「オッペンハイマー」原爆描写に米国でも賛否両論、ノーランはなぜヒロシマを描かなかったのか 在米ライターが解説
観客のアイデンディティーによって感じ方が異なる作品だからこそ。
クリストファー・ノーラン監督が、“原爆の父”と呼ばれる米理論物理学者J・ロバート・オッペンハイマーについて描いた映画「オッペンハイマー(原題)」。米公開から間を置かずに日本公開されることが多かったノーラン作品の中で、7月21日の全米公開から約1カ月たった記事執筆時点で同作の日本公開は未発表であるものの、すでにさまざまな形で語られています。この記事では異なる視点から語られる「オッペンハイマー」を解説します。
日本公開前にさまざまな議論
原子爆弾というセンシティブな題材であることから、日本ではトレーラー公開時より本編公開を望む声と望まない声がSNS論争に発展。さらに、作品そのものとは別の次元で、同時期に公開された映画「バービー」のプロモーションから派生した炎上により、日米の原爆に対する意識の違いが議論されています。
こうした中、国外では公開から1カ月の時点で、世界興収7.1億ドル、米国興収2.8億ドルをあげ、評価・興行ともにヒット。米国ではさまざまな視点の反応がありますが、特に原爆描写への賛否両論の声を聞くと、同作が見る人のアイデンティティーによって感じ方の異なる作品であることが分かります。
映画「オッペンハイマー」とは?
“原爆の父”と呼ばれる米理論物理学者オッペンハイマーの半生におけるキャリアや道徳観の変遷を描く歴史ドラマ映画。若き物理学者であったオッペンハイマーが、第二次世界大戦中に原爆開発のマンハッタン計画を指揮し、1945年に人類初の核実験を成功させるものの、戦後、さらなる核研究への反対や仲間の裏切りにより、公職を追われるまでの様子が、彼の主観や関係者たちのフラッシュバックを通して重厚に描かれます。
オッペンハイマーをノーラン作品常連のキリアン・マーフィーが演じているほか、ロバート・ダウニーJr.(「アイアンマン」シリーズ)、マット・デイモン(「ボーン」シリーズ)、ラミ・マレック(「ボヘミアン・ラプソディ」)、エミリー・ブラント(「メリー・ポピンズ リターンズ」)、フローレンス・ピュー(「ミッドサマー」)、ジョシュ・ハートネット(「ブラック・ダリア」)ら、そうそうたるキャストが印象的な役どころで魅せています。
ノーラン監督が広島と長崎を“見せなかった”理由
「ダークナイト」トリロジーや「ダンケルク」など、実話でもフィクションでもダークな題材に取り組むことで知られるノーラン監督は「オッペンハイマー」について、米国公共ラジオ放送用のインタビューで、「映画というものがある種、夢の集合体だとしたら、同作は悪夢の集合体のようなもの。私が扱ってきた題材の中で、間違いなく最も暗いものだ」と位置付けています。
この題材にひかれた理由については、「核実験成功時に物理学者たちが感じた歓喜と、それがもたらした恐怖の間の断絶にあった」というノーラン監督。「映画の中心にある大きな変換軸は、(人類初の核実験として1945年7月に米ニューメキシコ州で行われた)トリニティ実験の成功と、広島と長崎への原爆投下、つまり実際の兵器使用の間に存在する」と説明する通り、作中、オッペンハイマーの道徳観や視点がその軸を機に大きく振れる様子が感じられます。
ところが同作は、広島と長崎への原爆投下とその惨状を映し出すことはしていません。原爆の父が題材でありながら、その惨状を映し出すシーンがないことについては、米国でも賛否両論があります。ノーラン監督は“見せなかった”ことについて、米ニューヨークでの試写会後の登壇時、「今の私たちは、当時のオッペンハイマーよりも多くのことを知っている。彼は当時、広島と長崎への原爆投下について、世界の人々と同じようにラジオで聞いて知ったのです」と答え、同作において、オッペンハイマーの主観にこだわるための決断だったことを感じさせました。
広島と長崎を“見せるべき”だったという思い
この決断に疑問を唱える声としては、「日本人や核実験が行われた米ニューメキシコ州の人々の犠牲を表現していないことは重大な失敗」、「広島と長崎への原爆投下を描かないことで、映画が歴史的盲目に甘んじたことになり、それが観客に伝わる危険がある」といったものがあります。
