「ベーマガ」ライターから漫画編集へ “響あきら”がMMRイケダ隊員になったわけ(MMRインタビュー番外編)
MMRインタビューの最後は、イケダ隊員のもう1つの顔、「ベーマガ」ライター“響あきら”さんにお話をうかがいました。
前編、後編と「MMR マガジンミステリー調査班」のタナカ隊員、イケダ隊員、トマル隊員にインタビューしてきましたが、最後に番外編として、イケダ隊員にもう1つの顔である“響あきら”さんとしてお話をうかがいました。
イケダ隊員はもともと、「マイコンBASICマガジン(ベーマガ)」や「ファミコン必勝本」などを中心に活躍したゲームライター“響あきら”としても有名。先日大いに話題になった、電ファミニコゲーマーのインタビュー記事「『ゼビウス』がなければ『ポケモン』は生まれなかった!?」の中でも、遠藤雅伸さん、田尻智さんがイケダ隊員にちらりと触れている場面がありました。
遠藤氏:(略)田尻くんはゲームフリークを作ったし、『カスタムロボ』の株式会社ノイズを作ったやつもいたし、『ネクタリス』を開発したマトリックスの社長もいたし、あと講談社に行った池田ってやつもいたな。あの、『MMR マガジンミステリー調査班』という漫画に、若手で池田という編集部員がいたじゃないですか。彼ですよ。田尻氏:いました、いました。池田さんは、面白い人だったなあ。
イケダ隊員がどのようにしてゲームの世界へと足を踏み入れ、そしてなぜ漫画編集の道へと進むことになったのか。当時の貴重なお話を語っていただきました。
ベーマガ編集部に行ったその日にライターデビュー
―― 「MMR」からは少し脱線してしまうのですが、せっかくなのでイケダさんに元「ベーマガ」のゲームライター・響あきらさんとして話をうかがえればと。最初にゲーム出版に関わったのがベーマガだったんですか?
イケダ 実はその前に、高校3年生のときに「AMライフ(アミューズメントライフ)」(※1)を手伝ってました。ベーマガで仕事しはじめたのは、当時付録の「スーパーソフトマガジン」(アーケードゲームを専門に扱った別冊子)で大堀(康祐)くん(※2)が「マッピー」や「ゼビウス」の記事を書いていたのを読んで、自分が作りたい理想の雑誌にとても近いなと思ったのがきっかけです。それで自分も記事を書きたいと手紙を送ったんですね。実はベーマガだけじゃなく「月刊アスキー」と「I/O」(いずれも当時はマイコン雑誌)にも送ったんです。どちらもアポイント取らないで行ったのかな、それで門前払いされちゃって。でも、ベーマガだけが「一度やってみないか?」と呼んでくれて、行ったその日に「記事を書いてみないか」と。
―― 最初に書いた記事は何だったんですか?
イケダ 「ちゃっくんぽっぷ」(タイトー)のスーパーハートが出る法則の記事だったかな。そこから、ゲームライターとしてスタートしてるんです。
―― ちなみに響あきらというペンネームは「勇者ライディーン」の主人公・ひびき洸から?
