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ハリウッド監督・紀里谷和明2万字インタビュー×東大作家・鏡征爾:禁断の解禁 ここにあなたの悩みをひもとく全てがある<後編>(1/2 ページ)

作品づくり、ロジカルとイロジカル、そして死について。

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 紀里谷和明。映画監督。宇多田ヒカルのMVでも知られる鬼才。ハリウッド進出を果たした「ラスト・ナイツ」を手掛けた彼に、小説家・鏡征爾が話を伺った。

 採録は2015年初冬。同行したのは開成高校出身の東大生・須田と「死にたい」劇作家志望の学部生K。〈紀里谷がクランクアップから上映まで2年の歳月を要したように、私がこの対話を公開する勇気を持つまで2年かかった〉これは地獄の東大黙示録である。対談小説と全2回のインタビューという合計4万字を超える異色の出来。須田と学部生Kの、東大生&若者を代表する質問も必読の最終章。

 この文章が、あなたの心の暗闇を照らす光になりますように。

紀里谷和明 鏡征爾
鏡征爾(写真左)と紀里谷和明監督(写真右)

>前編はこちら


VIII キューブリック「スパルタカス」

鏡:最後に「ラスト・ナイツ」について書きたいです。

紀里谷:見て感じてくれたことを書いてくれればそれでいい。それが一番俺が望むこと。単純に感じたことを正直に言ってもらえたらそれが一番俺にとってはうれしい。

鏡:最後本当に感動しました。

紀里谷:じゃあそれ書いてよ。

鏡:ラストシーン。

紀里谷:あ。内容は俺語れないよ?

鏡:最後の光につながるようなクライヴ・オーウェンの顔。

紀里谷:うん。

鏡:それが心に残ってるんです。他の映画の話になりますけど、キューブリックの「スパルタカス」。あれは紀元前の奴隷解放戦争の話で、理想を追い求めたスパルタカスが命を賭して戦ったことによって、自分の子どもが奴隷の身分から解放されて、自由になるんですよね。それを十字架に磔にされたスパルタカスが最後に見下ろすんです。子どもを掲げる妻の声が退潮していく。“Free”その瞬間にスピルバーグも言っていたんですが、すごい感動したと。その場に居合わせた全員が涙を流していたって言うんですね。で、僕は今回の作品にも同じものを思って。

紀里谷:ありがとうございます。それは書いといてください(笑)

鏡:書きます(笑)。かなり僕も映画好きなので。そのラストと同じものを感じたんです。キューブリックの場合は「フリー」が形になる。「フリー」っていう子どもがでてくる。「ラスト・ナイツ」の場合はそれが芸術的に昇華されていて、忠義とか魂の問題が残ると思うんです、その後に。で、それが、見る人にしかわからない部分があったかもしれない。

紀里谷:何が聞きたいんだ何が(笑)

鏡:監督はいつあんなすごいシーンを思い付いたんですか?

紀里谷:いやその場で撮ったんだよ。

鏡:その場で? それは他の選択肢とか、あれは相当レベルが高……(マーティン・スコセッシ「タクシードライバー」のラスト、娼館を銃撃するロバート・デ・ニーロを思い出しながら言う)

紀里谷:知らない。俺にはわからないんだよ。レベルが高いとか。低いとか。じゃあそれはいいじゃん自分が好きなものでって思うんだよ。

須田:その自分が出てきたものをブラッシュアップするときに、何かを参考にしたりしますか?

鏡:たぶんそれが相対的なんだと思う。

紀里谷:だから全てが「到達」しようとしてるんだよ。ブラッシュアップするとき?

