日本初の乳児用液体ミルクが3月11日に発売された。粉ミルクをお湯で溶かす手間なく、そのまま哺乳瓶に詰め替えて赤ちゃんにあげられるため、「調乳不要で手軽」「災害時の備蓄用や外出時に便利」などと歓迎され、話題になっている。
一方で、パッケージの表面に書かれた文言が議論になっている。「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です」という文言だ。
この表記は液体ミルクだけでなく、粉ミルクにも必ず書かれており、ミルク育児の母親をしばしば重い気持ちにさせる。0歳児の母である筆者は母乳が十分出ずミルク育児している1人だが、ミルク缶のこの表示を見るたびに責められているような気持ちになり、「私は子供に、最良の栄養をあげられていないのだな」と罪悪感を覚えてしまう。
表記はTwitterでも話題に。「私が母乳出なくてミルク買う人だったらなんか嫌だな」などと否定的な意見に、多くの共感が寄せられている。
粉ミルクや液体ミルクなど「母乳代替製品」にこれを記載するのは事業者の義務だが、なぜなのか。ミルク育児の母は、この表示をどうとらえればよいか。消費者庁と小児科医に話を聞いた。
「ミルクの過剰なマーケティング」が起こした悲劇踏まえ
日本で乳幼児用ミルクは「特別用途食品」と分類されており、表示について消費者庁の許可を得る必要があるが、許可を得る際には「母乳は赤ちゃんに最良の栄養です」など、「乳児にとって母乳が最良である旨の記載」をすることが必須になっている。母乳にはミルクにない免疫物質が含まれ、赤ちゃんの感染症予防に役立つなど、ミルクにない利点があるのは事実だ。
この表示は日本独自のものではなく、国際的なものだ。WHO(世界保健機構)とFAO(国際連合食糧農業機関)による国際的な食品の規格(codex standard 72-1981)で、粉ミルクなど母乳代替品について、「母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です」といった文言を分かりやすく表示すること」が定められている(1981年採択)。またWHOは1981年、粉ミルクのマーケティングを規制する「母乳代替品のマーケティングに関する国際基準」を策定。「母乳育児の利点を説明し、人工栄養のマイナス面を説明しなければならない」などと定めている。この国際基準では、「母乳代用品の宣伝・広告をしてはいけない」などとも定められており、粉ミルクのマーケティングを厳しく規制している。
WHOはなぜ、粉ミルクのマーケティングを規制したのか。背景には、1960〜70年代に起きた悲劇がある。メーカーが途上国に進出し、粉ミルクを大々的に宣伝。母乳が出る母親も含めて粉ミルクが使われた結果、不衛生な水で溶かした粉ミルクや、規定以上に薄めた粉ミルクを飲んだ赤ちゃんが下痢をしたり栄養失調になって亡くなるという事態が続発し、社会問題になった。これを受けてWHOは、粉ミルクのマーケティングを規制するガイドラインを定め、悲劇の再発を防ごうとしたのだ。
現代日本では母追い詰める?