米メディア「メディアバーシティ・レビューズ」のリー・ライ編集長は、同作に日本人や日系アメリカ人、トリニティ実験の被害者であるネイティブアメリカ人の声が欠けていることを指摘し、「全ての映画に全てを網羅する責任があるわけではなく、この映画が今の形を選ぶならそれでいいと思うが、人々に視点のバランスを取ることを考えてほしい」と訴えました。
あえて“見せなかった”ことの意味
“見せなかった”決断に理解を示す声もあります。映画批評家のジャスティン・チャン氏は米ロサンゼルス・タイムズで、「ノーラン監督が日本の地を映さなかったのは、歴史をあいまい化や忘却するためではなく、むしろ歴史をどう表現するかを入念に考え抜き、厳密に実行した結果だろう。映画のために惨劇を再現することで、日本人の苦しみを利用したり矮小(わいしょう)化したりはしないという誠実さの表れではないか」と分析しています。
チャン氏はさらに、新藤兼人監督の「原爆の子」(1952年)や今村昌平監督の「黒い雨」(1989年)、中沢啓治さんの同名漫画を映画化した真崎守監督の1983年のアニメ「はだしのゲン」、木下蓮三・小夜子夫妻の1978年の短編アニメーション「ピカドン」、片渕須直監督の「この世界の片隅に」(2016年)など、実写やアニメーションで原爆の惨劇と影響を描き続けてきた日本の映像作家の作品を紹介。原爆投下に関する日本の作品が豊富にあるなか、主題がオッペンハイマーという人物であるノーラン作品が、原爆体験を表現する責任を負うものではないとの考えも述べています。
映画批評家のグレン・ケニー氏は米メディア「ディサイダー」のエッセイで、「もしノーランがどうにかしてヒロシマを“再現”することを選んでいたら、私たち観客は本当に“何も見ることができなかった”だろう」と語っており、どれほど有能なクリエイターがどれほどリアルな再現映像を作ったとしても、それは現実の代わりにはなり得ないという主張が感じられます。
作中、原爆投下後の惨状について、観客に想像を委ねるシーンはいくつもあります。登場人物同士の会話、歓喜に沸く群衆の姿、不穏な騒音や閃光(せんこう)、そしてなにより、オッペンハイマーの表情と言葉、脳波のようなイメージから、過去に見た恐怖と悲しみの光景が浮かび上がる人もいれば、初めて想像する人もいるでしょう。これらの描写も含めたノーランの選択についてチャン氏は、「究極のところ、ノーラン監督は観客自身が歴史を調べ、考えて感じることを信じているのではないか」とつづっています。
観客のアイデンティティーによって感じ方が異なる
日系アメリカ人の作家・教授であり、原爆に関する資料を集めたオンライン図書館「ヒロシマ・ライブラリー」を運営するブランドン・シモダ氏は、米ロサンゼルス・タイムズで、観客のアイデンティティによって『オッペンハイマー』の受け止め方が異なる可能性を指摘しています。
「特に日系アメリカ人コミュニティーの人々は、この映画の概念を耳にしただけでとてつもない不安感を示し、映画を見ることができるか分からないと感じています。公開前からすでにトラウマを掘り起こしていたことになるのです。一方で、このような感情的・思考的プロセスをたどる必要なく、純粋な娯楽として楽しむことができる観客も多くいるのでしょう」
筆者はロサンゼルスの100席ほどの比較的小さな劇場で鑑賞したのですが、そのときの観客は高齢男性が多く、3時間の上映中、皆が食い入るように画面を見つめているようでした。前述した広島と長崎について観客に想像を委ねるシーンでは、筆者は体中の神経が震える感覚で座席に沈みこみながら、「周りの人々は今、何を想像しているのだろう」と無意識のうちに劇場の空気を探っていたように思います。
エンドクレジットが流れ始めた瞬間、隣の男性が「ウェルダン(見事だ)」と一言。それが、ノーランの映画作りに向けられた言葉なのか、オッペンハイマーの繊細な再現への評価なのか、大きく謳われている爆撃実験シーンの迫力なのか、それとも、戦争や原爆について知り尽くしているからこそのさまざまな描写選択への賛同なのか。同じ米国の観客でも、おのおのの体験や知識、関心によって、見えるものや感じることは大きく異なる気がします。
『オッペンハイマー』という映画と人々の反応は、歴史がいかに、さまざまな国や環境における教育や背景、情報量や感覚によって形作られるものなのかを浮き彫りにしています。いろいろな視点に目を向けながら、おのおのが伝えられることを伝え続けることの大切さを感じる作品だと思います。
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