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ポスト・アポカリプス――宮崎駿的未来
あたらしい大作ゲームを遊び始めるときは、いつだって胸が高鳴る。まるであの遠い少年の日、ちいさな画面のテレビでファミコンソフトを起動したときのように。
そういうわけで、いまも色々なゲームを片っ端からプレイしているのだが、そうするとここ最近、中国や韓国から発売されたアニメ風のゲームは『アークナイツ』や『鳴潮』など、やたらに「ポスト・アポカリプス」に偏っている印象があることに気づく(『ブルーアーカイブ』も近いかも)。
ポスト・アポカリプスは、文字通りアポカリプス(黙示録的終末)のその後を描くジャンル。日本の作品でいうと、ゲームではないが宮崎駿監督の『風の谷のナウシカ』や『未来少年コナン』が相当するだろう。

いったいなぜ、中国や韓国発の大作ゲームでは、こういった「宮崎駿的未来」の亜種が頻繁に題材として選ばれるのだろう?
ライター:海燕

ジャンル横断エンタメライター。主にマンガ・アニメ・ゲーム・映画を題材に、読者が感じる違和感や評価の分かれ目を言葉にする記事を執筆。最近の仕事は『このマンガがすごい!2025』CLAMP特集、マルハン東日本「ヲトナ基地」連載など。
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ひとつの答えは、ゲームシステム的に「かつて、ある巨大な文明が存在し、崩壊した」設定が使いやすいからかもしれない。それはアメリカ発のゲームでも『Horizon Zero Dawn』『The Last of Us Part II』『Fallout 4』といったポスト・アポカリプスの超大作が発売されていることからも推測できる。
境い目のない広大な世界を、ひたすら自由に探索してゆくオープンワールドゲームや、それに類するアクションゲームにおいては、その各所に何らかの遺産やら遺跡やらが点在していることを合理的に説明できる設定は非常に使い勝手が良いのだ。
そういえば、しばしばビデオゲーム史上の最高傑作と称えられる名作『ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド』もまた、ある意味では崩壊世界後を描くポスト・アポカリプス・テーマの作品だった。
クロニック・キャンディ・アポカリプス――パステルカラーの終末
ただ、最近のアニメ風なルックを用いたソーシャルゲームは、そういった『ナウシカ』的な未来とは一風異なっている。たしかに壮絶な危機が常態化した未来なのだが、その見た目は一見して現代社会の肌触りを残しているのである。
たとえば、『アークナイツ』の世界「テラ」は、「源石(オリジニウム)」という名の万能のエネルギー源にともなう天災や、不治の病「鉱石病(オリパシー)」に脅かされる過酷な終末世界である。
しかし、作中に登場する移動都市の内部には、わたしたちがよく知るストリートファッションに身を包んだ美少女たちが佇み、ネオン輝く近代的なビル群のなかで最新のガジェットを操作している。
過酷な難民問題や差別問題といった極めてダークな世界観のなかに、現代的な若者文化のルックが砂糖菓子のようにデコレーションされているといえばいいだろうか。糖衣に包まれた劇薬のような世界観。
あるいは『鳴潮』の世界もその変種といえる。未知の災厄「悲鳴」によって文明の一部が崩壊し、怪異が跋扈する世界でありながら、プレイヤーが足を踏み入れる都市は、どこかスタイリッシュな近未来の中華風サイバー都市である。
人類の存亡を賭けた凄惨な戦いの合間に、キャラクターたちは洗練された衣服をまとい、美しいエフェクトを散りばめながら華麗に宙を舞う。
さらに、その文脈で考えるなら、『ブルーアーカイブ』まで視野に入ってくる。ストーリーの舞台となる学園都市キヴォトスは、一見すると青空と美少女、そして平穏な日常に満ちあふれた絵に描いたようなユートピア。
しかし、その背景には、主のいない「連邦生徒会」の不全、あちこちに転がる不発弾や銃撃戦、そして世界の崩壊を予感させる超自然的な脅威が常に張りついている。少女たちは頭上に輝く光輪を戴き、カジュアルに重火器を扱いながら、お気に入りのスイーツや部活動のために戦う。
