名作少女漫画『チキタ☆GUGU』が教えてくれた「関係性の狂気」 どうあがいてもひとつになれない私たちは、それでも共に生きられるのか?
少女漫画が教えてくれた、理解できない他者について。
少女漫画。それは多くの女性が出会い、ふれあい、どっぷりと浸かり、あるいは反発し、断絶を感じてきた、不思議な文化です。自分の物語を見つけられた人も居場所がなかった人もいますが、人生のどこかで一度はすれ違うものではないかと思います。
今回ねとらぼGirlSideでは、連載企画『少女漫画を語ろう』を立ち上げました。少女漫画について語る言葉が、この世にはまだ少なすぎるように思われたからです。さまざまな人たちに、自分の人生と交差した少女漫画、そして少女漫画と交差した自分の人生について、漫画と文章で語っていただきます。
第3回は犬と漫画を愛する労働者、楽しい人生さんが登場します。これまで出会ってきた少女漫画と、人生に巨大な問いかけをもたらした「絶対的な一冊」について、ご寄稿いただきました。
少女漫画を語る漫画「CLAMPで始まった何か」
少女漫画との出会いは幼稚園児のころだった。本屋にて「なかよし」(講談社)本誌を発見し、「あのだいすきなアニメのご本があるぞ」と驚きと興奮とともに手に入れたのがはじまりである。だいすきなアニメとはほかでもないCLAMP『魔法騎士レイアース』(講談社)のことで、順当にCLAMP『カードキャプターさくら』(講談社)にはまり、起床後や寝る前にはせっせと作中のキーアイテムであるクロウカードを模写する穏やかで敬虔な日々を送っていたが、同じ作者たちによる漫画だからという理由でCLAMP『東京BABYLON』(KADOKAWA)を手にしたことでまた新しく何かが始まってしまった。中学生のときには山岸凉子『日出処の天子』(白泉社)に衝撃を受け、以降も私の傍らには常に少女漫画がある。
楽しい人生さんが語る少女漫画:TONO『チキタ☆GUGU』
学生のころひとりで暮らしていたアパートのすぐ裏手に、23時まで営業している本屋があった。品ぞろえが際立って良いわけではなかったが、なにかしらの読むものを常に手元に置いておきたい性分なので、たいへん重宝した。
ある冬の晩のこと、その書店の新刊コーナーで一冊の漫画が目に止まった。何気なく手に取ると、カバーに使われた紙がしっとりと手に馴染んだ。やわらかくもさっぱりした線で描かれた表紙の少年たちも気になるし、と1巻目だけを手に取った。あ、これちょっと前の少女漫画の新装版なのか。そういえば聞いたことあるタイトルだ。
自宅に帰って浴槽に湯がたまるまでと思い、手に入れたばかりの漫画を開いた。最後のページを震えながらめくって、もつれる足でまた本屋へと向かった。2巻目を買うために。当時住んでいたところの風呂には追い炊き機能がなかったので、深夜、呆然としながら湯をため直した。1カ月経てば3巻と4巻が一度に出るらしい。待つのか。あと1カ月。待つのか!
新装版が出ているということは旧版があるわけで、そっちで読んじゃえばいいじゃん、という話もある。そう思う。しかし私は1カ月、悶えながら待った。新装版で読みはじめたからには新装版で読み切りたいという根拠不明のこだわりが湧いてでたのがひとつ。そして、絶対に良いだろうと確信を持っているものを待つ時間は苦しくも甘美であることを知っていたからというのが、もうひとつ。その漫画、私の絶対的な一冊、TONO『チキタ☆GUGU』(朝日新聞出版社)にはこんな台詞がある、「『百年』はそりゃあ甘美な時間だよ」って。
『チキタ☆GUGU』は、一族郎党を人喰い妖怪に皆殺しにされた過去をもつチキタという少年が、その仇である人喰い妖怪に「百年飼育すれば至高の美味になる人間」として「飼育」され、奇妙な共同生活をスタートするところから始まる物語だ。程良くいいかげんな中華風の世界を舞台としており、力の抜けた絵柄はなんとも可愛らしい。表紙絵からはほのぼのとした空気さえ漂っているように思えてしまう。
しかし、それは大いなる勘違いである。 本作では、人間の弱さが息をつく暇もなく描写されていく。人間同士が殺し犯し搾取し弄び、食いものにし合う様子の描き方には容赦がない。人間と人間の暴力より、人喰い妖怪が人間を食べものとすることのほうがよっぽど納得できる、なんて思っていると、困窮した人間が人間を食料とすることでかろうじて生命をつなぐ姿を突きつけられる。身勝手で理不尽で享楽的な暴力も、生きのびるための葛藤にまみれた決死の選択も、その被害をこうむる側からすれば大差ないのかもしれない。
人喰い妖怪のラーに家に押しかけられても「まあご飯作ってくれるからいいか」「『親の仇』!? そんなこたどうでもいい」と、とことん冷めていたはずのチキタは、ラーとの関係性が深まり、またラーと同じく人喰いであるクリップやオルグ、人に害なす妖を取り除こうとする魔導師一族のひとりであるニッケルなど、さまざまな人物や妖と関わるなかで大きく揺れていく。あるいは心の麻痺させていた部分が感覚を取り戻したのかもしれない。
ラーは平気で残虐な行いをするが同時に心底無邪気だ。ラーはチキタを特別な存在とみなすようになり、また自分を特別な存在と思ってもらいたいと試行錯誤するようになる。そしてその想いはラーの一方通行ではないのだ。チキタは抑圧していたラーへの憎しみと向き合い、その葛藤の末にラーとともに「百年」を過ごすことを自ら選択することになる。
チキタの数奇な運命が花開いていくさまは圧巻だ。起きている出来事はドラマティックかつ往々にして血なまぐさいのに、終始ある種の乾いた眼差しのもとに描かれていて、神話に似た遠さや民話に似た淡泊さを持っている。しかしチキタやラーの経験したことや作中で起きた出来事を、私たちは我が事として知っている。どんなに残酷なできごとも、うつくしく感動的な事件も。
家人に『チキタ☆GUGU』を読ませたところ、滂沱(ぼうだ)の涙を流しながら「チキタは君でラーは私だし、チキタは私でラーは君だ」と訴えはじめた。この人、私のこと好きすぎる、とおかしく感じたが、同時に胸をつかれる思いがした。
この物語ではずっと、価値観や立場の異なる者同士がどうしても分かり合えない様子が描かれている。私達はどうあがいてもひとつになんてなれなくて、それでも他者を求めてやまない。埋まらない間隙(かんげき)を埋めようと、果てのない夢を見続けている。
『チキタ☆GUGU』を読み返すたび、チキタたちの運命に涙しながら、自分自身の埋まらない間隙について振り返ってしまう。あなたにとって生まれてはじめてのどうしようもなく理解し合えない他者は誰でしたか。憎しみと愛おしさの狭間で荒野を行くような気持ちになったことはありますか。
絶対にたどり着けないものを追い求めるその熱情は、ほとんど狂気に似ている。私達は関係性の狂気とでも呼ぶべきもののなかで生きているのだ。
狂気を道連れに先の見えない旅路を行こう。狂気は必ずしも絶望ではない。旅路の途中やその先にある希望のことを、『チキタ☆GUGU』はちゃんと教えてくれる。
「あの時 お前に会えなきゃ 俺はあのまま死んでいたんだよ」
「誰だって 他の誰かなしで生きて行くことはできないだろう 言葉とか温もりとか 何かを分け合う誰か……」
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