「原爆の父」と呼ばれた理論物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた映画「オッペンハイマー」が現在公開中。重要なトピックのひとつが、クリストファー・ノーラン監督作品であることだ。
その作家性がはっきりと刻印されており、これまでSFおよびフィクションを多く手がけてきたノーラン監督が、史実を描いた映画で「集大成」と呼べる作品を打ち出したことにも感慨深さがある。
その理由を、ノーラン監督の過去4作品との共通点をあげつつ記していこう。なお、本記事では史実に基づく作中の人間関係に触れている他、記事の終盤では警告の後、「オッペンハイマー」本編ラストのネタバレに触れているのでご注意いただきたい。
「メメント」との共通点:「時系列の操作」と「モノクロ」パートを挟む構造
ノーラン監督の長編第2作にして出世作の「メメント」の最大の特徴は、時系列を「逆行して」描くこと。この構造により「10分間しか記憶を保てない主人公の記憶障害」の擬似体験ができた。さらに、過去から現在へと近づいていく「通常の時間の流れ」のパートが間に挟まれており、それは「モノクロ」映像で示されていた。
そのように、映画の構造または物語に「時間」がからむことが、ノーラン監督の作家性のひとつ。今回の「オッペンハイマー」では時系列が前後するうえ、映画冒頭で「1.核分裂」とテロップが表示されるオッペンハイマーの視点のカラーのパートと、「2.核融合」と表示される原子力委員会の委員長ルイス・ストローズの視点のモノクロのパートに分かれていることも大きな特徴だ。
オッペンハイマーは核分裂をエネルギーの起因とする原爆を生み出し、さらにストローズは核融合を起因とする水爆を推進したからこそ、それぞれ「1.核分裂」、「2.核融合」のテロップがつけられているのだろう。
モノクロが用いられたのは、ノーラン監督がまさに「メメント」でのその手法を気に入っていたからだそうだ。映画の大部分でオッペンハイマーの「主観」を描きつつも、彼を恨み対立する立場となるストローズの視点を「客観」として示すためにも、このモノクロは確かな意義があったと思う。
「プレステージ」との共通点:「2者の対立」と「罪」を描く
前述したオッペンハイマーとストローズの対立で連想させるのは、「プレステージ」の主人公2人の関係性だ。
人気マジシャンが脱出トリックの失敗で妻を亡くしてしまい、その原因がライバルにあると考えて復讐を誓う……というのは、水爆の推進に反対しただけでなく、自身を侮辱し(そう思いこみ)、結果として自身の立場を危うくさせたオッペンハイマーへ、個人的な恨みを募らせていた(と分析される)ストローズと重なっている。
さらに、「亡くした誰かの妄執に囚われる」というのはノーラン作品によく登場する主人公像であるし、それに関する「罪(あるいは後述するように贖罪)」を描くのもノーラン監督の作家性だ。
「オッペンハイマー」でも元恋人かつ不倫相手のジーンを失い嘆く姿が描かれた他、映画の冒頭で「プロメテウスは人間に火を与えた。その罰として永劫の苦しみを与えられた」と表示される通り、原爆を生み出した(それ以外の理由でも)オッペンハイマーの苦しみを容赦なく描いた内容といえる。
「ダークナイト」との共通点:「正義(贖罪)」の「欺瞞」を暴く物語
ノーラン監督の名声を不動のものとした「ダークナイト」は、スーパーヒーローおよび人間の「正義」を問う物語だった。中でも象徴的なのは、悪役のジョーカーが仕掛ける「2隻のフェリー」のゲームだ。
それは、一方には一般市民、もう一方のフェリーには刑務所の囚人を乗せたフェリーそれぞれに爆弾を仕掛け、「このままだと2隻とも爆破するが、タイムリミット前に起爆装置で相手の船を爆破したら、お前たちの船は助けてやる」と宣言するという、究極の選択をそれぞれに強いるというものだった。この「実験」でジョーカーが暴こうとしたのは、「自分たちが助かるのであれば他の誰かを犠牲にしてもいい」という自己中心的な「正義」の「欺瞞」だろう。
