なぜ日本は偏差値が嫌いなのに使い続けるのか 考案した元・中学教員が語った“生徒のために作った偏差値が悪者になるまで”(3/3 ページ)

» 2020年03月04日 20時00分 公開
[キグロねとらぼ]
前のページへ 1|2|3       

昭和36年、偏差値が広まる転機

 桑田氏は、偏差値を同僚たちと共有しましたが、生徒には秘密にしていました。理由の1つは当時、「人間の知能は生まれたときすでに決まっている」と広く信じられていたことです。もし生徒に自分の偏差値を教えてしまったら、それが「あなたはこの程度の知能の持ち主で、この程度の生き方しかできない人間だよ」という宣告になってしまうかもしれません。それは避けたい、というのが桑田氏の想いでした。

 しかし、箝口令を敷いたわけではありませんでした。そのため、「あの中学では桑田先生が考案した画期的な方法で受験指導をしているらしい」といううわさが徐々に広まり、偏差値の存在が知られるようになります。

 転機―― それも良くない転機が訪れたのは、昭和36(1961)年のことです。

 それまで桑田氏は、テストのたびに偏差値を一人でコツコツと手作業で計算していました(当時はまだ、コンピュータは普及していませんでした)。ところが、出入りのテスト業者である進学研究会が、「うちのテストを使ってくれたら、代わりに偏差値を計算します」と申し出てきました。桑田氏はこれ幸いと、その申し出を受けます。

 2年後の昭和38年、桑田氏は進学研究会に転職し、偏差値を社内で啓蒙します。間もなく偏差値は、点数と順位に代わって、テストの成績や進学情報を表す主要な方法となりました。桑田氏はこのときもなお、偏差値は生徒に知らせるべきでないと考えていました。しかし、同社のテストを利用していた多くの学校の先生たちは、そうではありませんでした。

 偏差値は、便利だったのです。生徒たちに直接その値を見せれば、努力目標が明確になるのですから。

「反偏差値」キャンペーン

 昭和40年代の半ばを過ぎた頃には、地方のテスト業者や学習塾などによって、全国津々浦々にまで偏差値が広まります。

 そして昭和50年12月、ついに読売新聞の一面に、このような見出しが躍ります。

 「高校入試に跋扈する偏差値

 内容的には偏差値の定義や計算方法を説明したもので、それほど扇動的なものではありませんでした。しかし翌日から、各社が後を追います。

 「広がる“偏差値騒ぎ”――入試基準にした例も」「いま学校で――中学生」「教育を追って――

 新聞社が足並みをそろえて「反偏差値」キャンペーンを打ち出したのです。

 このきっかけとなったのは、これらより少し前に発行された朝日新聞社の教育総合雑誌『のびのび』(昭和50年12月号)でした。そこには、このように書かれていました。

 「高校受験の季節。いまの中学校では偏差値という名の数字が猛威をふるい、中三の生徒を、優越感、劣等感、ねたみ、不安、いらだち……の渦にまきこんでいます。進学テストの結果によってはじき出されるこの数字は、生徒をふりわけ、先生はこの数字に基づいて進路指導をおこないます

 さらに同雑誌は、首都圏の大部分の国・私立高校合格者の偏差値平均を載せていました。現代の私達にとってはおなじみの「東大の偏差値は72」などというあれです。これは、桑田氏が最も忌避していた使われ方でした。

「情報を作る人・偏差値を使う人の品性の問題である」

 桑田氏は『よみがえれ、偏差値』の中で、このことについて次のように書いています。

 「私は偏差値をこういう形で使われるのを最も嫌ってきた。心が失われるからである。だから、私自身はもちろん、私の力の及ぶところでは絶対に作ることを許さなかった。二十年も前のものであるにせよ、本書に引用してよいものかどうかずいぶん迷ったほどだ。

 こういうやり方は、人前に、人を顔の美醜の順に一列に並べさせるようなもので最も慎むべき行為である。ことに教育にかかわる者は、もっと心を大切にしなければならないと思っている」(『よみがえれ、偏差値』P.232〜233)

