大事なことは“笠”で隠す 漫画『月影ベイベ』は「笠地蔵」以来の笠作品の金字塔である

人はこんなにも笠でドキドキしてしまうのです。

» 2017年09月01日 08時00分 公開
[黒木 貴啓ねとらぼ]
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

 笠ってこんなに人をドキドキさせるものだろうか。

 漫画『月影ベイベ』の話だ。『坂道のアポロン』の小玉ユキが、富山八尾の伝統舞踊「おわら」を題材に高校生や大人たちの切ない恋愛模様を描いた長編。2013年に連載開始し、2017年5月の最終9巻で大団円を迎えた。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 『月影ベイベ』第9巻 (C)小玉ユキ/小学館 (第1話試し読み

 この作品、おわらの衣装の1つである“笠”が、登場人物や読者を惑わせる小道具として最初から最後まで登場し続ける。ときには色っぽく、ときにはミステリアスに。第1巻でその笠の魅力にやられた筆者は、その年にはもうおわらの本番「おわら風の盆」を見に富山八尾まで足を運んでいた。最終巻も読みながら心の中で何度も「笠ぁぁぁぁぁぁ」と叫んでいた。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 2014年のおわら風の盆(筆者撮影)。笠、良かった……

 今年(2017年)も例年通り、9月1日〜3日にかけ「おわら風の盆」が開かれる。同作がいかに笠を用いて「おわら」の美しさと物語を引き立てているのか、そしてなぜ「『笠地蔵』以来の笠作品の金字塔」なのかを紹介しよう。

笠が“隠す”ことで生まれる色気や不安

 富山八尾の高校に転入してきた少女・蛍子(ほたるこ)は、東京から来たのになぜか「おわら」が地元の上級者並にうまく踊れる。でも人前ではガッチガチに緊張して踊れない。そんな彼女が教室で人目をしのんで踊る姿を目撃した、八尾男児の光(ひかる)。自分の胸を熱くしたおわらをもっと踊ってほしいと、周囲と壁を作る蛍子にぐいぐい迫る。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 1巻・2巻。表紙の女の子が蛍子、男の子が光

 だけど蛍子には、もっと大きな謎があった。光のおじさん・円(まどか)と、人には言えない関係を持っているようなのだ。

 初めて蛍子と円が出くわしたとき、2人はハッと頬を赤く染め、見つめ合い、立ち尽くす。東京にいた知り合いの娘、と円は関係を教えてくれるが、「円くんに会いたくてこの町に来たの」と蛍子。明らかに知り合い以上の仲だ。なのに多くは語らない。禁断の愛を想像し、心をかきみだされる光。それでも蛍子におわらを踊ってほしくてフォローを続けるが、次第に恋の気持ちも芽生えていく。

 そんな謎を抱えた蛍子にとって重要なアイテムが、笠。

 おわらの菅笠(すげがさ)は半月型で、非常に深い作りをしている。かぶると表情が見えなくなり、うなじが強調され、踊りに妖艶な魅力をもたらす欠かせない衣装なのだ。通常かぶるのは「おわら風の盆」など主要イベントの本番などで、地区ごとの練習や学校での体育のおわらの時間はあまりかぶらない。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 おわらの笠

 蛍子は人前でおわらを踊ろうとすると体が固まって全然うまくいかないが、笠をかぶると周囲からの視線が遮られてあまり緊張しない。というわけで練習時でも常に笠をかぶる、“変わった東京もん”として八尾での生活を始めるのだ。

 物語ではこの笠が“表情を隠す”ことで、大きなドキドキ効果が生まれる。

 序盤、公民館で光が蛍子と2人きりでおわらの練習をする際。蛍子に笠をかぶせながら、「おじさんとどういう関係ながけ」と尋ねてしまう。「言ってほしい?」と顔を覆ったままこっちを向いて答える蛍子。「言わないわよ」「これは私の秘密じゃなくてあなたのおじさんの秘密だから」。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 笠が、蛍子の秘密をふくらます

 どんな表情かわからない。2人の関係だけでなく、それを隠す意図、本心さえもちっとも見えてこない。彼女が何を秘めているのか、不安、好奇心がますます膨らみ、光と一緒にこちらも切なくなってしまう。

 こんな風に笠はあらゆる場面で、登場人物の顔を隠す。蛍子が地元の子に「笠が脱げないなら一人で練習して」と仲間はずれにされ、ぽつんと踊っているとき。体育祭の本番前に緊張している蛍子を、笠をかぶった光が安心させてくれるときも、頼もしさだけでなく色気も感じさせてドキッとする。

