先日公開された映画『名探偵コナン ハイウェイの堕天使』が好調だ。興行収入は本記事の執筆時点ですでに70億円を突破し、前々々作、前々作、前作に続いての100億円突破も確実視されている状況である。

 あるいはこの記事が公開される頃には、すでに100億円を突破しているかもしれない。もしそうだったら笑ってやってください。

※本記事は『名探偵コナン ハイウェイの堕天使』の内容にふれています。ご注意ください。

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ライター:海燕

ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』CLAMP特集、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。
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過去最高クラスのアクションシーンと、やや行き過ぎたご都合主義

 最近のアニメ映画の記録ラッシュで感覚が麻痺してしまっているのは否めないが、客観的に見れば途方もない数字であり、『コナン』映画が春の名物として完全に定着したことを実感させられる。

 肝心の映画の内容はといえば、これも悪くない。ストーリーは灰原たちがコナンのいないところで「首なしのバイクライダー」を目撃するところから始まる。

 この怪談めいたエピソードの直後、ハイウェイに黒ずくめ姿の謎めいたバイクがあらわれ、警察によって〈ルシファー〉と名づけられる。

 最新の走行サポート技術が搭載されたバイク〈エンジェル〉に搭乗した女性警官・萩原千速は、コナンと共に彼女を誘うかのように暗躍する〈ルシファー〉を追いつづけるものの、そこに不審な死亡事故が絡み、恐るべき陰謀の暗部へとはまり込んでゆく。

 〈エンジェル〉と〈ルシファー〉が一歩も譲らず走り合う高速バイクアクションはまさに圧巻というしかない出来で迫力満点。上映時間のあいだ、まったく飽きさせない。アクション映画というくくりで見るなら、過去の『コナン』と比べてもトップクラスのクオリティと言っていいだろう。主人公・萩原千速の活躍もあいまって、過去作でときに描かれた暗い情念を抱えた男たちのドラマと比べて、画面に華がある。

 一方、一作のミステリとして見ると、かなり無理がある展開であることは否定できない。『コナン』に杓子定規な本格ミステリを期待するのは違うのかもしれないが、さすがにご都合主義が行き過ぎている印象ではある。

 特にクライマックスの展開はいくらなんでもとは感じる。いやいやいやいや、それは無理だろ……。

 もっとも、この種の強引なシナリオは『コナン』映画には付き物であり、その少年マンガ的な魅力と裏腹のところがある。どこまで課題とすべきかは微妙なところだ。

 あまり数字に囚われるのも良くないが、じっさいに映画が大ヒットして、観客が満足しているのならそれで良いのかもしれない。

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“一見さん”に厳しい構成という課題

 より深刻な意味で気になるのは、この映画がいままでの『コナン』映画と比べても、“一見さん”の観客にきびしい作りになっているように思えることだ。

 そもそも映画の実質的な主人公を務める千速にしてからが、『コナン』になじみのない観客にとってはあまり見覚えのないキャラクターである。それもそのはず、彼女は過去のエピソードにも数回しか登場していない『コナン』におけるマイナーキャラクターなのだ。

 最新作の「主演」を彼女に任せたことは、マンネリを避けてあらたな客層を開拓するという目的はあったにしろ、ある種、冒険ではあっただろう。

 おそらく、今後も彼女のような「新顔」を定期的に映画で取り上げて、もともと広がりつづけている〈『名探偵コナン』ユニバース〉をさらに拡大してゆく意図があるのかもしれない。

 じっさい、最近の『コナン』の連続大ヒットの背景には、毎回異なる魅力的なキャラクターに焦点をあてて新鮮なストーリーを構成する方法論があることはまちがいなく、その意味で今回の映画は戦略的に正しいとも考えられる。

 いきなり知らないキャラクターが幾人も登場して多少混乱したことはたしかだが、それだけなら良い。ただ、過去のエピソードがドラマの本筋に絡んでくると、いちおう映画単体で完結している内容とはいえ、少し重く感じられたことはたしかだ。

