「世界を肯定してあげてほしいんです」 講談社ラノベ文庫編集長・猪熊泰則<後編>:東大ラノベ作家の悲劇――鏡征爾(3/3 ページ)
6 人間になりたい
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の本予告映像をみたとき、なぜか、涙が止まらなかった。その涙の理由を、自分でもまだわからないでいる。
宇多田ヒカルさんの歌声は、残酷なこの世界を、かろやかに肯定しているかのようだった。
日々、使い尽くされ続けるわれわれの肉体と、魂。
出会った瞬間から、失うことが義務づけられた魂の絆。
そんな不協和音じみた絆さえも、美しいものだと肯定しているかのように見えた。くしくも、十年ぶりの新作となった、『雪の名前はカレンシリーズ』の主題とも一致していた。だからだろうか?
超越的な何かを求め続けて、その果てにたどり着いた作品と同種の魂のようなものを、感じたのは。
『世界は美しい。戦う価値がある』
そんな冒頭から始まる小説を書き上げることができたのは、自分にチャンスを与えてくれた、猪熊編集長とラノベ王子の存在が大きい。
そして、ずっと言えなかったけれど、ここまでくる原動力をくれたのは、こんな人間の底辺のような場所にいた僕に賞をくれた太田克史氏、そして、氏の最初につくられた本である、肉体の失われてしまった、ゲーム・クリエイターの存在が大きい。
薄暗い室内で、すべてを書き終えた今、
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の映像を眺めながら、考える。
意味不明だし、畸形的な想像力だ。
だが、完璧に胸をとらえて放さない。
自由でいい。
難解でも、わかりにくくても、意志を感じるものに惹かれる。
それは、僕に、かつて、飯野賢治が伝えてくれた言葉だった。
だが、その彼も、もういない。肉体は滅んだ。
だが、その魂は、まだ僕のなかで生きている。
失われていくものがある。
だが、それを忘れたくないという気持ちがある。
忘れたくないと思うものはいつだって美しく焦がれた記憶で、それは信じ続けた果てにようやく得られる、一瞬の幻影のような出来事だ。
それでもその幻影は、影ではなく光なのだ。きっと。
「世界を肯定してあげてほしいんです」
猪熊泰則氏の言葉は、そうした経験の上に成り立っているのだろう。「光を描くためには、影の部分がなくてはならない」そう言った編集長は、そのことを誰よりも知っているのだろう。
私たちの肉体は、いつか跡形もなく消えてなくなる。
では、私たちは何のために出会い、別れ、失い続けるのだろう。
「自由でいい」
その言葉は、飯野賢治の――そしてそれを伝えてくれた太田克史という編集者の、言葉でもある。
飯野賢治。
42歳の若さで夭折した、天才のゲーム・クリエイター。
十年前。彼から送られたメッセージを、思い出したのである。
『いつまでも新人であり続けてくれ』
『匂うような個性と可能性を感じた』
『太田克史、或いは一部の小説界が、必死の思いで創り上げた、ある種の領域、枠組みみたいなものを一瞬にしてぶち破って飛び出した、その異形さを保ち続けてほしいと心から思う』
『集団下校なんて必要ない。あなたはあなたであってほしい』
『次回作では、可能な限り、あなたで埋め尽くしてほしい』
何度も、これまで思い出してきたのである。
そのたびに、理想と現実のはざまの深さに、絶望してきたのだ。――強まり始めた雨のなか、傘も差さずに護国寺から池袋まで歩きながら、考える。
(自分は、一体何をやっているんだろう?)
包み隠さずにいえば、そんな風に、思っていた時期があった。死んでしまえたらどんなにラクかと、思った時期もあった。
十年前。初の大賞を受賞し、期待されてデビューした。だが、僕は結果を出せなかった。結果を出せないどころか、理性と精神のバランスを崩し、書けなくなってしまった。
情けない。
合わせる顔がない。
そう思っているうちに、大切な人はいなくなってしまった。
雨音が、大きくなった。
履き潰した革靴の隙間から、水が入ってくる。
シャリ。パシャリ。と、思考の後を追うように、遅れて自分の足音がついてくる。
――そして雨音の向こうに、神社が見えた。
護国寺から歩いて、当時住んでいた自宅の近くにある、雑司ヶ谷の鬼子母神だ。
都会の喧噪を離れて、孤独にならぶ赤い鳥居が気に入っていた。
そこに、一人の少女が倒れていた。
無論、幻覚である。
だが、僕には、たしかにそれが、はっきりと見えた。
「人間に……なりたイ」
少女は、声を発しているように、思えた。
自分のなかの壊れかけた何かが、そうさせているのだ。
それは、自分の青春の死骸だった。
まだ少女は生きているようにも、死んでいるようにも見えた。
毎日、毎日、やりたくもない奴隷労働で「使い捨て」にされる。
それは、本当に「人間」といえるのだろうか?
