「ルックバック」が6月28日より劇場公開中。同作は2021年に「ジャンプ+」で公開され大きな話題となった、「チェンソーマン」で知られる藤本タツキの読み切り漫画を原作としたアニメ映画だ。
その本予告が公開されたときも「原作の絵がそのまま動いている」ことなどに絶賛の声が相次いだが、本編の衝撃と感動はそれをはるかに上回っていた。「創作」にまつわる寓話としても、漫画のアニメ映画化作品としても、ひとつの到達点だった。
なお、本作の上映時間は58分(鑑賞料金は1700円均一)。だが、アニメのクオリティーと物語の密度が半端ではないため、その短さを感じさせない満足度がある。こだわりの演出の数々と、haruka nakamuraによる流麗な音楽を堪能できる、劇場での鑑賞でこそ真の感動があると断言できるので、その機会を逃さないでほしい。
本編の決定的なネタバレに触れない範囲で、さらなる魅力を記していこう。
河合優実と吉田美月喜の最高のハマりぶり
本作の主人公は、学生新聞で4コマ漫画を連載していい気になっている小学生の「藤野」と、同学年の不登校の「京本」の2人。藤野が卒業証書を京本の家に届けに行ったことをきっかけに、2人は一緒に漫画を描きつつ共に青春を過ごしていく。
まず魅力的なのは、主人公の女の子2人の関係性。一方は自信家で負けず嫌い、一方は引きこもりだったけど素直。いわゆる「共依存」的な危うさを示しつつも、不器用さを含めてかわいい、正反対の2人が漫画をきっかけにつながり、楽しく過ごす様が描かれていく。
その2人を「ずっと見ていたくなる」「幸せを願いたくなる」のはもちろん原作からのことだが、これが躍動感たっぷりのアニメーションとして表現される。さらに、声を担当した河合優実と吉田美月喜の表現力が彼女たちの尊さを加速させている。前者は不満を溜めたり毒づいたりする様、後者はたどたどしくも漫画や絵への想いを伝える様も含めて愛おしいのだ。
しかも、藤野が標準語で話し、京本が方言で話すというのは、原作ではそれほどはっきりとはしていなかった、今回のアニメ映画独自の演出だ。雑誌「SWITCH」7月号のインタビューで、押山清高監督は短い尺の中で京本のバックボーンを表現するため、「この東北の土地で部屋に引きこもり、世間の人とコミュニケーションを取っていない」「とても純粋な女の子だと思うし、人目を気にするような子でもないし、真っ直ぐ自分の道を歩んでいくタイプの子だと思った」と、この訛りの演出を取り入れた意図を語っている。
押山監督は同インタビューで「アニメでもリアリティを表現する作風として作りたいタイプ」であることも、結果的に実写の俳優を多く起用した理由だと語っている。その甲斐あって、河合と吉田は共に声優初挑戦ながら、いい意味での「アニメっぽくない生々しさ」を出しており、「ルックバック」の作風とキャラクターにマッチした、最高のキャスティングおよび演技だった。
限りなく「1人で作った」アニメ表現の凄まじさ
押山監督は、本作で「脚本・絵コンテ・キャラクターデザイン・作画監督」でクレジットされている。絵コンテを1人で描き、自分で仮のアフレコと音楽をつけてビデオコンテを作成し、原画も半分ほど担当。作画監督としてのクレジット通り、他のアニメーターから上がってきた原画のほとんどに手を入れていたという。
もちろん、本作には「原動画」でクレジットされている井上俊之を筆頭に、現代を代表する有数のアニメーターが少数精鋭で参加しており、この特殊な制作体制を支えている。その力なくしては完成しなかったと押山監督も語っており、それによって「限りなく個人制作に近い感覚で作業できた」とも振り返っているのだ。
X(旧Twitter)で76万人超のフォロワーを誇る「小学3年生のながやまこはる(実際に運営しているのは原作者の藤本タツキ)」のアカウントにて、「絵の凄く上手い監督がほぼ一人で全部描いているらしい」と投稿されていたが、本当に「限りなく押山監督成分の濃い」作品なのだ。
その事実も凄まじいが、原作の荒いようで繊細な、密度のあるリアル寄りの絵を、崩れないようにアニメに落とし込むことが、どれほど難しいことかは、想像を絶するものがある。その上で、実際に出来上がった本編での、ダイナミックな表現の数々に圧倒された。
