。喜びながら同じ火を見てみたい、って話じゃん。だから徹底的に考えないと。考えて考えて考え抜かないと」
 僕は泣いていた。

14 最後の炎

 土砂降りの雨が頬を叩きつける。
 巨大な波が口を開ける。夕闇が近づく。
 黄昏が覆い尽くされた曇天の暗黒に変わる。
 紀里谷和明の言葉が次々と浮かんでは消えていく。
『情緒の炎が消えるのかってことを問いたださなければいけない』
『それを変えてもきみのなかの炎は消えないかもしれない』
『作品が100パーセント売れることなどないわけだ』
『東京大学という檻はしかし檻でしかないわけだよ』
『突き抜けるって何かっていうことだろ』
『みんな同じ心の炎を持ってるんだ』
『おれは死んでもいいって決めた』
『おれは死んでもいいって決めた』
『映画の宣伝なんてどうだっていい』
『ハリウッドなんて当たり前なんだよ』
『誰だってお花は綺麗だって思うだろう』
『そもそも何事にも困難なんて付きまとう』
『そんな葛藤なんて自分でつくりあげてるだけ』
『つまんないライトノベルとか書いてるよってなる』
『一個の感情を届けたかっただけだとしたらそれが届けばいい』
『そのために自分は生きてるって認識があればそれができなければ』
『死んでもいい』『それどころかつまんない新聞の記事とか書いている』
『きみのなかに衝動が現れたと。いまから海を見たい』
『そこは絶対に努力して行かなければいけないんだ』
『衝動が現れたときに見に行かなければいけないんだ』
『だからおれは苦しむということに徹底的に向き合ってきた』
『きみはやりたいことをやって食えないのなら飢え死にしなさい』

 僕は歩き続けた。突風が追い風に変わって、足裏の感覚がなくなって、思考が擦り切れてただ無意味に歩き続けた。剥きだしの海を眺めるうちに海は海ではなくなって、ただの圧倒的な超自然的な宇宙に見えた。虚無の入り口のようにみえた……。
「海がみたいと思ったら見に行かなければいけないんだ」
 予想していた海はあんまり綺麗じゃなかった。思い描いていた理想とは違った。人生のようだと思った。作家デビューしたとき、夢と理想が自分の手の中にあると思った。でもそれは幻想だった。待っていたのは幻滅だった。同じようにいま世界に対する理想が生命の灯火のように、頭蓋に火花を散らしていた。
『何度も何度も逃げようとしたよ。でも逃げようとしても追いついてくるんだから』
 どこまでいっても逃げられなかった。靴音のように着いてきた。亡霊のように靴音を意識する自分の意識が、後から後から追いかけてきた。
 全ては流れていく。思考も海水も珊瑚もゴミも流れていく。
 それでも流れない何かがある。
 それは足裏の痛みであり、鼓膜の痛みであり、摩耗された意識の彼方に残る灯火のような情緒的何かだ。消えない何か。理想の残滓。

「それを炎と呼ぶことにしよう」

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 僕はずぶ濡れのまま港のフェリーに戻り、バカ高いロッカーから荷物を取り出して、不自然に豪華な客船フェリーに乗り込んだ。
 荒れる海を眺めながら石垣から那覇に飛んで、国際通りの商品化された群れを通り過ぎ、牧志のホテルで着替えると、そのまま那覇から成田に戻った。東京駅に向かう高速バスのなかで昏倒するように眠っていた。眠りから目覚めたときは、黄昏の残照が残る夜の始まりで、到着間際だった。
 東京湾の向こうに海辺の光が黙示録みたいに広がっていた。ベイブリッジ。
超高層ビルの群れ。頭蓋のシナプスの細胞のような電飾の光……。東京のビルの圧倒的な夜景は自然の海以上に、ずっと綺麗に見えた。夏が終わった。

 そうして独房のような都心の檻に戻って、僕は1日でこの原稿を完成させた。

 本記事の元になった対談記事

前編を読む
後編を読む

作者プロフィール

鏡征爾:小説家。東京大学大学院博士課程在籍。

『白の断章』講談社BOX新人賞で初の大賞を受賞。

『少女ドグマ』第2回カクヨム小説コンテスト読者投票1位(ジャンル別)。他『ロデオボーイの憂鬱』(『群像』)など。

― 花無心招蝶蝶無心尋花 花開時蝶来蝶来時花開 ―

最新作―― https://kakuyomu.jp/users/kagamisa/works

Twitter:@kagamisa_yousei

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