自分のことを知らない世界で生きる 宇宙移民の困難な現実を描く漫画『バクちゃん』を今こそ勧めたい(1/2 ページ)

【1話試し読みつき】移民の現実を描き出す、切なくて温かい物語。

» 2020年06月13日 20時00分 公開
[高島鈴ねとらぼ]
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

今こそ増村十七『バクちゃん』を勧めたい

 今一番人に勧めたい漫画は何かと聞かれたら、それは増村十七『バクちゃん』(KADOKAWA)であると、私は即答します。本当は黙って読者の皆さんの家のポストに『バクちゃん』1巻を入れて回りたいぐらいですが、もちろんそんなことはできないので、せめて同作の魅力をここで説明し、皆さんが『バクちゃん』を手にとってくれるよう期待してみたいと思います。


バクちゃん 増村十七『バクちゃん』(KADOKAWA)

 『バクちゃん』は、バクの星から地球にやってきた移民の少年・バクちゃんを主人公にした物語です。バクちゃんの故郷であるバクの星では、バク星人が必要とする「夢」が枯渇してしまい、子どもたちはみな別の星で夢を探して生きていかねばならない状況になっています。移住を迫られたバクちゃんは、すでに東京に移住しているおじを追い、たったひとりで東京にやってきたのでした。初めて目の当たりにする地球に戸惑いながら、バクちゃんは懸命に新しい生活を始めます。


バクちゃん 電車に戸惑うバクちゃん (c)増村十七/KADOKAWA

移民をとりまく現実

 『バクちゃん』のすばらしいところは、現実から少しずらした形で、移民を取り巻く現実を伝えている点です。

 「元気だしな バクちゃん/出会うべき人とは 会えず 思ってもいない 人間と出会う よくあることさ 俺たち移民には/だからバクちゃん/今ある 君の……/君だけの 出会いを/大切に することさ」


バクちゃん おじの友人・ウルフに励まされるバクちゃん (c)増村十七/KADOKAWA

 これはバクちゃんのおじの友人・ウルフが、おじに会いに来たものの行き違いになってしまったバクちゃんを励まして言うせりふです。ウルフもまた移民です。この言葉には、複雑な意味が込められています。一つは、移民という立場がそうでない人に比べて「選択肢のない」存在であるということです。そしてもう一つは、それでもバクちゃんには明るい未来があるはずだということです。

移民と「選択肢のなさ」

 前者の意味について考えてみます。「出会うべき人とは会えず 思ってもいない人間と出会う」とは、「出会うべき人とだけ出会って生きていく」ことができない状態を遠回しに表現しています。それは一つの不自由です。誰しも多少は同種の不自由を持っていますが、移民は移民でない人に比べて、希望を叶えるための選択肢を持ちにくい傾向が顕著です。言葉の壁、学歴・職歴に対する評価の差、就労の困難、そして差別と偏見。バクちゃんは地球の永住権がほしいと考えていますが、永住権の取得には5年以上の就労かつ10年以上の滞在が必要です(特例あり)。移民が新天地で生きていくことは、決して簡単なことではありません。この事実は、作中も現実も同じです。


バクちゃん 地球にはバク星人に対する偏見がある (c)増村十七/KADOKAWA

 移民の困難に対して、「嫌なら帰ればいい」と言う声は、残念ながら少なくないでしょう。しかし、移民のほとんどは「好きだ/嫌だ」というような基準で地球に来ているわけではないのです。区民館で働く移民のひとり、サリーさんの話は、それをよく物語っています。

 サリーさんは、バクちゃんが履歴書の書き方を習いに来た区民館で掃除係をしている人物です。遅くまで残って履歴書を書き続けるバクちゃんは、サリーさんの仕事を手伝うと申し出ます。しかしサリーさんは「移民 仕事が大事/私 仕事ない 困るからね」と言って断りました。戦争で故郷の星をまるごと失ったサリーさんにとっては地球以外に行く場所はなく、就労していない移民が土地に根を張ることは極めて困難だからです。

 サリーさんは大阪の大学に行った息子や横浜で働く娘の話を、とてもうれしそうに語ります。しかしバクちゃんの「27年いて/地球は好き?」という質問には、長い沈黙の後で一言「選択肢 ないよ(ノーチョイス)」と答えるだけでした。サリーさんの沈黙には、これまでサリーさんが見てきた過酷な経験と、それを少しずつ温めてきたたくさんの思い出とがせめぎあっていたのだと思います。


バクちゃん サリーさんには選択肢がなかった (c)増村十七/KADOKAWA

 バクちゃんもまた、楽しい気分や素直な期待だけで移民をしてきたわけではありませんでした。バクちゃんは家族に「バクちゃん この星 捨ててもいいからね」と言われて星を出てきたことを、満員電車の中で泣きながら思い出します。「星を捨てる」。強い言葉です。故郷を離れることは、それだけ重い決断です。そしてこの重い決断をバクちゃんが選んだのは、決して星が「嫌になった」というような、気持ちの問題ではありません。自らの合理性の中では、ほかに選択肢がなかったから、来た。それだけなのです。