 桑田氏は偏差値の本来の使い方を広める活動を始めました。しかし「反偏差値」の波はすでに大きく広がり、それまで喜んで使っていた先生たちや受験生たちも非難し始め、平成に入ると当時の文部大臣までもが「反偏差値」を語りだしました。

 偏差値は本来、教員の勘に頼った不合理な受験の仕組みから生徒を救い、科学的合理的にその人の持つ可能性を教えてくれるものだったはずです。それがなぜ、世間の非難を浴びるようになってしまったのでしょうか。

 桑田氏はこの理由を、「心」がなくなったからだろう、と述べ、次のように続けています。

 「もともと教育という営みは、教師と生徒の心の通い合いによって支えられて成り立ってきた。とりわけわが国のように儒教的文化が底流になっている教育風土では、科学技術が目覚ましい進歩を遂げて高度な情報化社会になった今日でも、そうした関係の要求はほとんど変わっていない。偏差値も、教師がそろばんや電卓と計算尺で作っていたときには、意識のなかにはつねに子どもたちの顔があったし、できあがったそれには教師の汗の臭いや手のぬくもりが感じられたものだ

 「偏差値の品性が悪くなったことについては、偏差値には直接の責任はない。偏差値を使って伝えられる受験・進学情報のなかに、わが国の教育のあり方とか青少年の将来の幸福とかを真剣に考えている心ある人々のひんしゅくを買うようなたぐいのものが少なくなくなってきて、そのことがいかにも偏差値が低俗なものであるような印象を与えるようになったのである

 「ことに偏差値騒動の後の受験・進学関連情報はエスカレートして、慎みやゆかしさが乏しくなった。これは情報を作る人・偏差値を使う人の品性の問題である」(いずれも『よみがえれ、偏差値』P.242〜243)

 善意から生まれた数字がその後、悪者扱いされるというのも不思議な話。偏差値は受験生を助けるために考案されたものであって、決して受験生を苦しめるための存在ではありません。ましてや人や学校を格付けするためのものでもありません。

 偏差値を使えば、自分が平均からどのくらい離れた位置にいるのかが分かり、そして、あとどれだけ上げれば希望する道へ進めるのか、そのためにどの分野に力を入れればいいのかも分かります。