イケダ そうです、完全に。「ライディーン」もムー帝国の話で超常現象のノリじゃないですか。当時のオカルトブームに乗っかって、ロボットも古代遺跡から発掘された兵器で。もともとあっちがわの話が好きだったので、ペンネームもそれを元にしたんですね。恥ずかしいんですけど。
―― 「MMR」メンバーになるべくしてなったんですね。
イケダ 先ほど、編集部に行ったその日に記事を書いたと話しましたが、実はそのとき、本当に偶然なんですけど、鈴木宏治(見城こうじ)くん(※3)が手塚一郎くん(※4)と一緒に編集部に呼ばれていて。鈴木宏治くんって、実は同じ高校の同級生なんですよ。いつも2人で遊んでいたんですが、ベーマガに応募することは話してなかったんです。それでたまたま同じ日に呼ばれて、編集部で会ったという。あの当時、ゲームライターの世界はすごく狭くて、記事を書きたいという人はとても少なかったと思います。しかもゲーセンのアーケードゲームなんて、今だったらマンホールの写真を趣味にしてるとか、それくらい狭い界隈(かいわい)だったんですよ。
―― 既にアーケードゲームは巨大な市場になってましたが、オペレーター向けの業界誌しかなかったですよね。
イケダ コミュニティはできつつあったんだけど、それが本屋で買えるメディアに載る時代ではなかったです。ちょうどゲームフリーク(※5)があって、おのおののアーケードゲームファンがサークルを作っていたけど、雑誌やテレビには取り上げられなかった。それを最初に、大規模にやったのが多分ベーマガなんですね。
子ども向けじゃないゲーム雑誌を目指した「ファミコン必勝本」
―― ファミコンが出た翌年のことで、まだ全国的なゲームカルチャー雑誌があまりなかったですよね。
イケダ ゲーセンに行くと知った面子がいて、「おう」とあいさつするぐらいで。だから遠藤(雅伸)さんが来ると、プレイヤーのみんなは顔見知りだと。僕も田尻さんとはゲーセンではよく会っていたんですが、初めはそれほど仲良くなかったんです。
―― 仲良くなったきっかけは?
イケダ 「ファミコン必勝本」のころですね。平林(久和)さん(※6)が田尻くんを引っ張ってきて、一緒に仕事するようになって。夜は机を並べて原稿を書いたり、よくゲーム論議をしてましたね。
―― イケダさんは「ファミコン必勝本」の立ち上げの一員だったそうですね。
イケダ そう大げさなものじゃなくて、創刊当時からのいちライターだったんです。ただ、僕はアーケードゲーム派だったんですよ。当時の空気を知らないと分かりづらいんですが。
―― 新興勢力だったファミコン派と、先行していたアーケード派の対立があったわけですね。
イケダ 少し言い方は悪いけど、アーケードゲームこそ最上の存在で、ファミコンは子どものものという感覚があったんです。僕も当時中二病を発症していましたから、ファミコンの方では仕事したくないと思ってたんですよ。けれど、当時カプコンの開発に出入りして、岡本吉起さん(※7)といろんな仕事をしていたとき、「ファミコン必勝本」というものを知り合いの編集者が作るらしいと。そちらを手伝ってあげたらどうかと岡本さんから言われたので、まぁ仕方ないかなと参加して。そこで知り合ったのが平林さんだったんです。
―― アーケード愛を持ちながら、ファミコン雑誌に関わったという。
イケダ 既に「ファミリーコンピュータMagazine(ファミマガ)」が先行していて、「コロコロコミック」もあったし、子ども向けのゲーム記事はあったんですね。そうじゃないものを作りたいと、当時の編集長に言ったんです。ただ、はじめは(編集長も)抵抗があったんですね。やはり子ども向けに作ってほしいと。1回目のアンケートも漫画が1位だったし、ビジネス的にはそちらが正しかったんでしょう。でも何回かやっていくうちに、平林さんに「そういうのも面白いじゃないか」と言ってもらえて、だんだんサブカル側に傾いていったんです。
―― 後に「HiPPON SUPER!」にリニューアルされた後はサブカルの印象が強かったんですが、原点はそこなんですね。
イケダ 自分もそういう記事を作っていたんですが、大学4年になると忙しくなっちゃって、「ファミコン必勝本」の編集部があったJICC出版(現宝島社)は四谷にあって、そこで徹夜仕事をして、そのまま車で大学に行ってたんです。それで居眠り運転で中央線を何回か越えて、これはヤバいと。大学に集中するしかないということで、平林さんに紹介したのが、ベーマガのTOMMYことベニー松山(※8)なんですよ。