新天地での出会い

 ウルフのアドバイスについて、もう一方の意味を考えてみます。ウルフがバクちゃんに伝えた「今ある 君の……/君だけの 出会いを/大切に することさ」というアドバイスは、移民を取り巻く現実に対するほんのりとしたあきらめが混じった言葉ですが、同時にバクちゃんはきっとよい出会いにも恵まれるはずであるという励ましでもあります。

 バクちゃんにとって最初の「よい出会い」は、列車の中で偶然出会った名古屋出身の女の子・ハナでした。行き場のなかったバクちゃんは、その場の流れでハナの下宿に連れていかれ、そのままハナと生活をともにすることになります。ハナはバクちゃんの住民票の取得を手伝い、銀行口座がなく携帯電話を借りられないバクちゃんのために電話番号を貸すなどして、生活基盤作りを助けてくれました。

 また、先に触れたおじの友人・ウルフや、バクちゃんが初めてのアルバイト先で出会った高校生・ダイフクも、バクちゃんと不思議な絆を持つことになります。

 ハナに連れられて雨の街を走ったこと。住民票を取得する途中で出会った別の星の人たちと遊んだこと。大家さんが用意してくれた手巻き寿司を、みんなで食べたこと。夜の街でダイフクと夢を味わったこと。地球での出会いは、少しずつバクちゃんの世界を広げていきました。

 そしてバクちゃんと関わった相手もまた、バクちゃんとの出会いで他者の現実を知るようになります。

「この世界では全然少ないんだ/バクちゃんをバクちゃんと認めるものが」

「世界と繋がりあえる線の数/この場所で生きていけるという感触が 私たちよりずっと」

「どんな気持ちだろ/自分のこと知らん世界で暮らしていくのは」


バクちゃん ハナはバクちゃんの現実に気付く (c)増村十七/KADOKAWA


バクちゃん 「自分のこと知らん世界」で生きていく (c)増村十七/KADOKAWA

 ハナはバクちゃんの生活を助ける中で、バクちゃんが「自分のこと知らん世界」で生きていることに気付きます。それはとてつもない不安であり、実生活上の脅威でした。ハナにとってバクちゃんとの出会いは、他者の現実を知る契機となったのでした。

バクちゃんの隣人になる

 やわらかく不安定な線で描かれた画面全体に漂っている、なんともいえない心細さが、同作においてはとても重要であるように思います。どこに何があるかわからない、相手が何を考えているのかわからないなかで、バクちゃんが懸命に暮らしていることが伝わってくるからです。一方には、ビザの名目が厳密に求められるように、そこに「いる」ことに対して説明が必要とされる、存在の保証のなさがあります。そして一方には、苦いものを含みながらささやかに積み重ねられる思い出があります。どれも一人の人間が見た現実です。

 『バクちゃん』を読むことは、バクちゃんの隣人になることです。読者は漫画を通じてバクちゃんに出会い、バクちゃんの現実を知ることになります。決して楽ではなく、しかし苦しいばかりではない複雑な現実に立ち会うのは、簡単なことでも、軽いことでもありません。受け止めるのに時間がかかる人も多いことでしょう。しかし、隣人の現実の重みに耐えかねて困り、自分には何ができるのか迷うことこそ、きっと一番必要なことではないかと思います。

 同作のオリジナル版(※注1)は、現実世界にも連続する移民をめぐる状況を描いた冒険譚として、第21回文化庁メディア芸術祭で新人賞を獲得しました。作者の増村十七さんは、カナダへの移民経験を持ち、『バクちゃん』にはその経験が反映されているといいます。『バクちゃん』に描かれたことが実際にすぐそばで起きている可能性について、読者は常に念頭に置かねばならないでしょう。

 『バクちゃん』は現在「コミックビーム」で連載中です。現在1巻まで発売されています。一人でも多くの人がバクちゃんに出会うことを、一読者、つまり一人のバクちゃんの隣人として、心から祈っています。

