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※本記事は『超かぐや姫!』『パリに咲くエトワール』の内容に踏み込んで論じています。ネタバレを含みますので、ご注意の上お読みください。
正直に書かなければならないことがあります。
1月22日にNetflixで配信が始まった『超かぐや姫!』(山下清悟監督)を最初に観たとき、カタルシス(物語が与える感情的な解放感)の在処がなかなか掴めませんでした。物語の構造は面白い、映像にも光るものがある、笑える場面も多い——。それでも、クライマックスで胸に何かが満ちてくる感覚が、どうも遅れてやってきます。「なぜ自分はもっと素直に感動できないのか」と、やや困惑しながらテレビ画面を眺めていました。
ご存じのように『超かぐや姫!』は、配信翌日にNetflixの国内「今日の映画TOP10」で1位を獲得。その反響のなか、2月20日から1週間限定で始まった劇場公開も座席が瞬く間に埋まり、上映延長・拡大公開へと発展。公開24日での興行収入は11億円を超え、Netflix発のオリジナル映画として史上初の10億円突破と、記録を打ち立て続けている作品です。
一方、翌月に劇場で観た『パリに咲くエトワール』(谷口悟朗監督、3月公開)は、公開週末3日間の興収は約5560万円と初動こそランキング圏外スタートでしたが、高評価のクチコミが広がり、公開10日で1億4000万円を突破。『超かぐや姫!』の規模には及ばないものの、じわじわと裾野を広げている作品です。2回目は弓道や絵画を嗜み、子どもはダンスに熱中している妹を誘いましたが、見終わったあと「震えた」と言っていました。充足感の手触りも、自分にはずっとなじみ深い類のものでした。
この「違い」はどこから来るのか。その問いを抱えたまま、満席の劇場でもう一度『超かぐや姫!』を観て、ようやく輪郭が見えてきました。
ライター:まつもとあつし

中学生のときに『王立宇宙軍 オネアミスの翼』をみてしまい、そこからアニメにのめり込む。そのまま大人になり、IT・出版・広告・アニメの会社などを経て、現在はジャーナリストとして取材・執筆をしながら、大学でアニメを中心としたメディア・コンテンツの教育・研究に取り組んでいる。ゲーム、特にJRPGやマンガも大好き。時間が足りない。
公式サイト:http://atsushi-matsumoto.jp/
X:@a_matsumoto
2作に流れる共通の前提——「実家が太い」主人公たちの物語
まず、この2作が共有している前提を確認しておきたいと思います。
どちらの物語も、誰かの夢を後押ししながら自らも変わっていく人物を中心に据えています——月からやってきた異星人・かぐやのライバー活動をプロデュースする彩葉(酒寄彩葉)と、千鶴のバレエへの夢に伴走する画家志望のフジコです。
そして、この2人に共通しているのが、「恵まれた家庭」の出身であるという点です。彩葉もフジコも、ギリギリの生活を強いられているわけではなく、何かあれば帰ることのできる場所を持った上で、あえて困難な道へ踏み出していく存在として描かれています。『ガラスの仮面』の北島マヤのような、貧しい家庭から演劇への情熱だけで道を切り拓く少女とは、出発点がまるで異なります。
この設定が今の観客に機能する背景には、現代の日本社会が抱える「親ガチャ」問題があると筆者は感じます。
哲学者の戸谷洋志氏は著書『親ガチャの哲学』(新潮新書、2023年)の中で、生まれた環境によって人生があらかじめ決定されてしまうという「親ガチャ的厭世観」が若者の間に広がっていることを論じています。この閉塞感に呼応するように、近年のアニメでは「異世界転生」が一大ジャンルとなりました。現実ではチャンスを与えられないなら、せめて物語の中でリセットして最初からやり直したい——その需要に応えたのが異世界転生という形式です。いわば「自分がその主人公に成り代わる」自己投影型の物語消費であり、緊急避難としての現実逃避(≒異世界転生)が時に必要であることは言うまでもありません。物語の中で自分の置かれた厳しい現実を思い起こされては興ざめですから、2作品における「実家の太さ」も安全弁として置かれていると捉えるべきかもしれません。
しかし、2作の主人公たちへの感動は、異世界ものとは異なる回路を通じています。ここで参照したいのが、認知科学者の久保(川合)南海子氏が著書『「推し」の科学』(集英社新書、2022年)で提唱する「プロジェクション」という概念です。
「推し」に救われた体験とは、推しが直接何かしてくれたからではなく、推しを通じて「自分が何かに気づいたり、自分をとりまく世界のとらえ方が変わった」ことだと久保氏は述べます。つまりプロジェクションとは、自分をキャラクターの立場に置き換えることではなく、「いま、そこにない」存在に心を馳せ、その歩みを共に疑似体験することで、自分自身が変容していく過程なのです。
彩葉やフジコに「なりたい」のではなく、彼女たちの選択と奮闘を「見届けたい」——その感情が、2作が呼び起こすカタルシスの回路です。そして、この「見届ける」という体験は、単なる観察ではありません。