 表情が見えないからこそ、キャラがどんな感情なのかあれこれ想像してしまい、より気持ちが盛り上がってしまうのだ。

笠は“心の壁” 不器用なヒロインのコミュニケーションツール

 笠は、人間関係づくりが不器用な蛍子と、それを気遣う光の、コミュニケーションの道具としても活躍しまくる。

 町全体のおわらの講習会に、初めて蛍子が参加するとき。会場には地元の人たちがいっぱい、みんな私服なのに一人だけ体操着で来てしまい、アウェー感のあまり蛍子は入口の陰で縮こまる。そこへ光が登場。ある出来事のせいで2人は非常に気まずい状態だったのだが、見るに見かねた光がTシャツを貸してくれることに。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠

 光が消え、蛍子も複雑な気持ちでTシャツを着て、顔をあげると、目の前にさりげなく笠が引っ掛けてある。緊張することを見越していたのか、光が笠を持参して何も言わずに置いていったのだ。笠を手に取り、頬を染めてしばらく立ち尽くした後、「馬鹿じゃないの」とつぶやく蛍子。光よ、グッジョブ、笠グッジョブ。

 そもそもあがり症の対策として笠をかぶるよう提案したのは、光。都会からやってきたばかりの蛍子が一人だけ笠を着用するのを、地元の女の子たちも感じ悪く思ったりするが、仕方ない事情があることを説明しようと光は奔走する。

 笠は、秘密を抱え込んで八尾の人々に打ち解けられない、蛍子の“心の壁”の象徴だ。光は秘密に胸をチクチク痛ませながらも、その心の壁ごと蛍子を受け入れ、思いやって行動する。誰もいない教室で見事なおわらを踊っていた、本当の蛍子の姿も知っているから。そうやって2人の心の距離が徐々に縮まっていく様子が、笠を通して深みをもって表現されるのだ。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 最終9巻のワンシーン。笠の熱盛ラッシュである

 もともと小玉ユキという作家は、登場人物の心情を小道具で描写するのが抜群にうまい。

 『坂道のアポロン』では意地っ張りな男子高生2人が、がさつなドラムと神経質なピアノ、それぞれ得意な楽器のジャズセッションを通してわだかまりを解消していく。短編連作『光の海』では、いつも同性のルームメイトからもらっていたアメ玉が、その子へひそかに抱いていた恋心の象徴として描かれる。アメ玉を見るたびに押し殺していた気持ちがよみがえり、なかなか溶け消えてくれない。

 感情を直接的にではなく、別のモチーフで間接的に示す。だからキャラたちの友情や恋愛が、よりいじらしく響く。そんな小玉ユキの小道具づかいが、笠として炸裂しているのが『月影ベイベ』なのだ。

月影ベイベ 小玉ユキ おわら 漫画 笠 シンプルの線で描かれるおわらは、切手にしたいほど美しい

 小玉ユキのシンプルな線は、おわらの指先までピタッと止めるポージングや幾何学的な八尾の町並みを美しく描いている。多いときで月1回は八尾に足を運んだという綿密な取材は、おわらと共にある暮らしを生き生きと写し出している。本作はおわら作品の金字塔としても後世に残るだろうが、中でも笠を使った演出が光っているのは間違いない。

 何を隠そう、笠が一番いい仕事をみせるのは最終巻。「おわら風の盆」本番とともに光や蛍子たちの恋愛劇もクライマックスを迎えるのだが、表情、しぐさ、見たくてしょうがない大事な部分を、笠が隠す、隠す。あまりにも秀逸な焦らしっぷりに、登場人物に「笠」を加えてほしいくらい。笠にドキドキする新体験が、おわらの奥ゆかしい美しさが、あなたを待っている。

