「バカにされているところから、新しいものは生まれる」 講談社ラノベ文庫編集長・猪熊泰則<前編>:東大ラノベ作家の悲劇――鏡征爾(3/3 ページ)
「鏡さん――『とらドラ!』みたいな小説を書きませんか?」
5 キャラクターを書く上で重要なこと
話を戻そう。
打ち合わせから、三時間以上が経過していた。
外はざんざんぶりの雨だった。
帰り道。雨音を聞いているうちに、自分のうちがわに意識が向いた。
打ち合わせの言葉が、蘇った。
『僕は「とらドラ!」を心の糧にしていたんですよ……』
それは、キャラクターのもつ魅力が、救いをもたらしたということなのではないだろうか。
……だんだん、猪熊編集長のことが、わかってきた気がする。
明晰な頭脳と卓越したセンス。そして、傷ついた心。
猪熊編集長は、マンガ雑誌という日本一過酷な最前線で戦って、戦って、戦い続けてきたのだ。
そして、ライトノベルという戦場を選んだ。
冒頭の言葉を、思いだす。
「僕がラノベの世界にいってもいいなとおもったのは、『とらドラ!』を読んだ時なんです」
当時、編集部のみんなに『とらドラ!』を布教しまくったという、何ともはた迷惑な編集長だったはずなのだが、しかし、そこに文字で人間を描くということの困難さと同時に、可能性を見出したのだと思う。
キャラクターを描く上で、重要な要素は何か。
そんなことを、僕は訊いた。あいまいな問いに反して、流れる水のような答えが返ってきた。
「キャラクターの本音の部分がきちんと書けているかどうかですね。困った女の子を書いているとしても、その裏側の部分が書けているかどうか。例えば『とらドラ!』では、その登場人物の本音の部分、女の人でないと書けない部分が、きちんと書かれている」
「頼む編集長。『とらドラ!』から離れてくれ」
「声に出てますよ」
「これは失礼。でもやっぱり、他の事例も聞きたいんです。『とらドラ!』以外で、具体的な例ってありますか?」
「僕はとんでもないヒロインが好きなんです」
「とんでもないヒロイン?」
「ええ。氷室冴子さんの『海がきこえる』っていう本がありますよね。そのなかにでてくるヒロインの、リカコっていう子が、好きなんです。本当にひどいんですよ。まわりからは馬鹿だ、っていわれるんですけど。この本です」
そう言って猪熊編集長は段ボールに入った『とらドラ!』ボックスから、その本を取り出した(実話)。用意がいいな……。
「このリカコっていうヒロインが凄く魅力的で。どういう話かというと、ある日、美少女がやってくるんです。で、初対面でいきなり、『お金かしてくんない?』って言われるんですよ。すごい性格悪くて、とんでもないやつなんですけど」
僕は、そこで、『僕等がいた』のセカンド・ヒロインを思いだした。
「それ、自分も大好きなやつです。いきなり恥も外聞もなく、まるで世界が自分のものであるかのように、ありえないことを要求してくるっていう」
複雑な思いが、去来した。なんだか、好みが近そうだ……。振り回される系のヒロインに、弱いのだろうか。
「謎に悔しいんですが、お、面白そうですね……。一体、どんな話なんですか?」
「ヒロインが、離婚したお父さんに会いに東京に行こうとするんですよ。そうしたらいきがかり上、お金を貸した主人公の男の子がついてくることになって、東京に一緒に向かう。まあ、そんな感じのストーリーです」
そこでキャラクターが立体的に描かれる、と。
「そう。リカコはふだんは強がっているんです。強がっているんですけど、でも、ふとした瞬間に、弱いところも見せてしまう……」
凄く好きそうな話だ……。
僕は、足元に置かれた段ボール箱を、眺めた。『とらドラ!』の本やDVDが、ギッシリ詰まっている。
どうやら打ち合わせ用の資料としてもってきてくれた『とらドラ!』グッズが、あまりに大量過ぎたために、警備員に怪しまれたらしい。