注1……『バクちゃん』は、第21回文化庁メディア芸術祭で新人賞を獲得したオリジナル版をもとに、『コミックビーム』で連載化された作品です。

       1|2 次のページへ

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

昨日の総合アクセスTOP10
  1. /nl/articles/2502/01/news016.jpg 消波ブロックの隙間にカニカゴを仕掛けたら…… 「うそでしょ!」“想像を絶する結果”に大興奮「見てて声出た」
  2. /nl/articles/2501/31/news050.jpg 「許されると思ってんの?」 スマホのアラームを設定→翌朝…… “絶望の通知内容”が430万表示 「ほんとこれ」
  3. /nl/articles/2502/02/news005.jpg 「正直破格です」 成城石井の元店長が辞めてからも買い続ける“名品”がリピ必至 「ヨダレが出そう」
  4. /nl/articles/2501/31/news013.jpg これは“1秒”で解きたい! 「8×2×0÷4」の答えは? 【算数クイズ】
  5. /nl/articles/2502/01/news047.jpg 【編み物】彼氏のために、緑と黄緑の毛糸を正方形に編んでつなげると…… 圧巻のおしゃれな大作完成に「息をのむほどすばらしいよ」
  6. /nl/articles/2502/02/news069.jpg 「レベル間違えてる」 イオンの“1944円恵方巻”、衝撃ビジュアルにネット大騒然 「なにこれ」「本気かよ」
  7. /nl/articles/2502/02/news038.jpg 100均ビーズをどんどんテグスに通していくと…… うっとり見入る完成品に世界が注目「これは傑作」「どれも可愛いいい!」
  8. /nl/articles/2502/02/news003.jpg 「こんなお母さんになりたい」 北海道で暮らす67歳女性の“手作り料理”がすてき 「参考にしたい」「ぱぱっと作ってみな美味しそう」
  9. /nl/articles/2502/02/news027.jpg 「この子はきっと豆柴サイズ」と言われた子柴犬、4年後の姿が大きな話題に…… それから約1年たった“現在の様子”を聞いた
  10. /nl/articles/2501/30/news003.jpg 親の反対を押し切り、17歳で同棲を開始→それから13年後…… 若くしてママとなった女性の“現在”が話題
先週の総合アクセスTOP10
  1. 風呂に入ろうとしたら…… 子どもから“超高難易度ミッション”が課されていた父に笑いと同情 「父さんはどのようにしてこのお風呂に入るのか」
  2. DIYで室温が約10℃変わった「トイレの寒さ対策」が310万再生 コスパ最強のアイデアへ「天才!」「これすごくいい」
  3. 岡田紗佳、生配信での発言を謝罪 「とても不快」「暴言だと思う」「残念すぎ」と物議
  4. スーパーで買った半玉キャベツの芯を植え、5カ月育てたら…… 農家も驚く想像以上の結末が1300万再生「凄い」「感動した」
  5. 東京藝大卒業生が油性マジックでサンタを描いたら? 10分で完成したとんでもない力作に「脱帽です」「本当にすごい人」
  6. 定年退職の日、妻に感謝のライン → 返ってきた“言葉”が約200万表示 大反響から7カ月たった“現在の生活”を聞いた
  7. 【ヤフオク】“3万円”で購入した100枚の着物帯 →現役着付師が開封すると…… “まさかの中身”に驚き
  8. 「立体的に円柱を描きなさい」→中1の“斜め上の解答”に反響「この発想は天才」「先生の優しさも感じます」 投稿者に話を聞いた
  9. 「すんごい笑った」 “干支を覚えにくい原因”を視覚化したイラストが勢いありすぎで1700万表示の人気 「確かにリズム全然違う!」
  10. 母親から届いた「もち」の仕送り方法が秀逸 まさかの梱包アイデアに「この発想は無かった」と称賛 投稿者にその後を聞いた
先月の総合アクセスTOP10
  1. ドブで捕獲したザリガニを“清らかな天然水”で2週間育てたら…… 「こりゃすごい」興味深い結末が195万再生「初めて見た」
  2. 「配慮が足りない」 映画の入場特典で「おみくじ」配布→“大凶”も…… 指摘受け配給元謝罪「深くお詫び」
  3. 母「昔は何十人もの男性の誘いを断った」→娘は疑っていたが…… 当時の“モテ必至の姿”が1170万再生「なんてこった!」【海外】
  4. 風呂に入ろうとしたら…… 子どもから“超高難易度ミッション”が課されていた父に笑いと同情 「父さんはどのようにしてこのお風呂に入るのか」
  5. 母親から届いた「もち」の仕送り方法が秀逸 まさかの梱包アイデアに「この発想は無かった」と称賛 投稿者にその後を聞いた
  6. 市役所で手続き中、急に笑い出した職員→何かと思って横を見たら…… 衝撃の光景が340万表示 飼い主にその後を聞いた
  7. 「ごめん母さん。塩20キロ届く」LINEで謝罪 → お母さんからの返信が「最高」「まじで好きw」と話題に
  8. DIYで室温が約10℃変わった「トイレの寒さ対策」が310万再生 コスパ最強のアイデアへ「天才!」「これすごくいい」
  9. 「こんなおばあちゃん憧れ」 80代女性が1週間分の晩ご飯を作り置き “まねしたくなるレシピ”に感嘆「同じものを繰り返していたので助かる」
  10. 岡田紗佳、生配信での発言を謝罪 「とても不快」「暴言だと思う」「残念すぎ」と物議