 この点は過去作と比べても大きな課題なのではないか。

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増え続ける、“映画として完結していない”映画

 もっとも、こういった映画外部の要素が映画本編に関わってくる作りは、必ずしも『コナン』に限った話ではない。近年、劇場へ行って映画を観ても、わたしがいままで映画だと思っていたものとはだいぶ異なる内容の作品に出逢う確率が高くなっている。

 つまり、「映画」という概念そのものが、徐々に拡張されてきているのを感じるのである。

 かつて、『スター・ウォーズ』三部作は、初めから一作で完結しない作りによって映画の構造を革新した。それから数十年が経ち、21世紀に入って『スター・ウォーズ』どころではない超大長編シリーズが登場する。MCUこと〈マーベル・シネマティック・ユニバース〉のシリーズだ。

 MCUにおいては、数十作に及ぶ映画シリーズだけではなく、ネット配信のドラマなども絡んで、極めて壮大で複雑な物語が綴られた。

 当初、それはすこぶる好評にして魅力的なプロジェクトと見えていた。一本の映画で楽しめるうえ、続けて観ていけば何倍も面白い! 映画史にまったく類例がない「横断的」かつ「継続的」なこの〈ユニバース〉は、かなり冒険的で実験的な企画だったにもかかわらず、商業的にも批評的にも大成功を収め、映画という概念そのものを揺るがした。

 しかし、いま、MCUの人気は下降気味だ。そこにはいろいろな理由が考えられるだろうが、ひとつには膨大な情報が積み重なるにつれ、そのすべてを把握していくことがいかにも億劫に感じられるようになったことが挙げられるに違いない。

 「一本でも楽しい、何本も観ればもっと面白い」映画が、「端から制覇していかなければ楽しめない」ものとして感じられるようになったとき、その魅力はいくらか色褪せて見えるようになったのだった。

 また、しばらくまえに公開された『ザ・スーパーマリオギャラクシー・ムービー』にしても、英語圏の批評サイト「ロッテントマト」において批評家と一般層の評価が大きく乖離したことからもわかる通り、一本の映画のシナリオとしては大きな課題を抱えているにもかかわらず、商業的には大人気を獲得した作品だった。

 純粋に「映画として」シナリオをチェックしていくと不備が見あたることはまちがいないのだが、原作ゲームの圧倒的なヴィジュアルイメージを矢継ぎ早に味わえるアトラクション・ムービーとして見れば文句なしの出来栄えで、原作ファンなら楽しめるように作られているのだ。

 ただ、映画の内容のかなりのところまで、観客のなかのイメージで補完する必要があることも事実であり、こうなってくると「そもそも映画とは何なのか?」と考えさせられる。ある意味で、映画が映画として完結していないのである。

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『コナン』は“一見さん”に優しい映画であり続けられるか

 もちろん、いままでにもテレビシリーズの劇場での続編、番外編などはあることはあった。過去の『コナン』にしてからがそうだ。だが、MCUの諸作品や『マリオ』シリーズは、映画でありながら過去の映画概念そのものを破壊しながら進んでいるようなところがあり、長い目で見たとき、その良し悪しは見きわめがたい。

 そして、『ハイウェイの堕天使』を目撃したいま、『コナン』映画も同様の方向へ進もうとしているのではないか、というほのかな懸念を感じる。

 杞憂であるかもしれない。現実に『ハイウェイの堕天使』は、いくらかの「予習」をしてから観に行ったほうが楽しめる側面がないとはいえ、“一見さん”を拒絶している作りとはいえないからだ。

 杞憂であれば良いと思う。『コナン』にはいつまでも“一見さん”に優しい映画であってほしい。わたしたちには他にも観たい作品がいくつもあり、『コナン』の「予習復習」にだけ時間を割いてはいられないのだから。

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