INDEX
「今後の日本映画で、これ以上のものが観られるのだろうか」。『ゴジラ-0.0(ゴジラマイナスゼロ)』を観て思ったのは、それほどのことである。

アカデミー賞で視覚効果賞を受賞した前作『ゴジラ-1.0』をも超えるVFXのクオリティーとスケール感は、掛け値なしに「日本映画の最高到達点」だ。もはや狂気すら感じられる画の連続には、文字通り脳が疲弊するほどのインパクトがある。
ライター:ヒナタカ

アニメとインディーゲームが好きで映画ならなんでも観る雑食系ライター。「All About ニュース」「マグミクス」「NiEW」のほか、新たに「ダ・ヴィンチWeb」でも連載を開始。オールタイムベスト映画は『アイの歌声を聴かせて』
X:@HinatakaJeF
note:@hinatakajef
ドラマパートの難点は据え置き。またアメリカでR指定になるほどの描写に注意
ただし、前作『ゴジラ-1.0』でも批判が多かった「ドラマパートでの大仰な演技・演出」「物語上のツッコミどころ」という難点が据え置き、いや後述する場面では悪化しているようにさえ思えたのも事実だ。それらが気になるか、ならないかで、評価が大きく分かれるだろう。前作で良かった所はより良くなり、悪かった所はより悪くなるというピーキーな続編である。
なお、物語は前作『ゴジラ-1.0』からの完全な「続き」であり、そちらの事前の鑑賞はほぼ必須だ。そして、前作の比ではないほどにセンシティブなテーマへ果敢に踏み込んでいる「攻めた」内容でもあり、それが大きな評価点になる一方で、やはり前作より賛否を呼ぶ要因にもなるだろう。
また、アメリカでは「一部に暴力的な表現や流血を伴う描写が含まれている」ことを理由に、ゴジラ映画史上初となるR指定(17歳未満は保護者の同伴が必要)のレーティングとなった。日本ではG(全年齢)指定に止まっているし、苛烈な描写から逃げなかった姿勢そのものを称賛する人も多いはずだが、それでも必要以上にショッキングに感じる人もいるだろうし、小さなお子さんの鑑賞には注意した方が良いだろう。
「Filmed For IMAX」が伊達ではなかった
本作はぜひ、IMAXで鑑賞することをおすすめしたい。何しろ本作は日本映画初の「Filmed For IMAX」。つまりは「IMAXでの上映を想定して制作された」作品であり、実際にIMAX上映では、スペクタクルや“空間”を意識させる場面で画面が上下に広がる。劇場パンフレットでは、IMAXの画面アスペクト比を意識した撮影や美術の工夫が語られており、その甲斐あっての「そこにいる」かのようなゴジラの巨大さや重圧さに圧倒された。
ゴジラの体表のシワまではっきり見える高精細の映像もIMAXならではであるし、何より「音圧」が凄まじく、後述する「ゴジラ史上最恐」とさえ言えるバトルの恐怖や臨場感を数段階も上げている。加えて、こちらも日本映画史上初となる「IMAXカウントダウン映像」が『ゴジラ-0.0』仕様になっており、本編への期待度をさらにあげてくれるだろう。
「正直IMAXで観なくてもいいかな」と思える映画もある中で、この『ゴジラ-0.0』は『オデュッセイア』に並ぶほど「IMAXで観る価値」があると断言する。
さて、ここからは『ゴジラ-0.0』の内容に踏み込んで解説していく。決定的なネタバレは避けたつもりだが、それでも結末に至る「印象」には触れていること、そして予告編で完全に隠されている「とある要素」について、(山崎貴監督自身がニューヨーク映画祭での上映後に明かしていることもあって)ハッキリ記している点はご容赦いただきたい。それをサプライズとして受け取りたい人は、先に映画館へ駆けつけてほしい。
※以下、『ゴジラ-0.0』の予告編で完全に隠されている要素、および一部展開に触れています。なお、前作『ゴジラ-1.0』のネタバレもあるため、ご注意ください。
恐ろしすぎる「対決」
