「あの時負けていれば」――人生を賭けた一局、夢が終わった後に続くもの

人生にイフはない。ただ問うことだけが許される。

» 2018年02月16日 12時00分 公開
[橋本長道ねとらぼ]

 あの時勝っていれば人生が違ったものになっていたのに――。そんな話はよく聞く。その逆はあまり聞いたことがないのが普通だ。

 奨励会時代、私と一緒に麻雀やカラオケをして遊んでいた友人はよくぼやいた。

 「あの将棋を負けていればなぁ……」



橋本長道

1984年生まれの小説家、ライター、将棋講師、元奨励会員。神戸大学経済学部卒。著書に『サラの柔らかな香車』『サラは銀の涙を探しに』(いずれも集英社刊)。



人生を賭けた一局

 あの将棋というのは奨励会入会試験3日目第3局のことである。

 年に一度夏に行われる奨励会入会試験では1日目、2日目に受験者同士で対局し、そこでの成績優秀者が3日目の現役奨励会員との対局に進む。3日目は3局指すことができ、1勝でも挙げられれば晴れて奨励会合格となる。

 彼は3日目まで進んだが、1局目、2局目といいところなく敗れた。両親は将棋のプロを目指すことに賛成しているわけではない。今年落ちればプロを諦めることになるだろう。彼の夢と人生は奨励会試験3日目3局目に集約された。

 延々と続く秒読みの中の大逆転だった。劣勢の中諦めずに食らいつき、彼は消えかけていた夢を再び手元に手繰り寄せた。彼自身は言わなかったが、見ていた別の友人は対局後彼が涙ぐんでいたと語った。




 5年の月日が流れ夢も色褪せると、進学を断念したという事実と、将棋に打ち込みながらも思うように成績が伸びなかった現実が彼をニヒリストにした。

 「将棋界は変な人ばかりだ」「早く一般人になりたい」

 それが彼の口癖となった。

 「あの将棋を負けていればなぁ……」

 その一言に人生と青春が凝縮されている。


垣間見えた世界

 私も同じような経験があるが、私のそれはより道化めいている。

 「あの時赤いクジを引かなければなぁ……」

 私が中学二年生の時の「全国中学生選抜将棋大会」兵庫県予選での出来事である。兵庫県予選で勝ち抜いた上位二名は夏に山形県天童市で開かれる全国大会に出場できる。「選抜」は歴史と権威のある大会だった。

 優勝候補は二人いた。当時、同年代ではトップクラスの実力者として知られていた池田君と、前年度全国準優勝者のO君だ。しかし、O君が予選で村田さん(村田智穂現女流二段)に負けるという波乱が起こる。彼は大会の前日に将棋道場で村田さんに飛車落ち(三段差相当)のハンデ付きで勝ったと言っていた。将棋では時折こういうことが起こる。

 本命の一人が敗退し、上位進出したのは池田君と私と研修会の強豪Y君だった。

 ――全国出場枠は二人。

 私達三人を前に審判員の先生は言った。「時間がないのでくじ引きでシードを決めます」

 3本の紐の中から赤い色付きを引いた者は無条件で全国大会に出場できるということだった。池田君もY君も関西のアマチュア将棋界では名の知れた存在で、私はぽっと出の田舎のガキだった。二人と指せば勝てる見込みは少ない。

 私は引いた。

 息をのむ。目を開ける。

 ――赤。

 小さくガッツポーズをとった私を見て、Y君の顔が青くなった。Y君は池田君には勝てないと知っているのだ。二人の間では既に格付けが済まされていたのである。

 決勝で私は当然のように池田君に負け、全国では予選を勝ち抜いたものの本戦一回戦で敗退した。

 それでも、全国大会に出場したことで見える世界が変わった。今まで視野にも入らなかったプロの世界が垣間見えたのである。夢が見えた。私は翌年の全国中学生選抜将棋選手権大会で3位、中学生王将戦優勝という実績を引っ提げて奨励会に入った。


左から、選手権3位のもの、選手権時の木製の名札、中学生王将戦優勝のもの

 あの時、赤いくじを引いていなければ将棋は趣味で続け、何か他の“ものになりそうな”ものに打ち込んでいたはずである。

 「あの時負けていれば」「あの時赤いくじを引いていなければ」

 人生にイフはない。ただ問うことだけが許される。だが、今の私が中学生時代の私と出会うことができ、話をすることができたとしても、あの頃、あの瞬間の私を説得できる自信はない。


終わったあとに続くもの

 ここで終わればコラムも綺麗に締まる。しかし、蛇足かもしれないがもう少しだけ書く。

 奨励会という青春期の悲喜劇は物語として美しい。他の選択肢を捨て、将棋だけに打ち込み、年齢制限で夢から捨てられる残酷性は見る者の心を打つ。

 だが、夢が終わっても人生は続く。

 前述の「池田君」こと池田将之氏は、その年の選抜で全国優勝して奨励会入りした。しかし、プロの一歩手前である三段リーグまで辿り着きながら、昇段の一番を逃し年齢制限により退会した。その後彼は関西のトップ将棋記者となり、ファンに将棋の魅力を伝え続けている。

 三段リーグを抜けられず年齢制限で26歳の時に何の学歴も将棋以外の経験もないまま社会に放り出される――。このことが奨励会の悲劇物語の前提の一つとなっている。だがそれは「よい学校に行って、よい会社に就職することが正しい人生である」という昭和時代に作られた神話のバリエーションに過ぎないように思うのだ。

 ニート、無気力な人、自分のやりたいことがわからない若者に溢れる現代社会において、将棋をはじめとする競技に打ち込む者は明確な目標を持つことができる。もし本気で夢に挑み、一つの物事に集中して取り組めたのならば、その経験やノウハウは現代日本においてかけがえのない、他に代えることのできない強みとなる。

 夢が終わっても人生は続くのだ。

 生き延びた人生の先で、より美しい花を見つけることは確かにある。

(つづく)

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