自分のことを知らない世界で生きる 宇宙移民の困難な現実を描く漫画『バクちゃん』を今こそ勧めたい(1/2 ページ)
【1話試し読みつき】移民の現実を描き出す、切なくて温かい物語。
今こそ増村十七『バクちゃん』を勧めたい
今一番人に勧めたい漫画は何かと聞かれたら、それは増村十七『バクちゃん』(KADOKAWA)であると、私は即答します。本当は黙って読者の皆さんの家のポストに『バクちゃん』1巻を入れて回りたいぐらいですが、もちろんそんなことはできないので、せめて同作の魅力をここで説明し、皆さんが『バクちゃん』を手にとってくれるよう期待してみたいと思います。
『バクちゃん』は、バクの星から地球にやってきた移民の少年・バクちゃんを主人公にした物語です。バクちゃんの故郷であるバクの星では、バク星人が必要とする「夢」が枯渇してしまい、子どもたちはみな別の星で夢を探して生きていかねばならない状況になっています。移住を迫られたバクちゃんは、すでに東京に移住しているおじを追い、たったひとりで東京にやってきたのでした。初めて目の当たりにする地球に戸惑いながら、バクちゃんは懸命に新しい生活を始めます。
移民をとりまく現実
『バクちゃん』のすばらしいところは、現実から少しずらした形で、移民を取り巻く現実を伝えている点です。
「元気だしな バクちゃん/出会うべき人とは 会えず 思ってもいない 人間と出会う よくあることさ 俺たち移民には/だからバクちゃん/今ある 君の……/君だけの 出会いを/大切に することさ」
これはバクちゃんのおじの友人・ウルフが、おじに会いに来たものの行き違いになってしまったバクちゃんを励まして言うせりふです。ウルフもまた移民です。この言葉には、複雑な意味が込められています。一つは、移民という立場がそうでない人に比べて「選択肢のない」存在であるということです。そしてもう一つは、それでもバクちゃんには明るい未来があるはずだということです。
移民と「選択肢のなさ」
前者の意味について考えてみます。「出会うべき人とは会えず 思ってもいない人間と出会う」とは、「出会うべき人とだけ出会って生きていく」ことができない状態を遠回しに表現しています。それは一つの不自由です。誰しも多少は同種の不自由を持っていますが、移民は移民でない人に比べて、希望を叶えるための選択肢を持ちにくい傾向が顕著です。言葉の壁、学歴・職歴に対する評価の差、就労の困難、そして差別と偏見。バクちゃんは地球の永住権がほしいと考えていますが、永住権の取得には5年以上の就労かつ10年以上の滞在が必要です(特例あり)。移民が新天地で生きていくことは、決して簡単なことではありません。この事実は、作中も現実も同じです。
移民の困難に対して、「嫌なら帰ればいい」と言う声は、残念ながら少なくないでしょう。しかし、移民のほとんどは「好きだ/嫌だ」というような基準で地球に来ているわけではないのです。区民館で働く移民のひとり、サリーさんの話は、それをよく物語っています。
サリーさんは、バクちゃんが履歴書の書き方を習いに来た区民館で掃除係をしている人物です。遅くまで残って履歴書を書き続けるバクちゃんは、サリーさんの仕事を手伝うと申し出ます。しかしサリーさんは「移民 仕事が大事/私 仕事ない 困るからね」と言って断りました。戦争で故郷の星をまるごと失ったサリーさんにとっては地球以外に行く場所はなく、就労していない移民が土地に根を張ることは極めて困難だからです。
サリーさんは大阪の大学に行った息子や横浜で働く娘の話を、とてもうれしそうに語ります。しかしバクちゃんの「27年いて/地球は好き?」という質問には、長い沈黙の後で一言「選択肢 ないよ(ノーチョイス)」と答えるだけでした。サリーさんの沈黙には、これまでサリーさんが見てきた過酷な経験と、それを少しずつ温めてきたたくさんの思い出とがせめぎあっていたのだと思います。
バクちゃんもまた、楽しい気分や素直な期待だけで移民をしてきたわけではありませんでした。バクちゃんは家族に「バクちゃん この星 捨ててもいいからね」と言われて星を出てきたことを、満員電車の中で泣きながら思い出します。「星を捨てる」。強い言葉です。故郷を離れることは、それだけ重い決断です。そしてこの重い決断をバクちゃんが選んだのは、決して星が「嫌になった」というような、気持ちの問題ではありません。自らの合理性の中では、ほかに選択肢がなかったから、来た。それだけなのです。