本作の序盤のあらすじは、復活したゴジラに対して人類が再び立ち上がる……ことではなかった。前作から2年後の1949年、まるでドラゴンのような新たな怪獣「ギドラ」が出現し、そのギドラを殲滅するための作戦を実行に移すのだから。
もちろん、その作戦の先ではしっかりゴジラも復活して、「キングギドラ」との対決へと発展する。つまり、本作『ゴジラ-0.0』は、平成ゴジラシリーズに通ずる「VS」ものであり、1991年の『ゴジラvsキングギドラ』的な内容でもあったのだ。劇場パンフレットで山崎貴監督は、「単純にキングギドラが好きなんです」と打ち明けたり、1964年の『三大怪獣 地球最大の決戦』に対しての「小学生の時の思いを成就できるチャンス」と無邪気な思い入れを語っていたりもする。
しかしながら、そのキングギドラの描写は、無邪気とはほど遠く「ガチ」で恐ろしい。過去の映画のキングギドラは「操られる」役割が担わされたり、なんならコミカルに見える時もあったりしたが、今回は「こんなヤツにどうやって勝つんだ!?」という絶望感が半端ではなく、一方的な破壊と暴力をフルスイングで見せつけてくれるし、『トップガン マーヴェリック』を思わせる戦闘機の見せ場も素晴らしい。クライマックスでは、とてつもない「重量感」を感じさせる「怪獣同士のぶつかり合い」と、さらに「それ以上」の画の連続で、思わず拍手したくなるほどの衝撃があった。
また、その「怪獣プロレス」を成立させる過程において、ゴジラ映画ではしばしば人間が「添え物」のように扱われがちな問題に直面していたが、本作では前作『ゴジラ-1.0』に続き、巨大怪獣の脅威に立ち向かう人間たちの視点を主体としつつ、しかも作戦そのものもファンタジーになりすぎない科学的な理屈付けも(やや強引ではあるが)されている。
その甲斐あって、前作でも活躍した技術士官の野田健治(吉岡秀隆)は準主役と言っていい活躍と存在感であるし、新たに登場した天才気象予報官の青山真琴(長澤まさみ)が抱えた後悔や「それでも」な姿勢も重要になっていた。作戦に打ち込む人たちの尋常ではない努力をスピーディに、定点カメラで捉えて見せたシーンも感動的だ。山崎貴監督自身、脚本執筆で意識したことについて、劇場パンフレットで「人間も物語に介入し、怪獣とちゃんと対する存在にしたかった」と語っており、その狙いはしっかり達成されていた。
『オッペンハイマー』のアンサーとも言える「反戦・反核」のメッセージ
本作で「攻めて」いて、なおかつ意義深いのは、「反戦・反核」のメッセージが強烈なまでにぶつけられていることだろう。何しろ、1945年8月6日に原子爆弾が投下された広島の光景がはっきり映し出されている。そのために心に深い傷を追う生物学者・村上寛治(田中泯)の“とある「恐ろしい考え」”は、人によってはさらにショッキングに映ったことだろう。
1954年の『ゴジラ』から、ゴジラは「水爆実験により生み出された」という設定であり、他の映画でもゴジラ自身が「人類の悪しき歴史」のメタファーのように捉えられる存在であったが、今回は「核(ゴジラ)を利用する」人間の罪をも描いている。特に、前作のラストで「ゴジラ細胞」に侵食されるも生き残った敷島典子(浜辺美波)にまつわる事柄は、夫の浩一(神木隆之介)の言動がさすがに極端に思えるところはあれど、現実にあり得る為政者の浅ましさ、はたまた戦争そのものの愚かさへの風刺として納得できるものだった。
なお、村上を演じた田中泯は、山崎貴監督の『アルキメデスの大戦』では、造船中将・平山忠道を演じており、今回の役とは地続き、あるいは表裏一体とも言える。物語の結末部分でも、今回の『ゴジラ-0.0』と「リンク」しているとも言えるので、併せて観てみるのもいいだろう。
