「会ったことはないけれど、魔夜峰央先生は私の“恩師”」――千葉の女がMOVIXさいたまで「翔んで埼玉」を見た話
大事なことはだいたいみんな、魔夜作品から教わった。
2月22日公開の「翔んで埼玉」を、23日の昼間に見て来ました。普段はレイトショーかレディースデーで、土日昼間の映画館にはめったに行きません。ですが映画は公開の週末の動員が大事と聞いたので、「翔んで埼玉」に限っては、どうせ見るならできるだけ早くに行こうと決めていました。
どうしてかというと、それが少しは恩を返すことになるかなと思ったからです。
会ったことはないけれど、魔夜峰央先生は私の“恩師”だった
私は生まれてから35年間千葉で育ち、今は仕事の都合で東京の東の端で暮らしています。勤務先の本社が東京の北側にあるので、会社には埼玉在住の人がたくさんいます。埼玉に対して特段の感情は抱いていません。
ずいぶん昔、刊行されている魔夜峰央作品の全てを集めることに血道を上げていた時期がありました。
そもそもの始まりは叔父から『パタリロ!』と『ラシャーヌ!』を譲り受けたことです。その時点で確か『パタリロ!』が35巻くらいだったと思います。そのとき、私は9歳でした。
中学生になったくらいから、叔父からもらった『パタリロ!』の抜けている巻を探すと同時に、過去に刊行された魔夜作品の単行本を少しずつ買っていきました。その時点で品切れや絶版になっていたいくつかは、地道に古本屋で探しました。多分大学卒業くらいまでずっとそうしていました。
いつそれをやめたのかはっきりとは覚えていないのですが、『ファーイースト』を本屋で見つけたときにすでに刊行からだいぶ経っており、ああ気づかなかったのだ、と思ったことはよく覚えています。『ファーイースト』は2003年の発行で、私は社会人になっていました。
Amazonもない時代、長年の古本屋巡りがいかに楽しく奇跡的だったのかを書き始めると「翔んで埼玉」にたどり着かないので割愛しますが、「妖怪始末人トラウマ」シリーズのうちの1冊を木更津で見つけたことは特に印象深いです。一番苦労したのは『Vマドンナ』でした。
『やおい君の日常的でない生活』も、持っていました。私にとって「翔んで埼玉」はそれに収録された未完の短編でした。ご自身が埼玉から横浜に移住されたことによる未完――という魔夜先生の筋の通し方と合わせてよく覚えていました。
ですから、新装版の『翔んで埼玉』が平積みされているのを見つけた時にはびっくりしました。「なんで君が表題作になってるんだね?」としげしげと帯を読んだころには、私は千葉の住人ではなく、東京の住人になっていました。2015年末のことです。
私は漫画を雑誌でばかり読むせいかネットで話題になっている漫画に疎く、「翔んで埼玉」がたいへん盛り上がっていることも知りませんでした。こういうこともあるんだねぇとびっくりしましたが、本当にびっくりしたのはそれに伴う露出で魔夜先生が近年の窮状を話しているのを読んだときでした。
魔夜先生が大好きな宝石を売るほどに困窮していたと知ったとき、
「どうして言ってくださらなかったんだ」
そう思いました。
当たり前ですが知り合いでもなんでもないですし、一読者の私が魔夜先生の窮状を知る術などなく、知ったところでなにもできなかったでしょう。それでも私は魔夜先生がそんなことになっているのに何もしていなかった自分があまりにも恩知らずに思えました。
そしてそのとき、そうか、私は魔夜先生を恩師のように思っていたのかと気づきました。
大事なことはほとんど全部『パタリロ!』から教わった
学校で教わる以外の大事なことの大部分を、私は魔夜峰央作品、特に『パタリロ!』から学びました。
タロットカードも、魔界の四大実力者も、クトゥルフも、バタフライエフェクトも、タイムパラドックスも(これはドラえもんからも)、意味論も、他にも数え切れないほどたくさんのことを、例えば「白紙委任」の意味なんてささいなことまで、『パタリロ!』がなければ知らなかった。『パタリロ!』を通らなくてもいつか他の作品から知ったかもしれないけれど、『パタリロ!』を入り口に知った作品の方が多すぎて、その仮定は無意味なのでした。
そして、最近LGBTの話題に触れるにつけ、『パタリロ!』が自分の感じ方に多大な影響を与えていることを実感します。
子供のころから『パタリロ!』を読んでいた私は、親をはじめとする自分の周りの大人が男女で家族を作っている事実と全く矛盾を感じることなく、「世界のどこかには男がほぼ全員ゲイで、女がほぼ全員レズビアンのところがあるらしい。そしてその男女比は9:1である」と思っていました。男女比については「パタリロ!」の登場人物の男女比そのままの印象でしょう。
いくつものエピソードが、強く胸の中に残っています。
「人魚が出てきた日」では、人魚に恋をしたタマネギ72号が「わーい こいつ女が好きなんだって! 変態だー!」と言われます。多数派が変われば常識も変わる、迫害される側と迫害する側も変わる、あの1コマでそれを痛感しました。