 それは上に格上げしようとか、AからBに到達しようとしている。そしてそのときに参考にするものは何なんですか? とか。

鏡:定式化したものからってことですね。

紀里谷:そう。東大に入るためにはどうしますかみたいな話をしてきたわけだろう。

鏡:……。

須田:(鋭く切り返して)僕は別にBを……Bがある前提でしゃべってるわけじゃないんです。東大に入りたいってわけじゃない。例えばいい映像をつくりたいっていう、

紀里谷:それも到達点だろ?(瞬殺)

須田:でももっといいものをとは思いますよね?(即答)

紀里谷:いや。だからそこなんだ。そこの考え方が。そこの考え方が……。

 いや、もちろんわかるよそれは。やってたって。こっちだって。いい映画をつくろうとして。では、そもそもいい映画とは何なのかという話になってしまう。

須田:もちろんその通りです。

紀里谷:自分が“感じる”こと。そういうことでしかそれは成り立ち得ないんだよ。

須田:つまり、紀里谷さん自身がもっといいなと思える映画……

紀里谷:もっといいなと思える言葉自体がそもそも違う。

鏡:気持ち悪い?

紀里谷:感じられるとかにしてくれ。そうしたら。もっといいなと感じられる。

須田:自分好みであると。

紀里谷:好みとかさあ(笑)。何か抜け落ちているんだよ。きみが感じる、感じられるパートが、抜け落ちているようにみえる。しかしそれはそれでいいでしょう。きみの領域はそれで成立する領域なんだろうし。

須田:僕はそんなことないと思ってやってきてますけど……。

紀里谷:しかし俺からするとそうみえるんだよ。わかる? そして俺からするときみは極めてロジカルな部分が抜け落ちているようにみえる。それも同じようなことなんだよ。だから俺はいっているんだ。いろいろな在り方があっていい。一貫してそれを主張しているんだ。しかしながらそのロジカルではない、というものが疎外されるような社会になっている。果たしてそれでいいのだろうか。それが、すごく僕のなかのテーマとしてあるよね。特に、最近はそれを子どもにやり始めているから、尚更思うよ。果たしてそれいいのかと。

 で、そもそもロジカルな領域もそれで成立するのだろうか、というところが非常に大きなクエスチョンだよね。

鏡:確かに東京大学には既存の方程式の中から何とかしていくっていう建設的な人が多いように思えます。

紀里谷:確かにそれも必要なんだ。だから両輪が必要なんだよ。

 例えば高層ビルを建てるとする。このビルをみてよ(六本木の高層階)。巨大なビルだろ。だがそれもそもそも発端なんて曖昧で情緒的な発想だよ。高いビルがみたいというさ。これは極めて情緒的だよ。誰かがみたいと思ったわけだろう?

鏡:摩天楼とか?

紀里谷:そう。何だってそうだろう。その情緒に対してデザイナーがデザインする。それも極めて衝動的なものだよ。ナプキンとかにスケッチする。どんな感じがいいかと。どんな設計が美しいのかと。

 そしてある段階まできたら、極めてロジカルにエンジニアが構築していく。それをマーケティングしていろいろやっていく。だから両輪がないと駄目なんだ。

 しかし、あまりに情緒的な部分が削られてるんじゃないかという思いが、僕のなかにあるんだよ。だからそこなんだ。若者がもし僕に聞きたいというのなら、そこの話を聞きたいんじゃないのかと思うわけ。

 だから「映画をどううまくつくりますか」なんてのはそれはロジカルな部分で、それは他にうまい人なんかいっぱいいるわけでさ。しかしながらそのできるかどうかもわからないのになぜそれをやっているのか、とか、そういうことだろう? 勝算もないのになんでそんなとこに突っ込んでいくのか、とか。そこまでリスクを背負ってしまって、「一体どうして?」と。

紀里谷和明 鏡征爾

IX 困難の普遍性と教育システム

鏡:紀里谷さんは、自分のパッションを大事にして突き進んでこられた方だと思うんです。一方で、その衝動についてまわる困難についても語っている。今回も相当大変だったと思うんですね。雪のなか、マイナス20度の状況で撮影して。クライヴ・オーウェンとモーガン・フリーマンっていう、あれだけの名優を使って。現場の人間だって相当優秀だったと伺っています。