歴史的背景のあるこの表記だが、母乳育児の良さが十分に知られており、「母乳神話」という言葉があるほど母乳信仰の強い現代日本では、ミルク育児の母親を追い詰めるメッセージにもなっている。
筆者もミルク育児中の母親の1人だ。産院では母乳育児を指導され、母乳の良さはほうぼうで耳にしてよく知っているつもりだが、母乳が十分に出なかった。自営業で育休が取れないため、仕事しながら赤ちゃんを世話する必要がある。出ない母乳を頻回にあげる余裕がなく、ミルクに頼っているが、ミルク育児にどこか後ろめたさがある。
1日4〜5回の調乳の際、ミルク缶の「母乳は赤ちゃんに最良の栄養です」表示が目に入ることがある。「最良の栄養である母乳をあげられなくて申し訳ない」という気持ちになるし、「ミルクだと何か問題が起きるのだろうか」と不安になることもしばしばだ。
2015年には、母乳が出ない母が「子供に母乳をあげなくては」と、ネット通販で「母乳」と称する商品を購入したが、その母乳には通常の1000倍もの細菌が含まれていた――という報道もあり、消費者庁が「母乳」のネット通販に注意を呼び掛ける事態にもなった。精神が過敏になりがちな産後、母乳をあげられないことを過剰に意識し、追い詰められる母は少なくない。
液体ミルクの発売で「母乳は最良の栄養」表示に注目が集まり、否定的な意見が多いことは消費者庁も把握しており、「規定の見直しも検討していきたい」と担当者は話している。
「あなたは立派にやっていると、お母さんに伝えたい」
母乳が出ず、ミルクに書かれた「母乳は赤ちゃんに最良」の表記に罪悪感を覚えてしまう母親に、「傷つかなくてもいいんだよ、あなたは立派にやっている、と伝えたい」と、小児科医の森戸やすみさんは話す。「『母乳は赤ちゃんにとって最良の栄養です』は、ミルクに書かなきゃいけないルールになっているから書いてあるだけ。タバコの警告表示と同じで、メーカーに悪意はないし、あなたを傷つける目的じゃないから、負い目を感じないでと伝えたい」
「らくちん授乳BOOK」など授乳に関する著書もあり、母乳やミルクについての研究や情報発信も行ってきた森戸さんによると、粉ミルクと成分を比べた場合、母乳が優れているのは事実ではあるという。母乳には、ミルクにはない免疫物質や成長因子が含まれており、免疫機能が未熟な赤ちゃんの感染症予防に役立つことは、研究により実証されている。
一方で、感染症のかかりやすさは「個人差のほうが大きい」とも。「完母(完全母乳、100%母乳で育てること)でも完ミ(完全ミルク)でも、しょっちゅう風邪を引く子もいれば、そうでない子もいる。母乳かミルクかよりも、持って生まれたものや、上の子がいるかなどの環境の差の方が大きい」
日本の母親の99.9%以上は、母乳の良さをよく知っていると森戸さんは感じている。これまで会ってきた母親の中で、知識の不十分さから「母乳をあげたくない」と言ったのは1000人中1人以下。ほとんどの母は母乳のメリットを知っているし、できれば母乳で育てたいと思っている。そのため、粉ミルクなどに必須の「母乳は赤ちゃんに最良の栄養です」表記も、「それほど目立つところに書く必要はないとは思う」と森戸さんは考える。
母乳をあげられないと「母親失格だ」と自分を責める人もいる。森戸さんは、「母親の役割は授乳だけではない。抱っこしたりおむつを替えたり遊んだり……授乳以外にできることはたくさんある。母乳をあげられなかったと悩みすぎるのは、子供にとってもいいことではないと思う」とアドバイスする。
発売されたばかりの液体ミルクに対しては、「粉ミルクの調乳の手間まで省くなんて、育児の手を抜きたいのか」という批判もあるが、森戸さんはこう反論する。「赤ちゃんは、『お母さんが粉ミルクを作って冷ましてくれた! 手をかけてくれてうれしい!』なんて思わない。赤ちゃんにはまだ快か不快しか感情がないので、不快なときにすぐ対応してくれるのが一番いい。お腹が空いたときにすぐ満たしてもらえて、安心できるかどうかが大事。それが粉ミルクでも液体ミルクでもどちらでもいい。調乳の手間を省ける液体ミルクはすごくいいと思います」
岡田有花
1978年生まれ。京都大学卒。IT系ニュースサイト記者、Webベンチャーを経て、IT・Web分野を軸に幅広く取材、執筆するフリーランス記者。2児の母。著書に『ネットで人生、変わりましたか』(ソフトバンククリエイティブ)。
※本稿はYahoo!ニュース 個人掲載の「母追い詰める? 液体ミルクに『母乳は最良』表示義務、『傷つかないで』と医師」を転載しました。
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