大事なことは“笠”で隠す 漫画『月影ベイベ』は「笠地蔵」以来の笠作品の金字塔である
人はこんなにも笠でドキドキしてしまうのです。
笠ってこんなに人をドキドキさせるものだろうか。
漫画『月影ベイベ』の話だ。『坂道のアポロン』の小玉ユキが、富山八尾の伝統舞踊「おわら」を題材に高校生や大人たちの切ない恋愛模様を描いた長編。2013年に連載開始し、2017年5月の最終9巻で大団円を迎えた。
この作品、おわらの衣装の1つである“笠”が、登場人物や読者を惑わせる小道具として最初から最後まで登場し続ける。ときには色っぽく、ときにはミステリアスに。第1巻でその笠の魅力にやられた筆者は、その年にはもうおわらの本番「おわら風の盆」を見に富山八尾まで足を運んでいた。最終巻も読みながら心の中で何度も「笠ぁぁぁぁぁぁ」と叫んでいた。
今年(2017年)も例年通り、9月1日〜3日にかけ「おわら風の盆」が開かれる。同作がいかに笠を用いて「おわら」の美しさと物語を引き立てているのか、そしてなぜ「『笠地蔵』以来の笠作品の金字塔」なのかを紹介しよう。
笠が“隠す”ことで生まれる色気や不安
富山八尾の高校に転入してきた少女・蛍子(ほたるこ)は、東京から来たのになぜか「おわら」が地元の上級者並にうまく踊れる。でも人前ではガッチガチに緊張して踊れない。そんな彼女が教室で人目をしのんで踊る姿を目撃した、八尾男児の光(ひかる)。自分の胸を熱くしたおわらをもっと踊ってほしいと、周囲と壁を作る蛍子にぐいぐい迫る。
だけど蛍子には、もっと大きな謎があった。光のおじさん・円(まどか)と、人には言えない関係を持っているようなのだ。
初めて蛍子と円が出くわしたとき、2人はハッと頬を赤く染め、見つめ合い、立ち尽くす。東京にいた知り合いの娘、と円は関係を教えてくれるが、「円くんに会いたくてこの町に来たの」と蛍子。明らかに知り合い以上の仲だ。なのに多くは語らない。禁断の愛を想像し、心をかきみだされる光。それでも蛍子におわらを踊ってほしくてフォローを続けるが、次第に恋の気持ちも芽生えていく。
そんな謎を抱えた蛍子にとって重要なアイテムが、笠。
おわらの菅笠(すげがさ)は半月型で、非常に深い作りをしている。かぶると表情が見えなくなり、うなじが強調され、踊りに妖艶な魅力をもたらす欠かせない衣装なのだ。通常かぶるのは「おわら風の盆」など主要イベントの本番などで、地区ごとの練習や学校での体育のおわらの時間はあまりかぶらない。
蛍子は人前でおわらを踊ろうとすると体が固まって全然うまくいかないが、笠をかぶると周囲からの視線が遮られてあまり緊張しない。というわけで練習時でも常に笠をかぶる、“変わった東京もん”として八尾での生活を始めるのだ。
物語ではこの笠が“表情を隠す”ことで、大きなドキドキ効果が生まれる。
序盤、公民館で光が蛍子と2人きりでおわらの練習をする際。蛍子に笠をかぶせながら、「おじさんとどういう関係ながけ」と尋ねてしまう。「言ってほしい?」と顔を覆ったままこっちを向いて答える蛍子。「言わないわよ」「これは私の秘密じゃなくてあなたのおじさんの秘密だから」。
どんな表情かわからない。2人の関係だけでなく、それを隠す意図、本心さえもちっとも見えてこない。彼女が何を秘めているのか、不安、好奇心がますます膨らみ、光と一緒にこちらも切なくなってしまう。
こんな風に笠はあらゆる場面で、登場人物の顔を隠す。蛍子が地元の子に「笠が脱げないなら一人で練習して」と仲間はずれにされ、ぽつんと踊っているとき。体育祭の本番前に緊張している蛍子を、笠をかぶった光が安心させてくれるときも、頼もしさだけでなく色気も感じさせてドキッとする。
表情が見えないからこそ、キャラがどんな感情なのかあれこれ想像してしまい、より気持ちが盛り上がってしまうのだ。
笠は“心の壁” 不器用なヒロインのコミュニケーションツール
笠は、人間関係づくりが不器用な蛍子と、それを気遣う光の、コミュニケーションの道具としても活躍しまくる。
町全体のおわらの講習会に、初めて蛍子が参加するとき。会場には地元の人たちがいっぱい、みんな私服なのに一人だけ体操着で来てしまい、アウェー感のあまり蛍子は入口の陰で縮こまる。そこへ光が登場。ある出来事のせいで2人は非常に気まずい状態だったのだが、見るに見かねた光がTシャツを貸してくれることに。
光が消え、蛍子も複雑な気持ちでTシャツを着て、顔をあげると、目の前にさりげなく笠が引っ掛けてある。緊張することを見越していたのか、光が笠を持参して何も言わずに置いていったのだ。笠を手に取り、頬を染めてしばらく立ち尽くした後、「馬鹿じゃないの」とつぶやく蛍子。光よ、グッジョブ、笠グッジョブ。
そもそもあがり症の対策として笠をかぶるよう提案したのは、光。都会からやってきたばかりの蛍子が一人だけ笠を着用するのを、地元の女の子たちも感じ悪く思ったりするが、仕方ない事情があることを説明しようと光は奔走する。
笠は、秘密を抱え込んで八尾の人々に打ち解けられない、蛍子の“心の壁”の象徴だ。光は秘密に胸をチクチク痛ませながらも、その心の壁ごと蛍子を受け入れ、思いやって行動する。誰もいない教室で見事なおわらを踊っていた、本当の蛍子の姿も知っているから。そうやって2人の心の距離が徐々に縮まっていく様子が、笠を通して深みをもって表現されるのだ。
もともと小玉ユキという作家は、登場人物の心情を小道具で描写するのが抜群にうまい。
『坂道のアポロン』では意地っ張りな男子高生2人が、がさつなドラムと神経質なピアノ、それぞれ得意な楽器のジャズセッションを通してわだかまりを解消していく。短編連作『光の海』では、いつも同性のルームメイトからもらっていたアメ玉が、その子へひそかに抱いていた恋心の象徴として描かれる。アメ玉を見るたびに押し殺していた気持ちがよみがえり、なかなか溶け消えてくれない。
感情を直接的にではなく、別のモチーフで間接的に示す。だからキャラたちの友情や恋愛が、よりいじらしく響く。そんな小玉ユキの小道具づかいが、笠として炸裂しているのが『月影ベイベ』なのだ。
小玉ユキのシンプルな線は、おわらの指先までピタッと止めるポージングや幾何学的な八尾の町並みを美しく描いている。多いときで月1回は八尾に足を運んだという綿密な取材は、おわらと共にある暮らしを生き生きと写し出している。本作はおわら作品の金字塔としても後世に残るだろうが、中でも笠を使った演出が光っているのは間違いない。
何を隠そう、笠が一番いい仕事をみせるのは最終巻。「おわら風の盆」本番とともに光や蛍子たちの恋愛劇もクライマックスを迎えるのだが、表情、しぐさ、見たくてしょうがない大事な部分を、笠が隠す、隠す。あまりにも秀逸な焦らしっぷりに、登場人物に「笠」を加えてほしいくらい。笠にドキドキする新体験が、おわらの奥ゆかしい美しさが、あなたを待っている。
(黒木貴啓)
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