元漫才師が振り返る少年時代 「M-1」を見て感じた怖さと、“クラスの人気者”になって失ったもの
幼いころから、お笑いが大好きだった。
テレビでもゲームでも何時間でも自由にさせてくれた母親のおかげで、僕と4歳上の姉はいつもお笑い番組を見て、暇さえあればゲームをしていた。思えば何かを好きになるきっかけは大体、姉の影響だったと思う。
まだ漫才というものの存在すらよく分かっていなかった小学生のときから、友達から「面白い」と言われることに快感を覚えるようになっていた。テレビで見た面白いものを自分なりにアレンジしていただけでオリジナリティはほぼゼロだったが、それなりに人気者だったと思う。
そんなどこにでもいるお調子者の全然面白くない小学生だった僕のお笑い観は、小学3年生の転校をきっかけに大きく変わる。
著者:ヤマグチクエスト(Twitter)
笑いを忘れたゲーム好き芸人。中でもRPGやシナリオの思い入れが強く、「伏線」「考察」と聞いただけでよだれが出る。あと野球も死ぬほど好き。一番好きなゲームは「ポケットモンスター」シリーズ。
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クラスメイトの「お笑いレベル」の低さに絶望した
3年生での転校ということもあり、すでに関係性が出来上がっている中で輪に入らなくてはならなかったので、僕はクラスメイトのみんなの様子をなんとなく見ていた。すると、ある事に気が付いた。3年生にもなっていまだに「うんこ、ちんちん」で笑っていたのだ。
衝撃的だった。いや、もしかしたらそれが普通なのかもしれない。
しかし、テレビの面白い人たちは誰一人として「うんこ、ちんちん」で笑いを取っていなかったし、家でそんなことを言ってもウケなかった。僕はそれが面白いものではなく「ただ汚いもの」だと思っていた。ずっと。
だから、転校前の学校で1度も下ネタを言ったことはなかったし、当然友達にもそうした笑いを取る子はいなかったように思う。「せめて幼稚園までだろ……」と“お笑い好きで面白い僕”はクラスメイトたちの「お笑いレベル」の低さに絶望した。本当に生意気だが、こんなもんか、と思ってしまった。
そこで僕は、いかに自分のお笑いレベルが高いかを見せつけるために、「人と違うことを言う」ことを心がけた。
その結果、たどり着いたのが「ツッコミ」だった。
東京の小学生でツッコミができる子はきっと少ない。少なくとも、僕の学校では僕1人しかツッコミは存在しなかった。例えば、友達がボケたりふざけたりしていると、「えーちがうよ、こうだよ」といってそれぞれが自分のボケを返し続けるという地獄のループが始まる。「いやそもそも全員ちげえよ」とツッコんでも、「なんかあいつ怒ってる」と思われることも多かった。
ただ、市川君というお笑い好きの男の子だけは笑ってくれていた。
卒業するころには、「ツッコミ」という存在すら知らなかったみんなにツッコミうまいと褒めてもらえるようになったのは間違いなく市川君のおかげだと思う。市川君はお笑いとマンガが好きだが人前に出るのを好まない控え目な性格だった。それでも、クラスの明るい中心人物の「お笑い偏差値」の低さには気づいているようだった。
市川君は、僕と同じようにクラスメイトを自然と見下していたように思う。だから市川君は僕がいる前だけでしかボケなかった。
「ああ、俺はやっぱり面白いんだ」
市川君と僕は、学校のクラブ活動で「マンガ・工作クラブ」に入っていた。僕はソフトボール部に入りたいなと思っていたのだが、市川君が「2人でギャグマンガ書いたら面白そうじゃない?」と誘ってくれたのがうれしかったし、なにより「笑いを創る」ということをやってみたいという気持ちが、下投げのでかい球を打つという行為をしたい気持ちを上回った。
クラスで僕らしか入っていないとても人気のないクラブだったが、僕と市川君はそんなこともお構いなしに、工作になど目もくれず、競い合うようにギャグマンガを描きまくった。
市川君は絵がうまく、また「ゴジラ」シリーズが大好きなこともあり、かわいらしいゴジラが主人公のギャグマンガを描いていた。最終的にはゴジラが間違えて火を噴いてしまって台無しになっちゃう、というオチになることが多かったが、それでも毎週楽しみにしていた。
一方、画力がない僕は「AくんBくん」という2人の棒人間の4コマ漫画を描いていた。4コマ漫画はいわば「ショートコント」だ。テーマ・題材を決めて、振って、落とす。