それと、「ピンクダイヤは初恋の色」(ヒューイットに女の子から手紙が来る話です)。私はあれを読んで、ロリコン趣味の人は「幼い少女」を必ずしもひとりの人間として愛しているわけではないと知りました。人として愛した相手がたまたま少女だったという美しい話ではなく、その少女が大人になってしまったらなんであれダメ、つまり彼らが求めているのは愛する人ではなくただ少女であるというその事実なのだと知りました。
これを読んだとき、私はまだ少女と言える年齢でした。
「FLY ME TO THE MOON」や「忠誠の木」や「はぐれタマネギ」……すぐに思い出せる名だたる名エピソードの他にも、覚えていないほど私の深い深い根になっている多くの作品を生み出してくれた魔夜先生は、直接教えを仰いだことはなくても私の恩師です。
だからそんな人が困っていたなら、私はどれほどささやかでも、1冊買う単行本を2冊買う程度であっても、何かすべきだった。本気で自分が情けなく思いました。
今度こそ、なるべく早く「翔んで埼玉」の上映館の一席を埋めに行こう、興行収入とかよくわからないけれど、割引などがない時間帯に行こうと地元の映画館に行ったのです。
魔夜先生はまたひとつ、新しいことを教えてくれた
映画「翔んで埼玉」にはものすごいパワーが宿っていました。そして不思議なことに、その圧倒的なパワーを作り上げるひとつひとつの粒子が、潰れて混ざって消えることなく、一粒ずつ粒立って存在し続けているように感じました。この映画に関わる有機的なもの無機的なもの全てが、自分自身にしかできないことを全力でこの作品に捧げている。そう思いました。
映画の最初、タイトルが大写しになったときにはもう、そのスケールの大きさに少し泣きそうになりました。『やおい君の日常的でない生活』のうしろでひっそり未完だったあの短編がこんなにも大きな物語になっている。魔夜先生がたったひとりで生み出した漫画が、ものすごい数の人たちによって映画になった。
物語も、衣装も、役者も、監督も、カメラも、画面も、セットも、小道具も、なにもかもが愛とリスペクトとそれ以上のものすごい熱量で「翔んで埼玉」に、魔夜先生が生み出したあの桁外れの虚構に挑んで、他ならぬ「翔んで埼玉」を作り上げていました。エンドロールの最後の最後まで。
魔夜ワールドと完全に一致する美意識を余すところなく全開にして、高校生を演じてくれたGACKTさんはもちろん、百美を男の子のまま演じたいと言ってくれた二階堂ふみさんには足を向けて寝られません。映画オリジナルの阿久津翔を演じる伊勢谷友介さんが、これがまた原作にいないと信じられないくらいぴったりでたまらなくて、氷のミハイルが実写になる際はぜひ伊勢谷さんにお願いしたいと確信するほど。長い間名前だけしか知らなかった埼玉デュークが、あああなただったんですねと瞬時に納得する京本政樹さんの存在感と美しさ。
終映後、私は「埼玉 一番大きい映画館」と検索して、翌日のMOVIXさいたまのチケットを取りました。
自己満足の「魔夜先生のため」ではなく、このすさまじい作品を今度は自分自身が思いっきり楽しむために。
翌日、おそらくはほぼ埼玉県民で満員のMOVIXさいたまで、2回目の鑑賞をしました。周囲の「ああー」という納得の声や、示し合わせたように起きる笑い、そしてなにより、終映後に湧き上がった拍手に、来てよかった、と思いました。拍手をしに行ったんです。やっぱりささやかで、私がしてもしなくても変わらない、出演者にも制作者にも届かない拍手を、私はこの映画にどうしても捧げたかった。
大きな大きな虚構の中で、関わる人の全てが自分にしかできない役割を果たした物語は、全く別の人生を送る現実の私たちひとりひとりに対して、不思議な普遍性を宿していました。それぞれがきっと自分の生まれた場所を思い、日々の理不尽を思い、最後は胸を熱くする。それでもその物語が、ただ自分の人生を省みて共感に浸るためだけの装置に堕していないのは、やっぱり魔夜先生の生み出した圧倒的な虚構の力でしょう。
少しネタバレになってしまいますが、ラストシーンに映る人たちの服装にグッと来ました。宝塚的な世界観で画面を覆い尽くしていた虚構が、千差万別の現実の人生と交わる象徴的なシーンだと思いました。
全編にちりばめられた埼玉あるあるの小ネタについては埼玉の人に譲ります。埼玉県民がこの映画を見て感じる楽しさは、他県民のそれと比べて別次元でしょう。千葉育ちの私も千葉の軍勢に「あー!」と思うところがあって楽しかっただけに、埼玉の人がこれを見たらどれほど楽しいか想像もつかない。今初めて埼玉県民が羨ましい!
(でも私は千葉が埼玉と張るなんて思ってないです一度でも大宮駅見たらそんなおこがましいこと言えない。新幹線止まる駅はやっぱり違う最初見たとき仙台かと思った。あと駅ナカecuteだし駅ビルルミネだし駅前に高島屋とそごうとマルイとハンズあるし。千葉は駅ビルペリエだし千葉パルコも千葉三越も撤退してしまった……)
MOVIXさいたまを出たとき、さいたまスーパーアリーナの開場待ちの時間つぶしでしか行ったことがなかったコクーンシティの夜景が、これまでとは全く違う輝きをまとっていました。魔夜先生からまたひとつ、新しいことを教わりました。
ito
30代女。気質はオタクですがここ数年特定の推しがいないため人生が暇です。
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