「中でも」と書いたつもりが「那珂でも」となるのはお約束
軽巡洋艦「那珂」は、川内型3番艦にして1925年11月30日横浜船渠(せんきょ)の生まれ。本来なら1924年中に完成する予定だったが、関東大震災で進水直前の船体が破損したため、いったん解体してから新規に建造を再開した。このため進水まで1年半の工期だったのが、3年近くかかったが、そのおかげで、艦首形状が姉の「川内」「神通」で採用したスプーンカッターバウから波きり性能に優れたダブルカーブチャー型に変更している。
箱のような艦橋と4本の煙突が直立する艦容は、太平洋戦争のころになると「いかにも旧式」に見えてしまうが、完成したばかりの大正時代では、「煙突の数が多いほど速い船」というのが常識で、かつ、当時日本海軍が手本としていた英国海軍の美意識的には「直立直線」で構成するのが美しい艦の条件であったりするので、そういう意味で、那珂は当時の最先端ファッションをそつなく取り入れていたことになる。
那珂が完成して昭和初期の日本海軍は“当時最新鋭”の高速軽巡洋艦「5500トン型」シリーズ14隻を保有することになり、世界各国の海軍関係者もその存在に警戒するほどに有力な戦力と評価された。ただし、機関を動かす蒸気を作り出す「缶室」の真上にある兵員住居区は耐え難いほどに暑苦しく、高速航行では振動も激しく会話もできないなど、居住性は劣悪だった5500トン型共通の欠点は最終艦の那珂でも改善できなかった。
そんな時代の先を行く「那珂」も太平洋戦争が始まった当時は、旧式化していた。度重なる改装で7000トン近くまで太り、速度も32ノット程度遅くなっていた。それでも、依然として「一番新しい軽巡洋艦」だった川内型は九三式酸素魚雷の搭載などの改装を受けた上で(川内を除く)それぞれ水雷戦隊の旗艦として第一線にとどまっていた。
那珂は第4水雷戦隊旗艦として、おもに白露型で構成する第2駆逐隊と第24駆逐隊、陽炎型の第4駆逐隊、朝潮型の第9駆逐隊と行動をともにし、開戦から、ボルネオ島の産油地帯攻略作戦を支援、出現したオランダの潜水艦を追跡している間に護衛していた輸送船を米駆逐艦に沈められてしまうポカをやらかしつつ、2月27日から3月1日にかけて起きたスラバヤ沖海戦に、重巡洋艦「那智」「羽黒」や姉の「神通」が率いる第2水雷戦隊とともに参加した。
……が、電文を受信し損ねて戦場到着が遅れちゃったり撃った魚雷がすべて外れちゃったりして、なんとなくぱっとしないまま海戦を終えた那珂は、2週間後のクリスマス島攻略支援中に敵潜水艦の雷撃を受けて大破。軽巡洋艦「名取」に曳航(えいこう)してもらって何とか生還した。そのおかげで、ソロモン海域における水雷戦隊の激闘に加わることなく水雷戦隊旗艦を引退。その修理中に、主砲を1基降ろして代わりに高角砲を積んで、対空機銃を載せて電探載せて上陸用舟艇を載せてという改装を受けた那珂は、その後輸送艦人生を歩むことになる。
復帰後は第14戦隊に所属して防空巡洋艦に改装した「五十鈴」と行動を共にする。そして、1944年2月17日に新鋭軽巡洋艦「阿賀野」の救援にむかったはずが、自分も敵空母の攻撃を受けて沈んでしまった。
……という感じで、戦歴的にはちょっと残念な那珂ちゃんだったりする。
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