その物量のもつ未曽有の迫力に、うっかり、洗脳されてしまいそうだ。
僕は、正気に戻るべく首を振って、ウィスパー・猪熊の話に耳を傾けた。
「大事なのは、女の子のいやなところもきちんと書ける、ということだと思うんです。たんに、かわいいだけではすまない。裏側の秘められた部分も、きちんと書ける。いやな女なんだけど、いい! みたいな」
ドMかよ。と思ったが、まったくわかってしまうので、頷くほかない。
そして僕は思い切って、本音をぶつけてみた。
「でも、最近、そういう人物、女の子が立体的に浮かび上がってくるような作品が、年々減っていると思うんです」
氷の鳴る音が、した。グラスがびっしりと汗を掻いている。
「『女の子の裏側』っていうのを、書けなくなっている。詰まるところ、『人間』を書けなくなっている。結局、それは、どれだけの人生経験があるか、ということとつながってくると思うんです。生まれてから死ぬまでで、どれだけの厚みをもって、日々を生きているかどうか。真剣に、生きているかどうか。傷つくことを恐れずに、傷つきながらでも、本気で生きているかどうか」
人と本気で向き合うことを、数年前まで恐れていた自分だからこそ、伝えられた台詞だった。
創作は、その人物のすべてが現れる。精神性と物理的な身体性のすべてが丸裸にされる。
物語やキャラクターは、その端的な表れだ。
どれだけの必死さで真剣に、目の前の人間や仕事と向き合ってきたかどうか。
それが、登場人物に深みを与える。物語のドラマを強固にする。
あらゆる創作者は、自分のココロを捧げて、曝け出して、作品を創る。
それがココロを犠牲にする作業との、違いなのだと思う。
6 今オリジナルラノベで目があるのは、なろう系とシンクロ率が100パーセントでないと思われるラブコメ
猪熊編集長は、ゆっくりと、頷いてくれた。
僕は、率直に、知りたいことを訊ねてみた。
「なぜ僕に『とらドラ!』みたいなラブコメを書いてほしいと言ってくださったのですか?」
(ラノベ王子はセカイ系が好きだと仰っていた気がするので真逆である)
「それは鏡さんには、かわいい女の子を書く才能がある。この人に女の子を可愛く書いてもらいたい――そんな魔が射したからなんです」
魔が射しただけかよ。
「講談社さんは、マンガ、伝統的にラブコメが強いじゃないですか。よりも、小説の方が簡単なんですか?」
「いや、実際は、凄い難しいと思いますよ。小説の方が遥かに難しいと感じています。いや、そもそも漫画でも相当難しい」
それは、実際にマンガとラノベの両方を経験してきた、猪熊編集長ならではの実感なのだろう。
「ラブコメって、一般的には低く見られているかもしれませんが、実際にはかなりの才能を必要とするんです」
月刊少年マガジンに在籍した頃も、ラブコメをラインアップにいれたくても、なかなか才能が出てこなかったのだという。
「まず絵が可愛くないといけないし、そのうえでキャラクターの裏側もキッチリみえなくてはいけない。結局、「単にかわいい」っていうのを、かわいいっていうだけだと深堀出来ないんです。しかも、漫画は可愛いっていうのがパッと見ですぐわかるんですけど、小説の場合は文字だけ、言語情報だけで表現しないといけない。未曽有の難しさだと思いますよ」
「あとは、商業的な理由もあります。今オリジナルラノベで目があるのは、なろう系とシンクロ率が100パーセントでないと思われるラブコメなんです」
「それは、市場を見てわかる実感ですか?」
「ええ。各レーベルのスマッシュ・ヒット的なのを見ているとよくわかります。いわゆる『なろう系』、異世界転生ものなんかとは絡まない、オリジナルの企画ものでみると、明らかにそうですね。後は、個人的な理由もあります。僕はラブコメが見たい。ラブコメが好きだ。ラブコメが読みたくて読みたく仕方がないないんだけど、良質な書き手がでなかった! だから! だから! 鏡さん!! 『とらドラ!』を! 『とらドラ!』を読んで! アニメも全部見て! そして、そして最強のラブコメを書いてほしいんだあああああああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫が、響き渡った。