そこにあるものは、終末の「記号」だけを抽出し、パステルカラーのかわいい日常でコーティングした、まさにキャンディ(砂糖菓子)めいた世界観なのだ。
わたしはこのような「甘い砂糖菓子につつまれた、ポスト・アポカリプス風の世界観」を、広く捉えて「クロニック・キャンディ・アポカリプス(慢性化した砂糖菓子の終末)」と呼んでいる。『ナウシカ』とも『マッドマックス』ともかなり異なる、一見あまったるい未来。
宮崎駿的未来といい、ポスト・アポカリプスとはいっても、そこには『北斗の拳』的な荒廃と過酷さは見て取れない。
それでは、なぜ未来社会を描く最近の大作ゲームは、クロニック・キャンディ・アポカリプスのような描写に帰着するのだろうか。ひとつには、現在から直線的に続いた先に未来を想像しづらくなっている事情がありそうである。
クロニック・キャンディ・アポカリプスの未来は、必ずしもディストピア(反ユートピア)というわけではない。完全に破滅しているわけでも、破綻しているわけでもないのだ。しかし、そこには、それにもかかわらず、紛れもなく終末のあとの世界だという歪みがある。
そのいびつさはどこから来ているのか? 単にゲームシステム上の都合というだけでは説明がつかないのではないだろうか。
そのことについて語るまえに、いままでSF作家たちがどのような未来を構想してきたか、「その他の未来像」を少し見てみよう。
クラシックSF――ヒューゴー・ガーンズバック的未来
その昔、SFの中心地アメリカでは、クラシックなSF小説が希望と可能性に充ちた未来を描写していた。ハインライン、アシモフ、クラーク、フレドリック・ブラウンなど、巨匠として知られる作家たちが繰り広げたイマジネーションの冒険は、しばしば異星人との邂逅やその先の発展を描いている。
また、『銀河帝国興亡史』『幼年期の終り』『月は無慈悲な夜の女王』『宇宙船ビーグル号の冒険』――宇宙にまで出ていく人類の活躍を描いたこの時代のSFは、今日の目で見てもなお強烈な魅力にあふれているといって良い。
こういった古典的作品群における未来像を、ここでは、最初期の代表的なSF作家にして編集者として知られる人物の名を取って「ヒューゴー・ガーンズバック的未来」と呼ぶことにしよう。
パルプ・フィクション雑誌から始まったガーンズバック的未来は、やがて雑誌とペーパーバックの枠を超えて広がっていく。たとえば、クラークの物語を天才監督スタンリー・キューブリックが映像化した映画『2001年宇宙の旅』は、いまなおSF映画の金字塔として記憶されている。
サイバーパンク――ウィリアム・ギブスン的未来
しかし、こういった楽観的なヴィジョンは、SFの黄金時代といわれた1940年代から50年代にひとつのピークを迎え、その後、60年代、70年代、80年代と世相の変化にともなって、次第に色褪せていった。
そんななか、ひとつの革命的なルックの映画が上映される。リドリー・スコット監督の『ブレードランナー』である。
この映画では、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を原作に、酸性雨が降りしきるなか、巨大企業が君臨するロサンゼルスで暗闘を繰り広げる「レプリカント(人造人間)」と「ブレードランナー」たちという、暗いヴィジョンが描かれた。かつてだれも見たことがなかったような「汚れた未来」が。
一方、文芸方面では、ウィリアム・ギブスンが1982年に短編『クローム襲撃』を、1984年に長編『ニューロマンサー』を発表している。衝撃的な文体で「サイバースペース」の冒険を描いたダークなセンスあふれる名作は、ヒューゴー賞、ネビュラ賞などSF小説の各賞を総なめにし、極めて大きな話題を呼んだ。
ギブスンらのうす汚れた未来を膨大な情報量で描いた作品は「サイバーパンク」と呼ばれ、そのダークでダーティーなヴィジョンで、ガーンズバック的未来にとどめを刺した。
続く90年代における「ポスト・サイバーパンク」と呼ばれる作品群の代表的な作家がニール・スティーヴンスンで、メタ社などが頻繁に使用する「メタヴァース」(メタバース)という表現は、彼の『スノウ・クラッシュ』で初出したものだ。