(C)小玉ユキ/小学館

黒木貴啓


Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

昨日の総合アクセスTOP10
  1. /nl/articles/2411/19/news150.jpg 「情報を漏らされ振り回され……」とモデラー“限界声明” Vtuberのモデル使用権を剥奪 「もう支えられない」「全サポート終了」
  2. /nl/articles/2411/20/news028.jpg 「うどん屋としてあるまじきミス」→臨時休業 まさかの“残念すぎる理由”に19万いいね 「今日だけパン屋さんになりませんか」
  3. /nl/articles/2411/20/news224.jpg “ドームでライブ中”に「76万円の指輪紛失」→2日後まさかの展開に “持ち主”三代目JSBメンバー「誰なのか探しています」
  4. /nl/articles/2411/19/news169.jpg 高畑充希と結婚の岡田将生、インスタ投稿めぐり“思わぬ議論”に 「わたしも思ってた」「普通に考えて……」
  5. /nl/articles/2411/20/news031.jpg 「本当に同じ人!?」 幼少期からイボをいじられていた男性→美容師の“お任せカット”が衝撃 「めちゃくちゃ大変身」
  6. /nl/articles/2411/19/news022.jpg 「おててだったのかぁああああ」「同じ解釈の人いた笑笑」 ピカチュウの顔が“こう見えた”再現イラストに共感続々、464万表示
  7. /nl/articles/2411/20/news042.jpg 「腹筋崩壊」 ハスキーをシャンプー&パックしたら…… “予想外のハプニング”に「こ〜れは大変だわ」「沼にでも落ちたのかとwww」
  8. /nl/articles/2411/20/news216.jpg “歌姫”ののちゃん、6歳現在の姿に驚きの声「あれっ!?」「ビックリしてます!」 2歳で「童謡こどもの歌コンクール」銀賞受賞
  9. /nl/articles/2411/20/news041.jpg 黄ばみのある68年前のウエディングドレスを修復すると…… 生まれ変わった姿に「泣いた」「受け継ぐ価値のあるドレス」
  10. /nl/articles/2411/18/news107.jpg 走行中の車から同じ速さで後方へ飛び降りると? 体を張った実験に反響「問題文が現実世界で実行」【海外】
先週の総合アクセスTOP10
  1. 「飼いきれなくなったからタダで持ってきなよ」と言われ飼育放棄された超大型犬を保護→ 1年後の今は…… 飼い主に聞いた
  2. ドクダミを手で抜かず、ハサミで切ると…… 目からウロコの検証結果が435万再生「凄い事が起こった」「逆効果だったとは」
  3. 「明らかに……」 大谷翔平の妻・真美子さんの“手腕”を米メディアが称賛 「大谷は野球に専念すべき」
  4. まるで星空……!! ダイソーの糸を組み合わせ、ひたすら編む→完成したウットリするほど美しい模様に「キュンキュンきます」「夜雪にも見える」
  5. 妻が“13歳下&身長137センチ”で「警察から職質」 年齢差&身長差がすごい夫婦、苦悩を明かす
  6. 人生初の彼女は58歳で「両親より年上」 “33歳差カップル”が強烈なインパクトで話題 “古風を極めた”新居も公開
  7. 「ごめん母さん。塩20キロ届く」LINEで謝罪 → お母さんからの返信が「最高」「まじで好きw」と話題に
  8. 互いの「素顔を知ったのは交際1ケ月後」 “聖飢魔IIの熱狂的ファン夫婦”の妻の悩み→「総額396万円分の……」
  9. ユニクロが教える“これからの季節に持っておきたい”1枚に「これ、3枚色違いで買いました!」「今年も色違い買い足します!」と反響
  10. 中央道から「宇宙戦艦ヤマト」が見える! 驚きの写真がSNSで注目集める 「結構でかい」「どう見てもヤマト」 撮影者の心境を聞いた
先月の総合アクセスTOP10
  1. 50年前に撮った祖母の写真を、孫の写真と並べてみたら…… 面影が重なる美ぼうが「やばい」と640万再生 大バズリした投稿者に話を聞いた
  2. 「食中毒出すつもりか」 人気ラーメン店の代表が“スシローコラボ”に激怒 “チャーシュー生焼け疑惑”で苦言 運営元に話を聞いた
  3. フォロワー20万人超の32歳インフルエンサー、逝去数日前に配信番組“急きょ終了” 共演者は「今何も話せないという状態」「苦しい」
  4. 「顔が違う??」 伊藤英明、見た目が激変した近影に「どうした眉毛」「誰かとおもた…眉毛って大事」とネット仰天
  5. 「ごめん母さん。塩20キロ届く」LINEで謝罪 → お母さんからの返信が「最高」「まじで好きw」と話題に
  6. 星型に切った冷えピタを水に漬けたら…… 思ったのと違う“なにこれな物体”に「最初っから最後まで思い通りにならない満足感」「全部グダグダ」
  7. 「泣いても泣いても涙が」 北斗晶、“家族の死”を報告 「別れの日がこんなに急に来るなんて」
  8. ジャングルと化した廃墟を、14日間ひたすら草刈りした結果…… 現した“本当の姿”に「すごすぎてビックリ」「素晴らしい」
  9. 母親は俳優で「朝ドラのヒロイン」 “24歳の息子”がアイドルとして活躍中 「強い遺伝子を受け継いだ……」と注目集める
  10. 「幻の個体」と言われ、1匹1万円で購入した観賞魚が半年後…… 笑っちゃうほどの変化に反響→現在どうなったか飼い主に聞いた