無論、すべては心象風景の出来事である。
だが、その時、僕にははっきりと見えたのだ。
巨大なガラクタのように年月を積み重ねて、それでも圧倒的な物量をともなって迫ってくる、まるで自分の創作人生のような、人々から忘れ去られた神社と、その中心。雨の向こうに、かすかにみえる祭殿。
「人間になりたい」と、新作のなかで少女は言う。
少女整備士の少年は、その願いとは反対に、どんどん人間らしさを失っていく少女を、間近で手記に書き留めながら、彼女の最後を見届ける。
そして、自分の役割を――大切なものに終止符を撃つ。そんな、決断をする。
「人間になりたい」
それは、作者自身の願いでもあった。
そしてそれは、あなたの願いでもあるのではないかと思う。
7 「世界を肯定してあげてほしいんです」
やりたくもない仕事で大切な時間と魂を切り売りして、私たちは働き続ける。そうして、ボロボロにされた挙げ句に、「廃棄」される。利用されて、利用されて、利用され続けて、その果てに「ポイ捨て」される。そんな仕事を、これまで、生きるために行い続けてきた。だがそれでも、と思う。
「すべては意志の力なんだ」
作中で、主人公の少年は、何度も、何度もその台詞を繰り返し続ける。
奴隷同然の存在。世界の最底辺にいた人間が、それでも光を見たいと信じ続けた姿に、自分を重ねたのだろうと思う。
「知ることは変わる力を獲得することです」
ココロを犠牲に戦う少女兵器のヒロインのは、自分の未知の感情に、名前を与えようとする。
人間らしい感情。「初恋」を、知ろうとする。
知ろうとすること、それによって変わりたいと願い、戦い続けること。
それが、「人間」の条件なのではないだろうか。
そんなメッセージは、しかし、届いていないのかもしれない。
自分は、時代に必要とされていないのかもしれない。
暗闇の室内で、冷たいカベに背をつけ、考える。
階下を通り過ぎるヘッドライトの光が、幾何学的な模様を描いて流れては消えていく。
そんな次々にあらわれる光の断片と、暗闇に残る光の残像を眺めながら、思う。
私たちは、本当に生きているといえるのだろうか。
自分が描いたものは、伝わっているのだろうか。
――ココロを犠牲に戦う人工天使とは、あなたのことだ。
「人間になりたい」と口癖のように、少女は言う。人間らしさとは、何だろうか。果たして、大切な時間をやりたくもない仕事で「使い捨て」にされることなのだろうか?
これは、それでも変わることを信じ続けた少女の物語であり、同時に、それを間近で見ることによって、変わりたいと願った少年の物語だ。
それが、あなたにとっての物語でもあると、嬉しい。
飯野賢治氏に出会ってからの二十年間。
初の大賞を受賞してからの十年間。
僕は、「人間」に、なりたかった。
壊れた心を修理してでも、もう一度、自分の顔を、鏡ごしに見つめたかった。
自分の部屋には鏡がない。古いCDを裏返して、鏡がわりに使っていた。薄い膜で覆われたそれは、醜く劣化した肌を、隠してくれる。色あせた現実を、覆い隠してくれる。
そうなのだ。
僕は、ずっと、鏡すら見れなくなっていたのだ。
『世界は美しい。戦う価値がある』
すべてを書き終えた後、僕は、ようやく、鏡を買うためにAmazonの画面をクリックすることができた――『とらドラ!』と一緒に。
――十年前、あなたは何をしていましたか?
夢は、叶いましたか?
幼い頃に夢見た世界を、あなたは手にしましたか?
それとも夢に見たものを掴んで、逆に失望しましたか?
あるいは夢も希望もない、ただ死ぬだけだと、割り切っていましたか?
それでも割り切れないものを、見つけることができましたか?
憧れていた世界に失望してからが、本当の人生の始まりです。
――失われていくものがある。
だが、それを忘れたくないという気持ちがある。
忘れたくないと思うものはいつだって美しく焦がれた記憶で、それは信じ続けた果てにようやく得られる、一瞬の幻のような出来事だ。
それでもその幻の光の強さを、あなたの魂は知っている。
作者プロフィール
鏡征爾:小説家。第5回講談社BOX新人賞(『メフィスト』姉妹誌『ファウスト』後継)で大賞を受賞。10度目にして初の受賞として話題になる。それから10年。輝かしい青春のすべてを投げ捨て、壊れる寸前でギリギリ新作を完成させる。
Twitter:@kaga_misa
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