こういった、ネットと人体改造と仮想空間などといった多彩なアイディアに満ちたデカダンな未来像を、ここでは「ウィリアム・ギブスン的未来」と呼ぶことにしよう。
サスティナブルな文明――『∀ガンダム』が描き出す富野由悠季的未来
もちろん、一方には、そういったSF小説や映画が描くあるいはきらびやかな、あるいは暗く沈んだ未来ともまた違う未来像を描き出す作家もいる。
たとえば、わが日本の映像作家・富野由悠季がそうだ。『機動戦士ガンダム』や『伝説巨神イデオン』といったロボット・アニメーションで知られるこの異才は、未来においてもなお続く暗澹たる戦争を延々と描いていったのち、『∀ガンダム(ターンエーガンダム)』において新境地に到った。即ち、ある種の定常的な未来である。
『∀ガンダム』の世界では、過去の宇宙戦争の時代(黒歴史)を経て、人類の科学技術水準はほぼ19世紀あたりまで下降し、停滞している。さまざまな先進文明の遺産が残っているため、部分的には超テクノロジーが混ざっているものの、社会のベースは石油資源が枯渇してしまったそのあとの、慎ましくも豊かな農業社会なのだ。
『∀ガンダム』や、その精神的後継作である『Gのレコンギスタ』の文明世界は、サイエンス・ライターの北村雄一がいうところの「草文明」のヴィジョンに近いものがある。資本の暴走や過剰な科学の進歩を意図的にコントロールし、マシンの出力を制限して暮らす、いわば「減速主義」の社会。こういった未来を「富野由悠季的未来」と呼ぶことが可能だろう。
富野的未来も、やはりある種の終末後の世界を描いているので、宮崎的未来(ポスト・アポカリプス)の変種といえるかもしれない。だが、それは宮崎的未来ほど絶望的ではない。そこには、身の丈に合ったテクノロジーと付き合いながら人類が生き延びるための泥くさい知恵がある。
テクノ封建制――ピーター・ティール的現実、あるいは「クラウド農奴」としての日常
とはいえ、いまの現実世界は、この富野的な「減速主義」とは真逆の「加速主義」の方向へと突き進んでいる。現実がSFの夢(悪夢?)を模倣しつつ前進しているといってもいい。
いまや、ガーンズバック的未来もギブスン的未来も、すでに遠い過去のものとなった。その背景にある「加速主義」と呼ばれる思想は、技術革新を極限まで加速させ、資本主義の枠組みそのものを突破しようとする潮流である。そして、その最先端にいるのは、次に挙げる現実世界の巨人たちだ。
おそらく、あなたはイーロン・マスクをご存知だろう。いわずと知れたシリコンバレーのビリオネア(億万長者)のひとりで、自動車企業テスラや宇宙開発企業SpaceXといったグローバル大企業を率い、さまざまな意味で現在の世界に多大な影響を与えつづける大実業家である。
ピーター・ティールも、ご存知のことと思う。オンライン決済サービスPayPalの共同創業者であり、Facebookの初期投資家としても知られる、シリコンバレーの影のドンとまでいわれる男性だ。
このふたりには、一代で莫大な資産を築いた野心的な大物ということ以外にも、ひとつの共通点がある。SF小説や映画のファンであることを公言していることだ。たとえば、ティールが共同創業したIT企業「パランティア」の名称は、トールキンの『指輪物語』に登場する、すべてを見通す魔法の水晶から採られている。
彼らのような資本主義の覇者たちが造り出したヴィジョン――ただし、それは空想上の「未来」ではなく、あくまでたったひとつしかない現実だ――それを、ここでは「ピーター・ティール的現実」と呼ぶことにしよう。
ティール的現実は、ガーンズバック的未来とギブスン的未来の奇妙な混交物である。マスクやティールたちは、わたしたちの文明をさらにさらに加速させ、やがて文明を宇宙空間にまで進出させることを人類が進むべきルートとして主張する。
まずは火星、そして小惑星帯、さらには太陽系を脱出し、はるか銀河のその向こうへ――そういった彼らの主張からは、往年のSF的な壮大なロマン(まさにガーンズバック的未来!)を感じ取ることができるだろう。しかし、こういったロマンの裏側にある社会構造は、ギブスンが描いたメガコーポによる支配よりもはるかに極端だ。