『超かぐや姫!』において彩葉は、かぐやを推し見届けていく過程で、自分が音楽をつくるという「本当にやりたかったこと」を取り戻していきます。『パリに咲くエトワール』においても、千鶴がバレエへの夢を叶えるその瞬間を見届けることで、フジコは自らの絵の方向性を見いだしていきます。どちらの物語も、クライマックスで夢が形をなすその瞬間に、見届ける側の“何か”もまた動き出す——プロジェクションとは、見届ける側もまた変容していく過程なのです。
では、その「見届ける」体験は、『超かぐや姫!』と『パリに咲くエトワール』でどう異なるのか。2作の相違点を見ていきましょう。
「推す」ことが夢になる——『超かぐや姫!』の構造
この共通の前提を踏まえた上で、2作の大きな違いを見ていきます。
『超かぐや姫!』は、VTuberを「推す」という行為を経験したことのある若者にとって、「自分たちが観たかった物語」として機能している作品です。劇場の客層を見れば、それは明らかでした。10代後半から20代前半と思しき若者たちが、スクリーンの前で惜しみなく笑い、終盤では息を呑んでいる様子がうかがえました。
舞台として選ばれたのが、東京・立川とその周辺というのも象徴的です。世界は最初、恐ろしくローカルで狭い。しかし、その狭い現実空間から仮想空間「ツクヨミ」に進出することで、どこにいても「世界」と繋がれるという可能性が開けていく——この構造は、地価・物価の高騰によって、すっかり「選ばれし者」が住む土地となった東京から離れた地方都市にいながら、インターネットを通じてバーチャルなコミュニティに参加してきたデジタルネイティブ世代の経験と、ぴったり重なります。
そして本作において、「推す」という行為そのものが物語の駆動力になっています。プロデューサーとなった彩葉がライバーのかぐやに翻弄されながらも、発掘し、育て、バズを積み重ねていく過程は、現実のVTuber文化における推し活の構造とほぼ重なります。推しの成功が自分事になり、配信の数字が上がっていくことで、推した側の生活環境や自己認識までが変化していく——そういう経験を、この世代は身体で知っています。
だから、かぐやが「誰も幸せになってないじゃないですか、このバッドエンド!」とツッコミを入れる瞬間のカタルシスは、単なる爽快感ではありません。「推すことで物語は変えられる」——この世代が身体で知っているその感覚が、物語の形を借りてスクリーンに映し出された瞬間なのです。
筆者が最初に戸惑ったのは、まさにこの部分でした。推しているVTuberが成功していく過程に自分が関与し、その推した結果として自らが「本当にやりたかったこと」を見いだしていく——正直なところ自分はそういう経験をしてきませんでした。物語の「解像度」が上がらないまま観ていたのです。2回目に劇場で観たとき、ようやく観客の多くを占める若者の様子からその構造が腑に落ち、彩葉がかぐやの可能性を信じて動き続けるシーンの意味が、初めてちゃんと届いてきました。
「応援」の刹那性と、ほろ苦いカタルシス——『パリに咲くエトワール』の構造
一方、『パリに咲くエトワール』が劇場に呼び込んだのは、どちらかといえば映画好きの往年のアニメファン、あるいは谷口悟朗監督・吉田玲子脚本というスタッフ陣への信頼で足を運んだ層が中心だったように思います。そして、その客層の違いは、本作における「応援」の性格の違いをそのまま映し出しています。
そもそも本作の舞台は、20世紀初頭のパリです。異国に渡り、言語も文化も異なる環境の中で夢に向かう物語は、特定の国や世代に向けて設計されたものではなく、より普遍的な「人が夢を追う物語」として構想されています。その象徴が、キャラクター原案に近藤勝也氏を起用したことです。
スタジオジブリ作品を長年支えてきた近藤氏の絵柄は、かつてジブリ映画が見せてくれた「夢の質感」を本作に呼び込みました。結果として、その記憶を持つ往年のアニメファンや映画好きには深く刺さる一方で、作り手の意図とは別のところで、現代の若い世代との間にはある種の距離感が生まれることになりました。
それは時代背景の問題でもあります。本作の舞台はベル・エポック——19世紀末から第一次世界大戦開戦までの、パリが文化的に最も輝いた時期です。物語の終盤に向けて迫りくる戦争の影を読み取るには、この時代への一定の前提知識が求められます。
たとえば、千鶴の重要なメンターとなるロシア人バレリーナのオルガが、なぜ故国を離れてパリで暮らしているのか——そしてかつて戦火を交えた日本人とロシア人という関係性が、なぜパリという場所でかくも親密に結びつくのか。1904〜05年の日露戦争から1905年の第一次ロシア革命、そして帝政ロシアの崩壊(1917年)へと至る激動の歴史を知らなければ、彼女の沈黙や眼差しが帯びる重みは半減してしまいます。加えて谷口監督は、意図的に「セリフで全てを説明しない」演出を採用しており、脚本の吉田氏も「ふとした表情や、セリフがない部分でのキャラクターの芝居や動きで語る」作りを本作の特徴として挙げています。情報をセリフに頼らず映像と沈黙に託すこのスタイルは、映画の読解力を持つ観客にとっては豊かな体験をもたらす一方、そうした鑑賞経験が少ない若い層には物語の輪郭が掴みにくいという側面もあわせ持っています。
