アンデルセンの『人魚姫』は、言うまでもなく、この天才童話作家の最高傑作にして最も有名な作品である。そしてまた、多くの子供たちにとって最初に出逢う「救いのない悲劇」であるかもしれない。
あたりまえの童話なら、主人公をさまざまな困難が襲うことはあるにしても、最後にはそれなりのハッピーエンドが待っているものだが、『人魚姫』においては、恋する姫と王子のあいだに待ち受ける結末は徹底したサッドエンドだ。
しかし、この作品は、それだからこそ名作だとも言えるだろう。アンデルセンの魂が生んだ、さまざまな意味で忘れがたい物語である。
そして、現在放送中の『さよならララ』は、その『人魚姫』の続編とも言うべき一作。これが面白い。
ライター:海燕

ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』CLAMP特集、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。
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90年代セルアニメを思わせる独特の作画
インターネットを見るかぎり賛否両論あるようだが、四半期ごとに膨大な新作が放送され、いっときだけ話題になって消えていく時代において、その独創的な内容は注目に値する。
人魚姫モティーフのアニメーションというと、宮崎駿の映画『崖の上のポニョ』が思い浮かぶところだが、『ララ』は人魚姫の“その後”を描く作品。原作のラストで泡となって消えてしまった人魚姫ララが現代の滋賀県によみがえり(!)、「ほんとうの愛」を探し求める斬新なストーリーがクラシックなスタイルで描かれる。
「いや、なんで滋賀なんだよ」と思うところだが、そこはキネマシトラスのアニメーション。200年の時を経て、琵琶湖の底で目を覚ましたララは、大津市で暮らす女子高生ボクサー(!!)茉里と出逢い、そこから「2度目の人生」を過ごしていくことになるのだ。
最も注目すべきなのは、その作画のタッチだろう。あたかも1990年代以前を思わせるような、セルアニメっぽい線と色調。さらに言うなら、オープニングの一部には実際にセル画が使用され、撮影台を用いて撮影されたという。いきものがかりが歌うオープニングテーマも含めて、全体の作風そのものが古風な印象を受ける。
そこへ手書きのスタッフクレジットまで加わり、何かほんとうに90年代のアニメを見ているかのような質感を覚える。話題になるのは当然かもしれない。
テーマは「ララの上京物語」 悲劇を乗り越えた先に迎える“さよなら”とは
とはいえ、その話ばかりが先行することによって、この作品の企画としての異様さが見えにくくなっている一面もありそうだ。
ただ単にクラシックでノスタルジックなだけのアニメなのだとしたら、物珍しくはあっても、要はそれだけのことである。だが、『さよならララ』は、明らかにそれ以上のものをめざしている。
そもそも、そのタイトルからして挑戦的だ。「さよなら」とは具体的に何を意味しているのか。
普通に考えるなら、ララが命を落としたり消えたりする悲劇を意味していそうだが、それではただの『人魚姫』の繰り返しである。この物語の目的が「悲劇的な結末」の「その先」を描くことにあるとすれば、ただ普通に「さよなら」するだけでは終わらないに違いない。物語がノスタルジアの向こう側に進んでいくことを期待している。
もうひとつ気になるのは、物語が実質的に始まる前に、ララがすでに一度、悲劇的な結末を迎えていることだ。
物語の主人公は普通、これから何かを手に入れるために動く。何かまだ持っていないものがあり、それをめざし、獲得できるか、あるいはできないか。物語はたいていそういう形をしている。たとえば『ONE PIECE』のルフィが海賊王をめざすことなどは典型だろう。
だが、ララは少し違う。彼女はもう賭けてしまったのだ。その声を、尾を、そして命を、種族の掟を破り、すべて差し出して、そして一度、泡となって消えてしまった。『さよならララ』のストーリーはその上で展開する。
原典における人魚姫が泡になって終わった事実を、この作品は改変せず、なかったことにしない。まず認め、そこから始めるのである。
その意味では、ディズニーの『リトル・マーメイド』が姫に与えた救いとはまったく逆だ。死から救済するのではなく、そのままで「先」を描くという意図。この意図は作中でどう表現されるのか。
また、シリーズ構成の川原杏奈は、この物語のテーマを「ララの上京物語」と説明している。故郷を喪失した者が、見知らぬ土地で暮らしを立て直していくお話。そう、その意味では『さよならララ』は、人魚姫の再話でも異世界転生でもなく、上京譚なのだ。
実際、ララは作中で日常的な細々としたことに直面する。これは物語が観念に終始することなく、「生活」の強度を重視していることを意味しているのだろう。
「タフな作品」を描くために、あえて選ばれた「昔風」の絵柄
本作が初監督作品となる小出卓史は、本作を「タフな作品」にしたかったと語っている。
人魚姫の物語である以上、ララの内面の葛藤は避けられない。しかし、だからといって、それを乗り越えて成長しました、という話にはしたくなかった——。未来が明るいとは限らない中で、それでもタフに生きるという方向性を選んだのだ、と。
だからこそ、ララの隣に繊細すぎる人物は置かなかった。ララの隣に立つ少女がボクサーである理由がわかるだろう。茉里は殴ること、殴られることが前提のスポーツに身を置いている人間なのだ。愛のために命まで差し出して悲劇を迎えた少女と、殴られても立ち続けるボクシングに取り組んでいる少女。この配置からして、ただナイーヴでセンチメンタルな話には終わらせないという意思を感じる。
大きく話題になった絵柄にしても、小出はその画面が懐古趣味から出たものではないと明言している。近年のアニメの細い線や薄い色への反動として作っていった結果として、昔のスタイルに近づいただけなのだ、と。
実際、その通りなのだろう。本作は明らかに、ノスタルジックに「昔は良かった」と繰り返すだけの作品ではない。
しかし一方で、その「昔風」の絵柄が強烈な個性と力感を生んでいることも確かだ。ララと茉里の「タフ」な物語を描き出すためには、「今風」の繊細なアニメーションではいけないのである。
その意味で、『ララ』の描線と色彩は、強烈な効果を持っている。まだ物語は序盤に過ぎないが、これからどう展開していくのか気になるところだ。
面白いのは、ララが作中でふたたび「王子さま」を探しつづけているところ。「ほんとうの愛」を見つけだし、「プリンセス」となって眠れる家族を救うためには「王子さま」が必要というわけだが、それではかつての悲劇をリフレインするだけであるようにも思える。
その上で、いまララの隣にいるのは、「王子さま」ではなく女の子なのだ。ララにとっての「ほんとうの愛」とは、王道的に「王子さま」を見つけて愛されることなのか、どうか。この物語がどのような結論を導き出すかは注目すべきところだろう。
それにしても、スタンダードでオーソドックスな「異性愛をめぐる悲劇」のおとぎ話を「女の子2人」という形で語り直す、というスタイルは、もうひとつの話題作『超かぐや姫!』ともシンクロしているようで面白い。もちろん、表現の作法そのものは真逆と言っていいほど違っているのだが、どこかで一脈通じているようにも思われるのは、時代の必然というべきだろうか。
さて、結局、ララの日常的冒険の先に待っているものは何なのか。彼女が発見すべき「ほんとうの愛」の正体とは。今期、注目の一作である。個人的には『人魚姫』の悲劇を乗り越えた最高のハッピーエンドを希望している。
タフにやろうぜ。