異端の経済学者ヤニス・バルファキスは、現在のデジタル資本主義の極致を「テクノ封建制」と名づけた。現代のシリコンバレーのビリオネアたちは、もはや単なる資本主義的な市場の競争者ではない。インターネット空間という「プラットフォーム(領地)」そのものを所有し、そこで活動する人々から莫大な「レント(地代)」を取る、現代の「領主」ともいうべき巨大存在なのだ。
ホープパンク――アンディ・ウィアー的未来と「クロニック・キャンディ・アポカリプス」の祈り
そういったウルトラマッチョな超現実に対するひとつのアンサーとしてあるのが、ネット出身の作家アンディ・ウィアー原作のSF映画『プロジェクト・ヘイル・メアリー』だ。
地球が太陽光度低下による滅亡の危機に瀕した際、あるひとりの気弱な科学者が宇宙へ旅立つ物語で、近年のSFとしては例外的なほど、あかるく前向きな物語といえる。そのため、しばしばこの作品は「ホープパンク(希望のパンク)」に類する一作といわれることもある。
そこで、こういった、現代において科学への信頼とあかるい未来のかすかな可能性を描く未来像を「アンディ・ウィアー的未来」と呼びたい。
ウィアー的未来は、往年のガーンズバック的未来を現代によみがえらせたようにも見える。その意味では、ティール的現実と表裏のところもあるといって良いだろう。
だが、決定的に違う点がひとつある。『プロジェクト・ヘイル・メアリー』は、イーロン・マスクのようなテクノ・マッチョイズムとは正反対のオタク的気弱さから目を背けないのだ。
この長編の主人公は英雄的な天才ではなく、恐怖に震え、ただ生きて帰りたいと願うふつうの人間(と異星人)である。
もしも『オデッセイ』や『プロジェクト・ヘイル・メアリー』が、テクノ封建制の色を強める現実に対して希望を歌い上げるパンキッシュな抵抗でありえるとすれば、それはこの「人間らしい弱さ」を徹底して肯定しているからだ。
ティール的現実における科学は巨大資本と英雄的起業家たちの道具、しかしウィアー的未来における科学はかよわい人間たちが互いに助け合い連帯するための手段なのだ。ここには、たしかにほのかな希望がある。
ふたたびクロニック・キャンディ・アポカリプス
そう――そして、ここで、なぜいま、ゲームの世界で「クロニック・キャンディ・アポカリプス」がこれほどまでに流行するのかという冒頭のクエスチョンに戻ってみることにしよう。
それは、わたしたちがあまりにも過酷なティール的現実の息苦しさに疲れ果てているからではないだろうか。
直線的な未来の先には、少数のビリオネアに支配される暗い格差社会が見える(ティール的現実から続くギブスン的未来)。かといって、宇宙へ飛び出すホープパンクを実践するほどのバイタリティも(ガーンズバック的未来を再現するウィアー的未来)、経済成長を完全に捨てる覚悟も(富野的未来)、当然ながら持ちにくい。
だからこそ、「いったん文明が壊れたあとの世界」を夢想する(甘いシュガーコートにつつまれた宮崎的/ギブスン的未来、すなわち「クロニック・キャンディ・アポカリプス」!)。

クロニック・キャンディ・アポカリプスの世界は、宮崎的未来の亜種として、いかにも甘い。しかし、それは決して単なるレトロフューチャリズムへの逃避などではない。
資本主義の競争も、過酷な労働も、テクノ領主たちの支配も、すべてが一度リセットされ壊れてしまったそのあとも、世界は案外かわいく、楽しく続いてゆくという、あたらしい形での未来への切実な祈りなのだ。
楽観的だったガーンズバック的未来、頽廃と暗黒を感じさせるギブスン的未来、終末のその向こうを遠望する宮崎的未来、持続可能性を追求した富野的未来、暗い世相に希望を投げかけるウィアー的未来、そして、わたしたちを呑み込もうとするティール的現実。
それらのいずれとも微妙に異なる変形した宮崎的未来――クロニック・キャンディ・アポカリプスとは、すでに未来が壊れてしまった時代の、甘く加工された生存の意思である。
そこにあるものは、世界が終わってほしいという破滅願望などではない。むしろ、未来が壊れたあとでも、なお、だれかと出会い、食事をし、街を歩き、今日を楽しく過ごしたいという、あまりにもささやかな祈りにほかならない。
わたしたちの目の前に放り投げられたいくつものキャンディ――その味わいは、甘ったるくも、どこかふしぎとほろ苦い。