 偏差値というのはただそれだけのもので―― 受験生を支える味方だったのです。本当は。

キグロ

前のページへ 1|2|3       

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

昨日の総合アクセスTOP10
  1. /nl/articles/2408/31/news036.jpg 犬が同じ場所で2年間、トイレをし続けた結果…… 笑っちゃうほどの変貌が379万表示「そこだけボッ!ってw」 半年後の現在について聞いた
  2. /nl/articles/2408/30/news121.jpg 「地獄絵図」「えぐすぎやろ……」 静岡・焼津市の地下歩道が冠水 “信じられない光景”にネットあぜん
  3. /nl/articles/2408/31/news073.jpg 「よくこんなものが……」 米不足でメルカリに米出品→疑問の声も 運営は“禁止出品物”に「然るべき対応」
  4. /nl/articles/2408/31/news025.jpg 次男に塩対応の柴犬、いよいよ次男の帰省最終日を迎え…… 本音が出た瞬間に「不意に泣かせるのやめて欲しい」と感動の声
  5. /nl/articles/2408/30/news017.jpg 最上位グレードのハイエースを“50万円の底値”で購入したら…… 驚きの実物に「ある意味最強」「正直、羨ましい」
  6. /nl/articles/2408/30/news188.jpg 実写「着せ恋」、キャストに物議 海夢の再現度が高すぎるタレントを推す声あがる 「逆になんであかせあかりさん以外の人……」
  7. /nl/articles/2408/29/news193.jpg 「なんで欲しいと思ったんですか?」 酔った勢いで購入 → 後日届いた“まさかの商品”に反響 「理性あったら買わないw」
  8. /nl/articles/2408/28/news142.jpg 明石家さんま、69歳バースデー迎え長男から幸せ呼ぶ“輝かしいプレゼント” 同席した元妻・大竹しのぶは「最高の笑顔でした」
  9. /nl/articles/2408/31/news084.jpg 仕事早いな! 大谷翔平の愛犬“デコピン”、大反響の始球式がさっそくTシャツ化 「こ、これは……」「欲しい!」と爆売れの予感
  10. /nl/articles/2408/30/news113.jpg 「これ600円なの?」 大谷翔平が長く愛用しているデコピンの“おやつ入れ”、始球式で注目「おそろだった」「真美子さんが選んだのかな」
先週の総合アクセスTOP10
  1. ヒマワリの絵に隠れている「ねこ」はどこだ? 見つかると気持ちいい“隠し絵クイズ”に挑戦しよう
  2. 「米国人には想定できない」 テスラが認識できない日本の“あるもの”が盲点だった 「そのうちアップデートでしれっと認識しそう」
  3. 「苦手な芸能人は誰?」 あのちゃん、女性芸能人を“実名で即答” 「ここ最近で一番笑った」「強すぎる」
  4. ホテルでチェックアウト、忘れ物で多いのは? ホテル従業員が教える「圧倒的に多い忘れ物」
  5. 乳がん闘病中の梅宮アンナ、抗がん剤治療で「髪の毛ほとんどなくなっています」 帽子かぶり「ああ、来たか」
  6. 「キティちゃんのお面だと思ったら……」 ひっくり返すと“まさかの正体”に11万いいね
  7. 「凄すぎる…」「ガチで滝」 “市ケ谷駅の冠水”が衝撃与える 階段に大量の水が流れる様子も…… 東京メトロに経緯を取材
  8. 「早すぎます」「一体なにが」 52歳ボディービルダー、訃報1週間前に最期の投稿で“人生初の試み” 恋人は「亡くなる数時間前まで普通にお出かけも」
  9. お盆で帰省した次男に、柴犬も猫もまさかの反応→どちらも豹変して爆笑 「涙出てきました」「おもろ可愛過ぎ(笑)」
  10. 着陸する戦闘機を撮ったはずが…… タイミングが絶妙すぎる1枚に「一部の専門家には貴重な一枚」
先月の総合アクセスTOP10
  1. 釣れたキジハタを1年飼ったら……飼い主も驚きの姿に「もはや魚じゃない」「もう家族やね」 半年後の現在について飼い主に聞いた
  2. 「もうこんな状態」 パリ五輪スケボーのメダリストが「現在のメダル」公開→たった1週間での“劣化”に衝撃
  3. 「コミケで出会った“金髪で毛先が水色”の子は誰?」→ネット民の集合知でスピード解決! 「優しい世界w」「オタクネットワークつよい」
  4. 庭で見つけた“変なイモムシ”を8カ月育てたら…… とんでもない生物の誕生に「神秘的」「思った以上に可愛い」
  5. 「米国人には想定できない」 テスラが認識できない日本の“あるもの”が盲点だった 「そのうちアップデートでしれっと認識しそう」
  6. ヒマワリの絵に隠れている「ねこ」はどこだ? 見つかると気持ちいい“隠し絵クイズ”に挑戦しよう
  7. 「昔はたくさんの女性の誘いを断った」と話す父、半信半疑の娘だったが…… 当時の姿に驚きの770万いいね「タイムマシンで彼に会いに行く」【海外】
  8. 鯉の池で大量発生した水草を除去していたら…… 出くわした“神々しい生物”の姿に「関東圏では高額」「なんて大変な…」
  9. 「ごめん母さん。塩20キロ届く」LINEで謝罪 → お母さんからの返信が「最高」「まじで好きw」と話題に
  10. 「なんでこんなに似てるの」 2つのJR駅を比較→“想像以上の激似”に「駅名だけ入れ替えても気づかなそう」