この時の経験がのちのネタ作りにとても重宝したので、もし将来お笑いをやってみたいと思っている中高生の子がいるのであれば、漫才・コントのコピーをするより、自力で4コマ漫画を描くところから始めると良いかもしれない。
マンガであれば自身の画力や構図なども含めたテーマ選びになるし、思い描いた「おもしろさ」になるまで何度も書き直したりできる。しかし、漫才やコントを作っても「おもしろさ」が可視化されないので、仮にネタが完成したとしても「実力のなさ」が分かりづらい。できていると思ってしまうのだ。
市川君は僕の4コマ漫画を「世界一面白いけど絵が下手」といって笑ってくれていた。自分がどんな4コマ漫画を描いていたのか全然覚えていないが、少なくともオチは必ずツッコミで終わらせていたように思う。
毎週クラブ活動が終わり、先生が僕らのマンガを読んで笑ってくれたのもとてもうれしかった。小学生が描いたものが面白い内容だとは到底思えないが、先生がいつも笑ってくれたことで「ああ、俺はやっぱり面白いんだ」と実感できた。
先生は毎週、僕たちのマンガを廊下に貼りだしてくれた。下級生も上級生も通る廊下に貼り出されるのは少しドキドキしたが、同級生には堂々と自慢した。さすがに好きな子が自分のマンガを読んでいるのを見つけたときは声を掛けられず、思わず教室に隠れてしまったが、笑い声が聞こえてガッツポーズした。
そんなことがきっかけで「いつも怒ってばかり」と思われていた僕が「結構面白いヤツ」だと思われるようになり、いつしか「人気者」になっていった。
クラスの人気者になってから
同学年のほかのクラスの子ですら、休み時間に僕の元にきて話に来るほどだった。
中心人物たちからも一目置かれていて、僕のことはバカにしなかったし、なんだったら友達になろうとしてきている感もあった。しかし、あまり取り合わなかった。グループで群れを成しているのがすごいイヤだったし、彼らはスポーツばかりで僕が好きなゲームも好きじゃなかったので、仲良くなれる気がしなかった。
そのころから、あんなに仲が良かった市川君とはクラブ以外で絡むことも少なくなり、気が付けば教室で話すこともなくなっていった。喧嘩したわけでもないし、嫌いになったわけでもないので、普通に話そうと思えば話せたとは思うが、話さなかった。
というより、市川君が僕と距離を取るようになった気がして、話せなかった。
女子の取り留めない話にツッコミまくり、給食の時間になれば班の子たちが牛乳を飲むのをためらうほどしゃべりまくり始めた僕に違和感をもったのかもしれない。「俺だけが知っている面白い山ちゃん」でなくなったことが悲しかったのかもしれない。
しかし、当時の僕は気づくはずもなく、中心人物たちが逆に気を遣うレベルで人気者の道を進んでいた。
M-1グランプリが始まってから
そんなある日、「M-1グランプリ」が始まった。さすがにこのころには漫才というものを知ってはいたが、まだ興味は持っていなかったため「新しいお笑い番組か」くらいの気持ちで見ていた。
だが、そんなのんきな気持ちを吹き飛ばす衝撃的な内容だった。
とても恐いのだ。
小学生ながらに笑ってはいけないような緊張感というか、いつものお笑い番組ではないように感じた。芸人さんが点数を付けられ、順位を決められていく。いつもなら笑っていたであろうネタすらも笑えなかった。
しかし、「なんだこれは」という恐怖心と同時にどこかで「僕のツッコミだったら何点もらえるんだろうか」と思っている自分がいた。
「自分が創る笑いでこうやって評価されたい」そんな思いが初めて芽生えた。
僕の夢が「漫才師」になったその日から、相方を探す日々が始まった。第一候補は間違いなく市川君だったが、その頃にはもう壁を作られている気がしていたので声を掛けられなかった。
市川君も絶対にM-1を見ていたはずだし、M-1の話もしたかった。でも、できなかった。小学校時代、唯一の心残りはあの時、市川君に声を掛けられなかったことだと思う。
結局、僕は相方にしたいと思えるような友達とは出会えず、小学校を卒業した。中学受験をして、私立の学校に入ることが決まっていた僕は「中学で絶対に相方を見つけてやる」という気持ちでいっぱいだった。
転入してすぐにお笑いで1番になれた僕なら絶対に面白いヤツがいっぱい友達になってくれるだろうと思っていた。
しかし、そんな淡い期待は早々に打ち砕かれた。(続く)