「オールナイトニッポン」のテーマ曲が「Bitter Sweet Samba」になるまで 

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 黒木瞳がパーソナリティを務めるニッポン放送「あさナビ」にフジパシフィックミュージック会長の朝妻一郎が出演。オールナイトニッポンのテーマ曲が「Bitter Sweet Samba」になるまでの経緯について語った。

ハーブ・アルバートとティファナ・ブラスの「ビタースィート・サンバ」 撮影協力:鈴木啓之
ハーブ・アルバートとティファナ・ブラスの「ビタースィート・サンバ」 撮影協力:鈴木啓之

 黒木瞳が、さまざまなジャンルの“プロフェッショナル”に朝の活力になる話を訊く「あさナビ」。ゲストはフジパシフィックミュージック会長の朝妻一郎。2日目は、オールナイトニッポンのテーマ曲が「Bitter Sweet Samba」になった経緯について—

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「Bitter Sweet Samba」になった経緯

黒木)ニッポン放送で「オールナイトニッポン」が始まったのは1967年ということですが、いまもテーマ曲として流れている「Bitter Sweet Samba」も朝妻さんが持っていらしたアルバムのなかの1曲だったのですよね。

朝妻)番組のチーフプロデューサーだった高崎さんから「オールナイトニッポンという番組が始まるから、テーマ曲を探してくれ」と言われて、テーマ曲になるのであれば、毎日かかるのでヒット曲になるだろうから、うちが権利を持っている曲を使いたいと思って、いろいろ探したのですけれども、なかなかいい曲がないのです。

黒木)音楽出版の権利をお持ちになっている楽曲のなかに。

朝妻)ジャック・ジョーンズという男性歌手が歌っていた「あめんぼうとバラ」という曲がありました。ハーブ・アルパートとティファナ・ブラスが、食べ物がタイトルについた曲だけを集めたアルバムのなかにその曲を入れていたのです。「これだ!」と思って高崎さんに「高崎さん、これはどうですか」と言ったら、高崎さんが聴いて、「悪くないけれど、他にもっとないのか」と言うので、そのアルバムの他の曲を聴いたら、「Bitter Sweet Samba」があったのです。「この曲がテーマにぴったりだ」と言うことで選ばれました。

ラジオのパーソナリティー・高崎一郎  撮影日:1971年05月11日 写真提供:産経新聞社
ラジオのパーソナリティー・高崎一郎  撮影日:1971年05月11日 写真提供:産経新聞社

黒木)音楽出版にスカウトされたときにお読みになった本があるのですよね。そのお話をお聞きしてもいいですか?

朝妻)「音楽出版社に来ないか」と高崎さんに言われたのですが、音楽出版社がどういうことをするのかということは何もわからなかったのです。当時、ポール・アンカの音楽出版社が「スパンカ・ミュージック」という名前であるとか、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンという人気作家チームがいるのですけれども、彼らやニール・セダカが「アルドン・ミュージック」という音楽出版社にいるということなどは知っていたのですが、音楽出版社の仕事は何なのかということは知りませんでした。

黒木)音楽出版社が何をするところなのかということは。

朝妻)音楽の仕事というので、誘われたときに一も二もなく「入ります」と言いたかったのですけれども、それではあまりに無責任だというので、音楽出版というのはどういうビジネスなのか勉強しようと思って、ウィリアム・クラジオスキーという弁護士が書いた『This Business of MUSIC』という本を読みました。

黒木)なるほど。

朝妻)この本はレコードや音楽出版、アーティストマネジメントなど、音楽ビジネス全般にわたって書かれた本なのです。その音楽出版のセクションを読んで、「これは要するにヒット曲を探せばいいのだな」と思ったのです。ヒット曲を探すのであれば、できるだろうなと思い、高崎さんに「わかりました。会社に入らせていただきます」と返事をしました。

黒木)ヒット曲を探すというのは難しくないですか?

朝妻)高崎さんの下でアルバイトをしているときに、アメリカに「ビルボード」という業界誌があって、そのチャートに1~100位までヒット曲のランクが出るのですけれども、そのランクに載った新曲が毎週、ニッポン放送のレコード室に送られてきていたのです。それらを聴いていました。

黒木)送られてきたものを。

朝妻)毎週、新しいヒット曲を数多く聴いていると、「この曲はアメリカでは当たったけれども、日本では当たらなかった」、「これはアメリカではたいしたことはないけれど、日本のマーケットでは絶対に当たる」というようなことがわかってくるのです。

黒木)音楽は子どものころからずっと聴いていらして、洋楽の方がお好きだったということですが。

朝妻)ほとんどラジオでしたけれども、ニッポン放送では「ミラクルリズム」、TBSでは「L盤アワー」という番組がありました。あとはFENという駐留軍放送があって、そこでアメリカのヒット曲の“TOP20”を聴いていました。

黒木)音楽が大好きでいらっしゃったのですね。

朝妻)ラジオとジュークボックスから新しい音楽の情報を手に入れていました。

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プロフィール

朝妻一郎(あさつま・いちろう)/ フジパシフィックミュージック会長
■昭和18年 東京生まれ。
■昭和41年 株式会社パシフィック音楽出版に入社。
■昭和55年 常務取締役 就任。
■昭和60年 代表取締役 就任。
■昭和60年 合併により、「株式会社フジパシフィック音楽出版」と改称。代表取締役社長に就任。
■平成17年 代表取締役会長 就任。
■平成27年 株式会社フジパシフィックミュージックと改称。
■パシフィック音楽出版時代より、ザ・フォーク・クルセダーズの「帰って来たヨッパライ」、モコ・ビーバー・オリーブの「海の底でうたう唄」、加藤和彦・北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」をはじめ、山下達郎、大滝詠一、サザンオールスターズ、オフコースなど多くのアーティストのヒットづくりに携わる。
■2022年2月28日に著書『高鳴る心の歌 ヒット曲の伴走者として』(アルテスパブリッシング)を発売。

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