タイガー・猪熊。
講談社ラノベ文庫の最終兵器。
その背後では、2000万部越えのラノベ王子が叫んでいる。
「そうだ!ポスト・エヴァを創るんだああああ……」
銀河鉄道999のメーテルみたいな帽子をかぶった、
ブギーポップのヴィジュアル系みたいな編集者が、幻影のように通過する。
僕は、異界に迷い込んだような気がする。
だが、そこで、極度の酩酊状態でトリップした時のように、思い当たる。
「もしかすると……」
自分の好きだった作品。
最終兵器彼女やエヴァンゲリヲンに代表されるような作品。
新海誠さんの作品にみられるような、俗に、「セカイ系」と呼ばれる物語。
それと、異性との出会いから始まるボーイ・ミーツ・ガール的な作品。
両者は、矛盾しない。
前者は、物語の問題であって、
後者は、異性のキャラクターを如何に人間らしく描くか、という問題である。
世界を変えるような文学的な作品と、
ラブコメ的なライトノベル。
その二つを組み合わせれば、いいのではないか?
つまりセカイ系的なものと、ラブコメ的なもの。その二つの融合が、いまこそ求められているのではないか?
それこそが、奇跡を起こすたった一つの手段なのではないだろうか?
雷鳴が、轟いた。
窓の外は、土砂降りの雨だった。
そして僕は――あらゆる退路を断つ決意をしたのだ。
仕事を辞め、バイトを辞め、大学を休学し、異性のアドレス帳を片っ端から削除した。
成功する確証はない。本が出る保証すらない。
それでもその確証も保証もないなかで、どれだけ困難と向き合えるか。
それが、人生でたった一つだけ許された、希望なのではないだろうか。
新刊は、2020年12月現在、都内の書店では、品切れが続いている。
僕は10年間で、10000枚以上のボツ原稿を出した。
ボツでなかったのにレーベルごと消えてなくなったり、
信じてはいけない相手に惑わされて、話が立ち消えになったりもした。
憧れていた世界は瓦礫みたいな場所で、絶望して自分を責め続けた。
世界は美しくない。戦う価値なんてあるのか。
何度も思った。心が壊れてしまった時もあった。
編集長とラノベ王子とあってから、実に三年が経過していた。
いまさら小説を読んでくれる確証も、出してくれる保証もなかった。
自分の頭が動くのかも、ベッドから起き上がれるのかも、わからなかった。
それでも震える指で、僕は原稿をタイプし続けた。信じ続けた。
『世界は美しい。戦う価値がある』
そのヘミングウェイの言葉を武器に、そうして心が壊れるギリギリ手前で、この原稿を、完成させた。
作家は、「使い捨て」だ。
夢を夢見る時代は終わった。希望なんて存在しない。
毎年、次々に新人があらわれる。そうして心を壊され、使い潰される。
壁を突き破ろうとしても、突き破ろうとしても、跳ね返される。
闇に慣れた瞳は、光に触れると潰される。潰れた暗闇に投げ出される。
だが、それでも壊れない何かがある。
いつか世界の向こう側の被膜へ到達する、瞬間がある。
傷だらけの魂は、その暗闇に宿る光の美しさを知っている。
作者プロフィール
鏡征爾:小説家。第5回講談社BOX新人賞(『メフィスト』姉妹誌『ファウスト』後継)で大賞を受賞。10度目にして初の受賞として話題になる。それから10年。輝かしい青春のすべてを投げ捨て、壊れる寸前でギリギリ新作を完成させる。
Twitter:@kaga_misa
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