―― 「小説ウィザードリィ 隣り合わせの灰と青春」のベニーさんですね。
イケダ 彼はすごく文章もうまいからと紹介した後に、平林さんとTOMMYで「ウィザードリィ」の小説本を作ったという。僕はベーマガの編集者から「他の雑誌であんまり仕事しないでね」とお願いされていたので、TOMMYを紹介するときも、同じペンネームじゃまずいということで、その場で考えたのがベニー松山だったらしいです。「プロゴルファー猿」の紅蜂から付けたと言っていました。
―― 次々とゲームメディアの有名人がつながっていきますね。
イケダ その後、僕が留学することになって、本格的に人手が足りないので、手塚一郎くんや山下章さん(※9)も紹介させてもらって。そうやって身内で動いてたので、当時はみんなが顔見知りな感じでした。本当に業界が狭かったですね。
―― その後のゲーム業界やゲーム出版のキーマンになる人たちばかりですね。
イケダ 当時は「週刊少年ジャンプ」にジャンプ放送局があったじゃないですか。そこにいたのが堀井(雄二)さんとさくまさあきらさんと榎本一夫さん(※10、11、12)で、そこに「ファミコン必勝本」でも手伝ってもらった(編集プロダクションの)キャラメル・ママが入ってまして。キャラメル・ママの松本(常男)さんって「ドラゴンボール」の亀仙人のモデルの方ですよ。そこで、ジャンプともなんとなく交流はありましたね。
―― 出版社を超えて自由に行き来してたんですね。
イケダ ゲームの記事は出版社の社内では詳しい人がとても少なかったし、ライターもしくは編集プロダクションに外注してたんですね。ソフトバンクの「Beep!」という雑誌があって、そこにいるライターも混ざっていて。「ファミコン必勝本」以前には、角川系の「マル勝ファミコン」や「コンプティーク」に参加していたベーマガライターも多かったです。
―― そういえば、山下章さんも「コンプティーク」に記事を書かれてましたね。
イケダ そうやってライターの人の動きを見ると、読み取れることが結構あるんです。なんでこんな企画がこの雑誌で始まってるのかというと、このライターがここから参加したからという。「ファミコン必勝本」は当時“4大RPG”を推していましたが、既にドラクエとファイナルファンタジーがあったところに「ウィザードリィ」をくっつけたのはベニー松山がいたから。あと「女神転生」をつけたのは成澤大輔(※13)がいたから。彼らがゲームとの強いつながりを持っていて、それを編集者が認めてOKを出すという流れがありましたね。
―― ライターがやりたいものをやれるという。
イケダ それが面白いなら、そっちに行こうという雰囲気は強かったですね。
講談社と仕事したことがなかったから入社
―― そこまでゲーム雑誌に深く関わったイケダさんが、なぜ講談社で「週刊少年マガジン」に入られたんですか?
イケダ 当時、僕は日本で就職するつもりが全然なくて、アメリカで就職することを決めて留学したんですよ。そのころ、講談社がアメリカでリクルートをやってた時期がありまして。色んな日系企業も就職説明会を現地でやっていて、ボストンまでの往復費用が出る代わりに、何社か面接を受けないといけないというものでした。まぁ、バブルの時代ですよね。僕は当時ミシガン州にいたんだけど、ボストン見学もできるしと、何社かを受けたんです。でも講談社を受けるつもりはなくて。
―― なぜ気が変わったんですか?
イケダ 僕はゲームライター時代に小学館とも集英社でも仕事しましたけど、講談社とはなかったんです。それで「この会社にはどんな人がいるんだろう」と思って面接を受けに行ってみた。それが縁で入っちゃったんですよ。
―― 完全にライター視点ですよね。もしも日本にいたとき講談社と仕事をしてたら、マガジンにも入ってなかったと。
イケダ そうですね、当時の講談社はゲーム関係に強くなかったですから。
―― そんな経緯にしては、長くおられますよね。
イケダ 別にすぐ辞めてもいいなと適当な感じで入ったんですが、あまりにも漫画の仕事が面白すぎたんですね。でも、今でもゲームはやってますよ。アーケードはなかなかやれていないですが、携帯機で「モンハン」もやってますし、PS4でFPS系も楽しんでます。
―― また響あきらさんの記事が読みたいです! 本日はありがとうございました。
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