特に「京本が部屋から廊下へ飛び出して藤野を追いかける」「藤野が雨の中でスキップする」様は、「原作では数コマの、それはそれで完成された絵で描かれたことを、アニメで全力で表現するとこうなるのか」という感動があった。
原作者の藤本は今回の劇場アニメ化にあたり、「押山監督はアニメオタクなら知らない人がいないバケモノアニメーターなので、一人のオタクとしてこの作品を映像で見るのが楽しみ」などとコメントを寄せていたが、実際に出来上がった本編は、その期待値をも軽く超えていたのではないだろうか。藤本は鑑賞後に、「製作に関わってくださった方々の才能と熱量が伝わってくる」「自分では拾えなかった部分も丁寧に汲み取ってくれた」との投稿をしている。
余談だが、押山監督がテレビシリーズ初監督を務めたアニメ「フリップフラッパーズ」も女の子2人の関係性を尊く描く、また躍動感のある表現が満載の作品で、なるほど「ルックバック」との相性が抜群の作家だと思い知らされる。他にも共通項が多くあるので、併せて見てみるのもいいだろう。
藤本タツキが抱いていた「無力感」
「ルックバック」の物語はフィクションではあるが、劇中の出来事に原作者の藤本自身の経験が反映されていることも重要だろう。
前述の「SWITCH」のインタビューでは、友達から「そろそろ絵描くのやめた方がいいよ」「オタクだと思われちゃうよ」と言われ、人前で絵を描くのをやめたエピソードを披露している。藤本自身はその後もこっそり絵を描き続けていたそうだが、同様のシーンが「ルックバック」劇中にもあることが思い出される。
このような当時オタクに対しての偏見がまだあったことの他、「自分より絵が上手い人はずっと近くにいる」ことも、劇中の藤野と、現実の藤野の経験で一致している。一方で、美大に進学したことなどは京本の方に反映されている。
さらに大きいのは、藤本が現実で感じたという「無力感」だ。例えば、短編集「17-21」のあとがきでは、東日本大震災直後に被災地のボランティアに行ったときの出来事が記されており、「17歳のその頃からの無力感のようなものがつきまとっている」「何度か悲しい事件がある度に、自分のやっている事が何の役にも立たない感覚が大きくなっていった」こと、そして「そろそろこの気持ちを吐き出してしまいたい」ために「ルックバック」を描き、「描いてみると不思議なものでちょっとだけ気持ちの整理ができた気がした」ことも打ち明けているのだ。
この「ルックバック」の終盤では、日本で起きた重大な事件を連想させる、すべてを打ち砕く出来事が起こる。その事件のみならず、東日本大震災のボランティアで自身が体験したこと、そして現実で起こり続ける悲しい事件を見続け、漫画家である自身の「何の役にも立たない」という無力感を、藤本タツキは作品にぶつけた、という言い方もできる。
その思いを反映したかのように、物語の終盤では「創作には何ができるか」という重要な問いが投げかけられる。そこから「絶対に何かがあった」と、小さくはない意義を感じ取る人は必ずいるだろう。
いずれにせよ、残酷なことが容赦なく起こる、それに対して少なくない無力感を感じる人がいる現実の世界を見据え、それでも創作物の意義を見つけようとする姿勢そのものが尊い作品なのだと、今回のアニメ映画化であらためて考えさせられた。
原作に忠実、そして映画ならではの感動
今回のアニメ映画「ルックバック」はとても原作に忠実な内容だ。(もちろん改変そのものが悪いというわけではないが)大きく足したりも引いたりもしない、58分の尺の中で原作を余すことなく、そして超高密度のアニメーションで表現したことも、漫画のアニメ映画化作品としてのひとつの到達点だと思える理由だ。
2人の女の子の友情、そして創作にまつわる物語から提示された、絶望と隣り合わせの希望は、クリエイターに限らない、多くの人にとって福音になり得る。加えて上映が終わるころには、映画ならではのとてつもない余韻にも浸ることとなった。重ねて書くが、劇場で見る機会を逃さないでほしい。
(ヒナタカ)
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