さらに、山崎貴監督は前作『ゴジラ-1.0』での第96回アカデミー賞・視覚効果賞を受賞後のバックステージインタビューで、「『オッペンハイマー』に対するアンサーの映画は、僕の個人的な思いとして、いつか本当に日本人として作らなければいけないんじゃないかと感じています」と話していたことがある。まさに今回の『ゴジラ-0.0』がアンサーになったと、「核を保持する人間」の描写から思う人は多いのではないだろうか。
前作から続く演技・演出の問題が顕在化したシーン
そのように(少しずつ引っかかる場面はあれど)掛け値なしに称賛したいポイントの多い『ゴジラ−0.0』だが、やはり気になってしまったのは演技・演出、そしてセリフ回しだ。「舞台劇を見ているかのような、感情が大きく乗っているのに理屈っぽい言葉」がどうにも不自然で、前作以上に没入感を著しく下げてしまうのが残念だった。
それでも、スペクタクルシーンでの苛烈な状況は前作以上のため、大きく声を荒げたりしても気にならないし、これはこれで分かりやすくする大衆向けのエンタメとしてはアリにも思えてくるのだが……それでも、後半の孤児院でのセリフと演出は「子役が自分たちの状況を説明する」「それを聞いて周りの子役たちもさめざめと泣く」という度を超えた不自然さで、子役たちの力量を軽んじているようにさえ思えて非常にガッカリさせられた。娘の明子役の永谷咲笑が続投しており、文字通りの成長を見られるのは嬉しいのだが……。
比較で語るのはお行儀がよくないことだと分かっているのだが、この『ゴジラ-0.0』と同じく、「白組」が戦後直後の世界をVFXで構築し、そして戦争孤児たちの過酷なサバイバルを描いた映画『わたしの知らない子どもたち』が劇場公開中で、そちらが「本当に戦後で生きようとしていた子どもたち」にしか見えない自然さだったため、どうしてもその落差が目立ってしまった。
演技・演出の他にも、時間の経過や長い距離の移動が「飛んだ」ように思えるところもあるし、被害状況に対しての列車の運行などの事情も飲み込みづらいところがある。さらに、ゴジラとキングギドラの対決の後の動向は、興味深くはあるのだが、そちらに「流れ」で安易にスライドしているように思えて、それまでの積み重ねに対しての結末の処理が「雑」に見えてしまうのも残念だった。
また、主人公の敷島浩一の極端な言動には、やはり気持ちが入りきらない、どうにも共感を阻むものがある。前作『ゴジラ-1.0』での「目当ての人物を呼び寄せるために誹謗中傷の手紙をまく」様もさすがにやりすぎに感じてしまったが、今回も意図的なものにせよ、やや悪い意味で好きになれなかったのだ。
さらに、個人的に大いに引っかかったのは、ラストの「選択」だ。それまでの葛藤や状況からすれば、「その状況でその場所に行けるの?」「そっちを選ぶの?」と悪い意味で驚いてしまったし、その時の演技に限らない映像面での演出も「泣け」と言わんばかりの大仰さで、気持ちがすっかり冷めてしまったのだ。もちろん、このラストの選択そのものを肯定する人もいるだろうが……。
そうした箇所で、筆者個人としてはどうしても「もったいない」という印象を持ってしまった。VFXのクオリティーは掛け値なしに日本映画の最高到達点であるし、ゴジラの迫力も、キングギドラの恐ろしさも、反戦・反核のメッセージをハッキリと掲げる挑戦も、しっかり作品として結実している。それなのに、脚本はもっとブラッシュアップができそうに思えたり、前作でも批判が多かった演技・演出で「気にさせてしまった」のだから。
それでも、やはりこの『ゴジラ-0.0』は、リアルタイムの今の映画館で観てほしいと心から願える作品であるし、IMAXで観れば最良の形で作品を体験できるのも間違いない。上記の難点が気にならない人もいるだろう。
なお、列車の場面で、とある有名な映画監督がカメオ出演しており、その「新聞の見出し」が実に示唆的というか、「今後のゴジラ映画はひょっとすると……」と想像できるのも面白い。この最高到達点の先にどんなゴジラ映画が待ち受けているのか、そこにも期待したい。