新天地での出会い
ウルフのアドバイスについて、もう一方の意味を考えてみます。ウルフがバクちゃんに伝えた「今ある 君の……/君だけの 出会いを/大切に することさ」というアドバイスは、移民を取り巻く現実に対するほんのりとしたあきらめが混じった言葉ですが、同時にバクちゃんはきっとよい出会いにも恵まれるはずであるという励ましでもあります。
バクちゃんにとって最初の「よい出会い」は、列車の中で偶然出会った名古屋出身の女の子・ハナでした。行き場のなかったバクちゃんは、その場の流れでハナの下宿に連れていかれ、そのままハナと生活をともにすることになります。ハナはバクちゃんの住民票の取得を手伝い、銀行口座がなく携帯電話を借りられないバクちゃんのために電話番号を貸すなどして、生活基盤作りを助けてくれました。
また、先に触れたおじの友人・ウルフや、バクちゃんが初めてのアルバイト先で出会った高校生・ダイフクも、バクちゃんと不思議な絆を持つことになります。
ハナに連れられて雨の街を走ったこと。住民票を取得する途中で出会った別の星の人たちと遊んだこと。大家さんが用意してくれた手巻き寿司を、みんなで食べたこと。夜の街でダイフクと夢を味わったこと。地球での出会いは、少しずつバクちゃんの世界を広げていきました。
そしてバクちゃんと関わった相手もまた、バクちゃんとの出会いで他者の現実を知るようになります。
「この世界では全然少ないんだ/バクちゃんをバクちゃんと認めるものが」
「世界と繋がりあえる線の数/この場所で生きていけるという感触が 私たちよりずっと」
「どんな気持ちだろ/自分のこと知らん世界で暮らしていくのは」
ハナはバクちゃんの生活を助ける中で、バクちゃんが「自分のこと知らん世界」で生きていることに気付きます。それはとてつもない不安であり、実生活上の脅威でした。ハナにとってバクちゃんとの出会いは、他者の現実を知る契機となったのでした。
バクちゃんの隣人になる
やわらかく不安定な線で描かれた画面全体に漂っている、なんともいえない心細さが、同作においてはとても重要であるように思います。どこに何があるかわからない、相手が何を考えているのかわからないなかで、バクちゃんが懸命に暮らしていることが伝わってくるからです。一方には、ビザの名目が厳密に求められるように、そこに「いる」ことに対して説明が必要とされる、存在の保証のなさがあります。そして一方には、苦いものを含みながらささやかに積み重ねられる思い出があります。どれも一人の人間が見た現実です。
『バクちゃん』を読むことは、バクちゃんの隣人になることです。読者は漫画を通じてバクちゃんに出会い、バクちゃんの現実を知ることになります。決して楽ではなく、しかし苦しいばかりではない複雑な現実に立ち会うのは、簡単なことでも、軽いことでもありません。受け止めるのに時間がかかる人も多いことでしょう。しかし、隣人の現実の重みに耐えかねて困り、自分には何ができるのか迷うことこそ、きっと一番必要なことではないかと思います。
同作のオリジナル版(※注1)は、現実世界にも連続する移民をめぐる状況を描いた冒険譚として、第21回文化庁メディア芸術祭で新人賞を獲得しました。作者の増村十七さんは、カナダへの移民経験を持ち、『バクちゃん』にはその経験が反映されているといいます。『バクちゃん』に描かれたことが実際にすぐそばで起きている可能性について、読者は常に念頭に置かねばならないでしょう。
『バクちゃん』は現在「コミックビーム」で連載中です。現在1巻まで発売されています。一人でも多くの人がバクちゃんに出会うことを、一読者、つまり一人のバクちゃんの隣人として、心から祈っています。
注1……『バクちゃん』は、第21回文化庁メディア芸術祭で新人賞を獲得したオリジナル版をもとに、『コミックビーム』で連載化された作品です。
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