もちろん状況そのものはまったく異なるが、「オッペンハイマー」において「ナチス・ドイツより先に原爆を生み出す必要性」にかられ、「戦争を終わらせる大義名分」もあってマンハッタン計画を進めるオッペンハイマーもまた、己の「正義」を信じていたといっていいだろう。
もちろん、原爆は広島と長崎に落とされ、そのことでオッペンハイマーは苦悩するわけだが、この映画では「表面的な贖罪への欺瞞」をはっきりと描く。
ストローズは終盤で彼を「偽りの罪悪感という王冠をかぶっている」と非難しているし、妻のキティからの「(元恋人のジーンとの浮気とその死に対し)罪を犯しておいて、同情までしてもらうつもり?」「(スパイ容疑がかけられた末に機密保持許可を失ったことに対し)聴聞会で罰せられれば、世界に許されるとでも?」というセリフも、その象徴だろう。
また、映画ではオッペンハイマーが「許されるかどうか」という単純なジャッジから外されてしまう様子を描いているともいえる。オッペンハイマーはトルーマン大統領との面会シーンで「手が血で汚れているように感じます」と告げると、「恨まれるのは原爆を作った者ではなく、原爆を落とした私だよ」と返されてしまっていたが、それに呼応するかのように、原爆を作ったことに対する罪には問われず、作中ではスパイ容疑および水爆をめぐってのストローズとの対立という、別の政治的な争いに時間を割いていくことになる。
生み出した原爆についてまったくコントロールできなかったうえに、それに対して「表向きは罰せられることもなかった」ことにも、オッペンハイマーは苦悩していた。それこそが、彼にとっての最大の罰ともいえるだろう。
※以下からは映画「オッペンハイマー」のラストのセリフへの言及があります。本編を見てから読むことをおすすめします。
「TENET テネット」との共通点:世界を飲み込む「連鎖反応」の恐怖を示す
「TENET テネット」の劇中では、まさにオッペンハイマーおよびマンハッタン計画について言及する場面がある。「世界初の原爆実験でオッペンハイマー博士は、核分裂の連鎖反応が世界を飲み込むことを恐れた」と語られているのだ。
事実、ノーラン監督は「世界滅亡の危機を感じながらも、その一歩を踏み出してしまったオッペンハイマーの物語になぞらえて、SFのコンセプトを説明するためにこのセリフを使った」などとも語っている。
そんな「TENET テネット」で主人公が課せられたミッションは、まさに世界の滅亡につながる第3次世界大戦を止めること。そのために「時間が逆行する世界」の扉をくぐるSFアクション映画となっていたが、それと同時に「覆水盆に返らず」な「不可逆」の事象を突きつける物語でもあった。
そして、「オッペンハイマー」のラストで、アルバート・アインシュタインに「世界を破壊する核の連鎖反応を開始させるかもしれないと心配されていましたよね」と質問したオッペンハイマーは、さらに「I believe we did(その通りのことをしました)」と言い、映画は幕を閉じる。
このラストの字幕は「世界を破壊した」となっているが、原語の「I believe we did」を鑑みれば、これは前のセリフ「(核の)連鎖反応」にもかかっている。オッペンハイマーは核により世界が滅亡に導かれる「その先」を心配していたのももちろんだが、やはり自身が原爆を誕生させ、結果として、さらに強い水爆が作られるという連鎖反応そのものも恐れていたといっていい。
さらに、「ダークナイト」でのジョーカーのセリフには「小さな無秩序で体制をひっくり返す、すると世の中は大混乱に陥る」というものもあった。やはり、ノーラン監督は、大きな(破滅的な)事象の前に何かの「起因」があることを示す作家でもあるのだろう。
そして、「オッペンハイマー」という映画の中でも、そして現実の世界でも、核の脅威下にある世界へと変わってしまった事実がある。
これまで(史実を描いた「ダンケルク」もあるが)SFおよびフィクションで、映画の構造または物語に時間をからませて「連鎖反応」と「不可逆」の残酷性を容赦なく突きつけてきたノーラン監督が、ついに「現実の歴史」で、それを示した。それが彼の集大成だといえる、最大の理由だ。
(ヒナタカ)
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