吉田氏の脚本が繊細に描くのは、「応援」の報われ方の歯切れを、意図的に悪くしていく物語です。
フジコや千鶴を取り巻く人々は、彼女たちの才能に気づき、きっかけを与えることはできても、成功を直接引き上げることはできません。日本もまた長い戦争の時代へと向かっていくことを思えば、千鶴がバレエで掴むものの輝きは、どこか刹那的なものにならざるを得ないことが観客には透けて見えます。フジコについても、エンドロールで紹介される彼女の作品群には戦争の暗い影が落ちていくことが示唆されており、夢を掴んだ先にも解消されない葛藤が最後まで残ります。
フジコのモデルとされる画家・藤田嗣治もまた、パリで名声を得ながら戦争に翻弄され、最終的に日本を離れてフランスに帰化した人物です。その史実を知る観客にとって、フジコの物語はさらに深い陰影を帯びます。同じく「誰かの夢を応援する物語」でありながら、『超かぐや姫!』のバッドエンドを笑いとともに書き換えるあの爽快なハッピーエンドとは、これほどまでに着地点が異なるのです。
そのほろ苦さの中で「それでも何かを掴んだ」という事実に、どこまで感情移入できるか——。それは、観客自身がどんな経験を積んできたかに、大きく依存していると思います。直接変えることのできない状況の中で、きっかけを渡すことしかできない、それでも関わり続けることを選ぶ——。大学で学生と向き合う教員でもある筆者にも、そういう記憶が少なからずあります。そうした記憶が呼び起こされたとき、本作のカタルシスはようやく全開になります。筆者が『パリに咲くエトワール』に素直に感情移入できたのは、おそらくそういうことでした。
「応援」の形が変わった時代に、2作が問うもの
この2作が2026年の春、同時に劇場にかかっているという事実は、「応援する」という行為の意味が世代によってすっかり異なるものになっていることを、くっきりと映し出しています。
映画・アニメビジネスメディア「Branc」の杉本穂高編集長が指摘するように(ITmedia NEWS、2025年9月)、近年の劇場映画はもはや単に物語を観に行く場所ではなく、推しのキャラクターを応援するライブ会場としての性格を帯びつつあります。
若い世代にとっての応援は双方向で、参加的で、数字として可視化され、推した側も変化していく。往年のファンにとっての応援は一方向で、間接的で、報われるかどうかわからない長い蓄積の中にある。どちらが「正しい」応援か、という話ではありません。ただ、どちらの応援の形においても、2作の主人公たちは「与えられた困難」ではなく「選び取った困難」を背負っています。
『親ガチャの哲学』の中で戸谷氏は、生まれた環境への絶望から抜け出すには「自分の人生を自分のものとして引き受けること」と「他者との連帯」が必要だと述べています。その処方箋を、2作は物語の形で実装しているのかもしれません。立川の郊外からバーチャルな世界へ、あるいは保守的な家庭からパリの街へ——。どちらの主人公も、与えられた運命を「ハズレ」と嘆くのではなく、そこから自分の意志で踏み出すことを選んでいます。そしてその一歩は必ず、誰かとの連帯によって支えられています。
その対比をもう一歩進めれば、2作はじつは「大きな物語」との向き合い方においても鮮やかに対称をなしています。
『超かぐや姫!』が転覆しようとするのは、日本人の誰もが知る『竹取物語』という「大きな物語」そのものです。「Ex-Otogibanashi」——おとぎ話を超えていく——というタイトルが示すように、本作は1000年以上も受け継がれてきた物語の結末を、若者たちの連帯と意志の力で書き換えることを高らかに宣言します。
対して『パリに咲くエトワール』の登場人物たちは、戦争や革命という歴史の奔流——誰にも変えられない「大きな物語」——には抗えません。ただ、その中で自分と、自分と連帯する人々だけの「小さな物語」を精一杯変えていく。このほろ苦い非対称性こそが、2作のカタルシスの質の違いを根底から規定しているのかもしれません。更に言えば後者の「小さな物語」を変えていく営みこそ、現実の世界に生きる私たちの多くが日々味わい、苦しみながらも何かを掴み取っていく過程と重なります。
興行成績では『超かぐや姫!』の圧倒的な数字に及ばない『パリに咲くエトワール』ですが、国民的映画となった『名探偵コナン』の公開後もスクリーンをなんとか維持しようとする映画館が少なくなく、映画ファンや上映館オーナーの静かな支持が広がっていることが窺えます。
「おとぎ話を超えていく」——『超かぐや姫!』の主題歌「Ex-Otogibanashi」が高らかに宣言するように、かぐやたちの物語を見届けた若い世代にも、ぜひ劇場に足を運んで『パリに咲くエトワール』を観ていただきたいです。緑黄色社会が歌う『パリに咲くエトワール』の主題歌「風に乗る」は、その名の通り、嵐の中でもしなやかに前へ進もうとする誰かの背中を、静かに押してくれるはずです。