 でも、優秀であればあるが故の大変さもまたある。その困難をもうちょっと聞きたいです。

紀里谷:何事にも困難なんて付きまとうわけ。たぶんきみがこの原稿を書くのにも困難は付きまとうだろうし(※この後本当に困難で鏡は沖縄に逃げた)。

鏡:あはは。

紀里谷:小説を書いていても困難なんて多分にあるはずじゃないか。俺はそれを悪いことだと思わないでねっていいたいの。だって、いいことじゃないか……。

鏡:……。

紀里谷:例えば――いまから山に登ります。エベレストに登頂します。それらは極めて情緒的な発想である。そしてそれを一歩一歩登っていきましょうと。そこでいろいろなギアを使う。エンジニアリング的なものも使う。そうやって、一歩一歩、地道に地道を重ねて登っていく。困難きわまりないと思うよ。想像してみてほしい。そしてきみは頂きに立った。登り詰めた。ようやく頂点に立ちました。

 そこで見た景色。それだけの話よ。

 そこに到達する行程からいえば、0.1パーセントにも満たない時間をダーッと一瞬でみて、数十秒後には降りてくるんだろう?

 何分間も、いられない。それだけ高いところ。すごいところ。人智の極北。それなのになぜそれをやるのかってことだよ。それは極めて、ロジカルな行為、ではないよね。その行為自体はばかげているじゃないか。

 しかしながら、それをやろうとする人間がいる。また、それを見ている人間がいる。感動する人間がいる。そうしたら感動とは何なのか、ということじゃないか。極めて「イロジカル」なこと。極めて情緒的で曖昧なものじゃないか。

 俺が言いたいのは、生まれてから、死ぬまでで、人間が……それを幸福感と呼ぼうか。その言葉自体あまり好きじゃないんだが。……とにかく極めて曖昧なものなんだ。オリンピックだってラグビーだって曖昧なものなんだよ。しかしながらそこをロジカルに行く。エベレストをみる。頂上をみる。

 じゃあそんなに大変なら、いっそヘリコプターで行っちゃおうと。極めてロジカルだろ?

須田:それは極めてロジカル(笑)

紀里谷:短時間で行って。「イェーイ!」ってやって。そうやって、そうやった方が、極めてロジカルなんだ。

 じゃあどちらがいいのか、という話になる。これはもう好き嫌いの話でしかないんだ。だから後者の選択も俺はまったく否定しない。いいんだよ、本当に。

 ただ、「後者が前者を否定するのは違うんじゃないんですか」というのが、俺がいまの社会に言いたいことなんだ。

 全員が全員、そういう風な……例えば受験だってそうだろう?

 入りさえすればいいみたいなところがあるだろう? 要領よく暗記して、ここが出るからここが出るからと網羅する。あれは戦略だろう?

 いいんだよ。それはそれでね。しかしながらそうではなくて、学ぶということをもう一度考えてみてほしい。学びに対する衝動というものは、俺は極めて曖昧なものだと思っている。それは何かに到達するための学びであるかもしれない。しかし俺が言っている純粋な学びというものは、そんな程度のもの、では決してない。到達するためのものじゃない。そこが根本から違うんだ。いまの受験システム。それがベースとなっている現代社会。ほとんどの先進国はそうなっている。そういった状況のなかで、まあ、なんていったらいいかな。つまんないな!(笑顔)って言っているだけ。

 で、そもそもなぜ俺のところに話を聞きにきているのか、という話になるわけだ。何かがあったわけでしょ?

鏡:(うなずく)

紀里谷:そこにひかれたわけじゃないか。自分でいうのも何だけどさ。何かの魅力があったわけでしょ。それを探りたいだけの話なわけでしょ? これって。

 ということは、そういう領域じゃない人間の……100パーセントじゃないよ? 極めてロジカルにやらないとそもそも映画なんてできないしさ……そこの領域に、魅力を感じたんじゃないかなと思うわけ。

 だからその領域をもう一度みつめてもいいんじゃないかと思うんだ。みんなで。そこをもっと肯定してあげてもいいと思う。自分たちのなかに、肯定してあげてもいいのではなかろうか。

 俺がいいたいのはシンプルなことなんだ。

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